4 生命主義と創造主義

生命主義と創造主義

 そんなら日本にっぽん精神せいしんとは、どういふ意義を有するか。その說明せつめいは、一見、簡單かんたんなやうで却々なかなかむづかしい。この數年來すうねんらい國家こっか主義の勃興ぼっこうと共に、到るところ、日本精神せいしんく人々は多いが、その意義を現代的にわかり易く、つ新しく說いたものが存外ぞんがいすくない。したがつて、「日本精神せいしんとは何ぞや」といふことが、わかつてゐるやうで、そのじつ、わかつてゐない氣味き みがある。

 それらのてんに考へ及び、わたくし先般せんぱん、『日本精神せいしんの本質』(雜誌『經濟往來』昭和九年三月號)についての一考察を發表はっぴょうした。それにおいて、わたくしは六つの要素をげ、それにより、日本精神せいしんの意義をいたのである。それは、(第一)みち實行じっこう實踐じっせんに重きを置くこと(第二)生命主義・創造主義的なこと(第三)中正ちゅうせい不偏ふへんなこと(第四)輳合そうごう・調和に長ずること(第五)積極的に進取しんしゅ膨脹ぼうちょうを旨とすること(第六)明朗めいろうなことなどである。

 (第一)道の實行じっこう實踐じっせん重點じゅうてんを置くところに日本精神せいしんの一要素がある。すでに日本はみちくにであることを述べたが、その使命上、當然とうぜん道の實行じっこう實踐じっせんといふことが、本質を形造る重要性であらねばならぬ。すなわち皇室を中心として、內外に皇道こうどう宣布せんぷするといふのは、すなわちこの事にほかならぬ。かの祭政さいせいの旨やかむながらの道や報本ほうほん反始はんしの考へなども、すべて日本の道義どうぎ建國けんこく精神せいしん胚胎はいたいしてゐる。日本の皇室は、の中心、主體しゅたいであらせられ、また本源ほんげんであらせられる。積慶せっけい重暉ちょうき養正ようせいの三大綱だいこう實現じつげんまた當然とうぜん、皇室の御力おちからたねばならぬ。かむながらの道も祭政さいせいの旨もまたその大きい御力おちからのもとに具體ぐたい化せられる。かくして皇道こうどうを內外に宣布せんぷして、道義どうぎの光を四かいに及ぼすところに、日本精神せいしんの重要性がある。支那し ななどでは、道義についての理解がなりに發達はったつしたけれども、度々、易姓えきせい・革命が起り、國民こくみんの心も散漫で、道義の實踐じっせんには冷淡だつた。そこに日本と支那し なとの間に大きい相違がある。かの本居もとおり宣長のりながが、「日本は、道義上、ことげせぬくにだ」とつたのは、必ずしも、理論にまづいくに、理論に長ぜぬくにとしたのではない。くだくだしき、用もないことについてははぬ、こちたく鯱子しゃちこつた理窟りくつはいはぬ。左樣そ うしたてんに力を入れるよりも、より多く道の實踐じっせんにつとめるといふ意味を宣揚せんようしたのだ。今日こんにち宣長のりながの言葉をそのままに信じて、日本精神せいしん主義は、理論を超越してゐると早合點はやがてんするのは短見者たんけんしゃ流のことだ。結局、空論・空言くうげんはいする迄で、道について必要な理論を構成すること迄も否定したのではない。へると、日本は道義の實行じっこう忠實ちゅうじつくにだとふ旨を揚言ようげんした迄だ。ただここに一言せねばならぬのは、藤原政治及び武家政治が、はなはだしく、道の實踐じっせん實行じっこうを妨げたことである。何となれば、藤原氏自家じ か中心の政治を行つてブルジヨア氣分きぶん陶酔とうすいし、武家―源氏・平氏などは、覇道はどうのもとに武斷ぶだん專制せんせいつたからだ。けれどもそれは正道せいどうでなく、邪道じゃどうであつて、日本精神せいしんの本質には、何らのかわりがない。やはり、道の實踐じっせん實行じっこうといふことが、その大きい一要素をしてゐる。

(第二)日本にっぽん精神せいしんが生命主義的・創造主義的だとは、どんな意味か。それは、哲學てつがく上から考察しての話である。けだ哲學てつがくの上からすると、西洋では理智り ちに重きを置き、情意じょうい輕視けいしするが、日本では、情意じょういしゅとし、理智り ちきゃくとした。したがつて、西洋の哲學てつがく思想は宇宙の根本義こんぽんぎ唯心ゆいしん又は唯物ゆいぶつの一げんによつて解釋かいしゃくしようとつとめ、それが近世にると、全く唯物ゆいぶつ本位ほんいの見方となり、宇宙の根本義を論定するに至つた。ここに西洋哲學てつがく思想の大きい弊源へいげんよこたはつてゐる。かうした思想傾向を極端に表明したのは、ビユヒネル(一八二四―一八八三)で、「世界の秩序を保つてゆく原動力は、かみではなく物質だ。生命なるものは自發じはつ的に生じた物質の結合で、精神せいしん活動とは外來がいらい刺戟しげきによつて、のう灰白質かいはくしつの上に起された運動だ」とした。モレシヨツト(一八二二ー一八九三)もまたぼ同じ考へを述べてゐる。が、本來ほんらい人間は物質のみから成つたものではなく、物質以外に思議し ぎすべからざる靈妙れいみょう作用を有してゐることも屢々しばしば見る以上、ただ物質の塊の運動だとして、簡單かんたんに片付けてしまふわけにはゆかない。

 かうした缺點けってんは、近來きんらい聰明そうめいな西洋哲學てつがく者の間でも氣付き づき、次第に生命主義的な考へを有するやうになつた。ひかへると、理智り ち一方の思索をやめ、情意じょういをも加へて、新しい解釋かいしゃくをするやうな傾きを生じた。その代表者の一人に、ベルグソン氏がある。

 日本では、古代から生命主義の哲學てつがく思想を有し、それがすべての事象じしょう解釋かいしゃくしてゆく有力な原理ともなつた。生命主義とは物にかたよらずして物をはぐくみ、心に偏らずして心をはぐくみ、この二つを一貫し、統一してゆく生命力を認識する考へ方だ。生命主義の哲學てつがくでは、宇宙の創造・發育はついく・生成をすべて大生命力の支持によるとする。その大生命力が宇宙天人てんじんを一貫してえざる活動をつづけ、萬物ばんぶつを生成してゆく。本來ほんらい、人間は、西洋の唯物ゆいぶつ哲學てつがく解釋かいしゃくする如く、物質のみから成つたわけでなく、印度いんど支那し な哲學てつがくくやうに心からのみ成つたのではない。物心ぶっしん二面から成り、それが生命力の支持によつて云爲うんいし、行動する。この意味で人間は宇宙の縮圖しゅくずだともへよう。したがつてただ人間は機械的に動くものではなく、唯物ゆいぶつ唯心ゆいしんへんして行動するわけのものでないことが明瞭めいりょうだ。すなわち生命力の動くままに、生命力の命ずるがまま云爲うんいする。かうした上からへば、人間の歷史れきしは、生命力發達はったつ史だとしょうすることが出來で きよう。ここに人間の自由があり、創造があり、光明があり、希望がある。

 以上の如く、宇宙を支持し、人間を支持し、その一切の活動・機能を統一するものは、物心ぶっしんを超越して、これを指導する大生命力であると考へるとき、宇宙の神祕しんぴ・人間の靈妙れいみょう作用も、これを正しく了解することが出來る。すなわちそれは、情意じょうい主體しゅたいとした哲學てつがく思想だともへよう。この生命主義こそは、古代日本人が腦裡のうりいだいた考へで、それはおのづから創造主義と結び付いた。かの日本の神々かみがみのうちで、最も重要な地位を占める高皇產靈尊たかみむすびのみこと神皇產靈尊かみむすびのみこと御名おんなのうちにある「ムスビ」といふことは、創造といふ意味である。すなわち新しく、意義あるものを生命主義のもとに、造り出してゆくといふことが、「ムスビ」の語中に含まれてゐる。また天照大御神あまてらすおおみかみが、精神せいしん文化の發達はったつのために正義を重んぜられ、物質上の進歩のために產業さんぎょうに力を入れられて、物心ぶっしん二面の伸展しんてんに留意せられたことは生命主義・創造主義のあらはれだと見られる。以上の如く、日本精神せいしんは、哲學上、生命主義であり、創造主義である。