1 詔勅の表現・形式

詔勅の表現・形式

 詔勅しょうちょくと日本精神せいしんとについての交渉・關係かんけいは、すでに各篇において部分的にれてゐるが、これを輳合そうごう大觀たいかんし、そのつてきたるところをあきらかにするのが本文の任務である。詔勅には二つの形式があつて、一つは漢文體かんぶんたいを以てせられ、一つは宣命せんみょうの形式を用ゐられてゐる。しかなが宣命せんみょう漢文體かんぶんたいとは、その形式をことにするだけで內容の上には、何ら形式のために影響されたところはない。すなわち內容を表現する方法の上にかわつたところがあらうとも、天皇御思召おんおぼしめしつたへる上には、そこにいささかことなつたてんはないと思はれる。

 ただ本居もとおり宣長のりながの如きは、日本的といふ意味から宣命せんみょうの形式を尊重し、漢文體かんぶんたいの表現については、漢臭かんしゅう支那的)があるのを遺憾いかんとする旨を述べてゐる。國學こくがく主張の立場から、『日本書紀』よりも、『古事記』の方がまさつてゐるとした宣長のりながが、漢文體かんぶんたいの表現を遺憾いかんとしたのはむを得ない事であつたらう。れは「世にいはゆる宣命せんみょうは、すなわいにしへの詔勅しょうちょくにして上代かみつよ詔勅しょうちょくは、ほかになかりしを、よろずの事、からさまにならひたま御世み よ々々み よとなつては、詔勅しょうちょくも、漢文からぶみのを用ひらるること多くなつて、のちの世に至つては、つひにその漢文からぶみなる方を詔書しょうしょ勅書ちょくしょとはいひて、もとよりの皇國言みくにことばのをば、分けて宣命せんみょうとぞいひならへる」(『續紀歷朝詔詞解』)とつて、宣命せんみょう尊重論を唱へた。

 宣長のりながは更に宣命せんみょうの言葉の古雅こ がおもむきに富むことを賞揚しょうようし、つそのみ方についても、一定した儀式のあつたことを記し、『三だい實錄じつろく』に二ほん仲野なかの親王が、讀法よみかたすぐれてをられたことをげてゐる旨をも述べた。宣長のりながが以上の如く宣命せんみょうを尊重した所以ゆえんは、表現の方法が主として日本的で、支那し な的でないとする上にあつた。はい支那し な標榜ひょうぼうした國學こくがくの立場からはいきお左樣そ うした結論を導き出してくることはむを得まい。

 が、宣長のりながふところは、すこしくへんしたてんがある。れは、支那しなふう漢文かんぶんによると、往々その思想もまた支那化するといふことをうれへたけれども、一概に左樣そ うとははれぬ。かの『六國史りくこくし』の如きは、『日本書紀』を始め、皆官選かんせん歷史れきしで、樣式ようしきの上で、漢文を用ゐようとも、その事實じじつ、その精神せいしんは、日本的であり、日本中心である。大體だいたい支那的ではない。このてん是認ぜにんした德富とくとみ蘇峰そほう氏は、本居もとおり宣長のりなが流の見解をしりぞけ、「從來じゅうらい國學こくがく者などは、『日本書紀』があまりに漢文體かんぶんたいを採用し、その記事に文飾ぶんしょく多きを見て、これを輕視けいしし、『古事記』が日本本來ほんらいの言葉そのままつたへたる、ほとんど唯一の歷史であるかの如くす者も多いが、これは大なる見當けんとう違ひとはねばならぬ」と斷言だんげんし、その理由をの如く述べられてをられる。

  元來がんらい、『古事記』は元明げんめい天皇和銅わどう五年正月、太安麻呂おおのやすまろ稗田ひえだの阿禮あ れ口授こうじゅを筆記して獻上けんじょうしたるもの。しかして『日本書紀』は元正げんしょう天皇養老ようろう四年五月、舍人とねり親王たてまつられたるものにて、その中間七年、足掛け九年ののち出來で きたるものである。『古事記』編纂の目的は、はば日本の古事こ じ傳說でんせつを保存するにあつたが、『日本書紀』の目的は、たん舊記きゅうきの保存ばかりでなく、儼然げんぜんたる日本こくの歷史を編纂して、これを世界に―當時とうじおいては支那し なに―示すの大規模であり、しからざる迄も、すくなくとも、世界と對立たいりつする見解のもときたりたるものにて、もとより大掛りのものであつた。(中略)したがつてその材料も『古事記』に比すれば、すこぶる多きを加へてゐた。しかも重大なる事件には、凡有あらゆる方面より資料を集め、そのつたふるところたがいに一致せざるにかかわらず、これを列擧れっきょして、讀者どくしゃをしてみずから比較對照たいしょうし、みずか選擇せんたくせしむるの自由をあたへてゐる。ゆえに『日本書紀』は、書紀の編纂それ自身が、すでに日本國民こくみん自覺じかくの表現にして、我等は此書このしょの編纂を以て、日本國民こくみん自覺じかく劃時期かくじきと認めねばならぬ。すなわち日本國民こくみん國民こくみん精神せいしん發揮はっきしたる一の分水嶺ぶんすいれいと認めねばならぬ。さればその文字の支那し な臭味しゅうみ多きも、決して不思議ではない。すなわ支那人に向つて、「汝等なんじらつほどの歷史は、此方こちらにもつてゐる」といふ氣分きぶんを以て作りたるものなればあたかも西洋人がフロツコオト着ればわれまたフロツコオトを着、西洋人がシルクハツトかぶれば、我もまたシルクハツトを被るといふ如き、これを以てたん外國がいこくかぶれといふは、いまだその肯綮こうけいあたつたものではない。(『日本精神講座』第二卷)

 蘇峰そほう氏は、ことばを添へ、「言葉は着物である。實體じったいではない。着物が間に合はぬために、一寸ちょっと借着かりぎをしたからとて、その實體じったいまでも借物かりものといふべきでない」として、本居もとおり宣長のりなが流の解釋かいしゃく反對はんたいした。かうしたてんについてはすでに早く故三浦周行しゅうこう氏も、同じやうな考へを『日本史研究』において、述べたことがある。

 氏は當時とうじ漢文かんぶんを以て、國史こくしを記述することの困難だつた事情を詳しく記したのち、「これ(日本書紀)を以て、一部の國學こくがく者のいふが如く、一概に漢意からごころのヒガゴトに奪はれて大和心やまとごころまことを失つたものとくのは首肯しゅこうし難い。聖德太子しょうとくたいし憲法斯樣かよう漢籍かんせき成句せいくつづり合せたやうなものではあるけれども、その條文じょうぶんに含まれた精神せいしんは、當時とうじ横暴を極めて弑逆しいぎゃくをさへへてするに至つた閥族ばつぞくに反抗して、天皇中心主義の大改革を意味したものであつて、大化たいかの改新も全く太子の憲法精神せいしん實現じつげんされたに過ぎぬといへないこともない。この日本書紀の如きもまたさうである。成程なるほど文章には漢文風の潤色じゅんしょくが多い。しか比々羅木之ひ ひ ら ぎ の八尋矛やひろほこといふべきところを斧鉞ふえつと書いたからとて、それは些細な字句のすえで、見るものが見れば、ぐにわかることでもあるし、今述べたやうな事情(支那の文物制度を急激に模倣し採用した事)を知れば、別にとがめ立てる程でもない」と見て、『日本書紀』が國史こくしとして、內容上、立派に權威けんいを有することを論定した。

 黑板くろいた勝美かつみ氏もまた同じく『日本書紀』を尊重してゐるが、ただ「本書は漢文體かんぶんたいにせられため、上代じょうだい宣命せんみょうたいたる詔勅しょうちょくまで皆これ翻譯ほんやくされたのは、日本紀しょくにほんぎなどに遺憾いかんである」(『國史之研究』)とし、いくらか本居もとおり宣長のりながせつに同情した口吻こうふんを示してゐる。左樣そ ういふ遺憾いかんについては、これを認めてよいと思はれるが、いろいろ當時とうじの事情を知れば、この遺憾いかんも解消されざるを得まい。この事は、『日本書紀』以後に出た官選かんせんの歷史で補はれ、『日本紀しょくにほんぎ』では、宣命せんみょうをそのまま、原文通りに謹載きんさいしてゐる。また漢文の形式によつた以下の歷史『日本後紀こうき』その他も、史實しじつ上、大體だいたいしんを置けると見てよい。ただ漢文流の修飾あるがために、これ本居もとおり流に見ることは、妥當だとうだとへない。たとひ部分的に支那し なめかした修辭しゅうじ成句せいくがあつたとしても、本意はそこにないとふ事をりょうとすべきである。

 以上の考察により、わたくしらが第一に考へねばならないてんは、それが漢文體かんぶんたい詔勅しょうちょくであらうと、宣命せんみょうであらうとも、ただちにその精神せいしんのあるところを看取かんしゅし、拜察はいさつしなければならぬ事である。すなわち着物よりも、實體じったいを見ることが肝要であらねばならぬ。ことに『日本書紀』においては、かうした心持こころもちが何よりも大切である。