5-1 再び德川家茂に下し給へる宸翰 孝明天皇(第百二十一代)

再び德川家茂に下し給へる宸翰(第一段)(元治元年正月二十七日 維新史料)

ちん不肖ふしょうもって、つと天位てんいみ、かたじけなく萬世ばんせい無缺むけつ金甌きんおうけ、つね寡德かとくにして、先皇せんこう百姓ひゃくせいとにそむかんことおそる。就中なかんずく嘉永かえいねん以來いらい洋夷よういしきりに猖獗しょうけつ來港らいこうし、國體こくたいほとんいうべからず。諸價しょか沸騰ふっとうし、生民せいみん塗炭とたんくるしむ。天地てんち鬼神きじんも、ちんなんとかはん。嗚呼あ あこれたれあやまちぞや。夙夜しゅくやこれおもう止事やむことあたはず。かつ列卿れっきょう武將ぶしょうこれせしむ。如何いかんせむ、昇平しょうへい二百餘年よねん威武い ぶもっ外寇がいこう制壓せいあつするにらざることを。みだり膺懲ようちょうてんあげむとせば、かえっ國家こっか不測ふそくわざわいおちいらむことをおそる。幕府ばくふ斷然だんぜんちん擴充かくじゅうし、十餘世よせい舊典きゅうてんあらため、そとには諸大名しょだいみょう參覲さんきんゆるめ、妻子さいしくにかえし、各藩かくはん武備ぶ び充實じゅうじつれいつたへ、うちには諸役しょやく冗員じょういんはぶき、入費にゅうひげんじ、おおい砲艦ほうかんそなえもうく。じつこれちんさいわいのみにあらず、宗廟そうびょう生民せいみんさいわいなり。去春きょしゅん上洛じょうらく廢典はいてん再興さいこうせしこと、もっと嘉賞かしょうすべし。あにはからんや、藤原ふじわら實美さねとみ鄙野ひ や匹夫ひっぷ暴說ぼうせつ信用しんようし、宇內うだい形勢けいせいさっせず、國家こっか危殆きたいおもはず、ちんめいためて、輕率けいそつ攘夷じょういれい布告ふこくし、みだり討幕とうばくおこさんとし、長門ながと宰相さいしょう暴臣ぼうしんごとき、其主そのしゅ愚弄ぐろうし、ゆえなきに夷船いせん砲撃ほうげきし、幕使ばくし暗殺あんさつし、ひそか實美さねとみ本國ほんごく誘引ゆういんす。かくごと狂暴きょうぼうやからかならずつみせずんばるべからず。しかりいえども、みなこれちん不德ふとくいたところにして、じつ悔慙かいざんへず。

【字句謹解】◯不肖の身 親に似ない不德ふとくの身の義で、孝明こうめい天皇御謙辭けんじである ◯に 早くから ◯天位を踐み 皇位かれること。我が皇位高天原たかまのはらにまします天照大御神あまてらすおおみかみ神勅しんちょくつて決定されてゐるので天位てんいおおせられた ◯萬世無缺の金甌 天壤てんじょう無窮むきゅう皇位のこと、とはきん小瓶こがめの義で、貴重な意味から皇位轉意てんいした ◯寡德 帝王としてとくの薄いこと ◯先皇 主として先帝仁孝にんこう天皇を意味す ◯百姓 國民こくみん一般 ◯背かん事を恐る 期待にそむきはしないかと常に心配となる意 ◯嘉永六年以來 嘉永かえい六年は皇紀こうき二五一三年にあたり、その六月にアメリカのペリイが浦賀うらがた。その後イギリス・ロシアなどが海邊かいへんを荒したことは『政治經濟けいざい篇』その他に略述した ◯洋夷 西洋の未開人の義で、アメリカ・イギリス・ロシアの人々を指す ◯猖獗 惡勢あくせいさかんなこと ◯來港 我がくに各地の港にて通商を迫ること ◯國體殆ど云べからず 我が光輝こうきある國體こくたいは今にもけがされようとしてゐる ◯諸價沸騰し 諸商品のあたいが非常に高くなること ◯生民 國民こくみんの意 ◯塗炭に困む 極端に生活難を生ずる事、どろは火の義で水火すいかの苦痛をいふ ◯天地鬼神 天地の神々かみがみ及び諸人しょにんれい ◯夙夜 朝早くから夜おそくまで、一日中のこと ◯列卿 公卿く げの人々 ◯武將 諸大名中の有志者のこと ◯昇平 太平と同じ ◯二百餘年 德川とくがわ家康いえやす征夷せいい大將軍たいしょうぐんに任ぜられたのは後陽成ごようぜい天皇慶長けいちょう八年(皇紀二二六三年)で、孝明こうめい天皇元治げんじ元年(皇紀二五二四年)から約二百六十年以前である ◯威武 武力の意 ◯外寇 我がくにに攻め寄せる異國人いこくじん ◯制壓 鎭壓ちんあつと同じく、取りしづめること ◯妄に 勝手にの義で、十分それにたいする用意がなくこれおこなふこと ◯膺懲の典 異國人のあくらす軍 ◯却て 豫期よ きに反して ◯國家不測の禍に陷む 國家こっかが想像も及ばない程の災難に至る ◯擴充 その本質をたがへないでひろく世に示すこと。この語は『孟子もうし』にあるので有名となつてゐる。〔註一〕參照さんしょう ◯十餘世の舊典 十代以上もつづいたふるい規定 ◯參覲 諸大名が一年交替で領地と江戸とを往復する制度、參覲さんきん交代こうたいの事。〔註二〕參照 ◯武備充實 軍備を申し分なく用意すること ◯冗員 必要以上の無駄な人員 ◯入費 費用のこと ◯砲艦 大砲と軍艦と ◯宗廟 御先祖ごせんぞ御靈みたま ◯去春 文久ぶんきゅう三年のこと ◯上洛の廢典を再興せしこと 德川とくがわ將軍しょうぐん從來じゅうらい代每だいごとに京都にのぼ龍顏りゅうがんはいするのが例であつたが何時い つの間にかそれが行はれなくなつたのを、文久ぶんきゅう三年に家茂いえもち上洛じょうらくして今後の恒例としたことを意味する。とは京都にのぼること。は行はれなくなつた儀式 ◯嘉賞 喜ばしく思ふ ◯藤原實美 三じょう實美さねとみの事。〔註三〕參照 ◯鄙野匹夫 市井しせいにうろつく敎養きょうようのない人々のこと。これは攘夷じょうい斷行だんこう事每ことごとに騒ぎ立てた人々を指された ◯暴說 過激な主張 ◯宇內の形勢 世界の現狀げんじょう ◯危殆 危險きけん狀態じょうたい ◯朕が命を矯て 孝明こうめい天皇生來せいらい御穩和ごおんわにましまし、公武こうぶもと國策こくさくを行はうとの叡慮えいりょがあられたが、幕府は、その御期待に背く所が多かつた。は曲げる ◯攘夷の令を布告し 文久ぶんきゅう三年四月十一日に男山おとこやま幡宮まんぐう行幸ぎょうこうあり、節刀せっとう將軍しょうぐんたもうて攘夷令じょういれい實行じっこうせしめようとしたこと。その日家茂いえもちやまいしょうして供奉ぐ ぶせず、遂に五月十日を攘夷期じょういきと決した ◯妄に討幕の師を興さんとし 理由なく親征しんせい軍を奏請そうせいしたこと。〔註四〕參照 ◯長門宰相 長州ちょうしゅう藩主毛利もうり敬親たかちかの事 ◯愚弄 馬鹿にしてそのげんを用ひないこと ◯夷船を砲撃し しもせきでアメリカ船を砲撃ほうげきした事。〔註五〕參照 ◯幕使を暗殺し 文久ぶんきゅう三年七月、幕府が使番つかいばん中根なかね之丞のじょうを長州に派遣して說諭せつゆせしめると、長藩ちょうはん激徒げきとは、一之丞のじょうを殺してしまつたのである ◯私に實美等を本國に誘引す 所謂いわゆる卿落きょうおちとして國史こくし上著名な事件である。〔註六〕參照 ◯悔慙に堪へず 御身おんみとくの薄いのをなげいてもあまりあることであるとおおせられたの意。

〔註一〕擴充 『孟子もうし公孫丑こうそんちゅう章句しょうくじょうにはこの語が次のやうに見え、有名な部分となつてゐる。

 これりてこれれば、惻隱そくいんの心なきは人にあらざるなり。羞惡しゅうおの心なきは人にあらざるなり。辭讓じじょうの心なきは人にあらざるなり。是非ぜ ひの心なきは人にあらざるなり。惻隱そくいんの心はじんたんなり。羞惡しゅうおの心はたんなり。辭讓じじょうの心はれいたんなり。是非ぜ ひの心はたんなり。

 人にの四たんあるや、の四たいあるがごときなり。の四たんありてしかしてみずかあたはずとふ者は、みずかぞくする者なり。きみあたはずとふ者は、きみぞくする者なり。

 およわれに四たんある者は、みなひろめてこれたすことを知る。の始めて燃え、いずみの始めて達するがごとし。いやしくこれたさば、もって四かいやすんずるにり、いやしくこれたさざれば、もっ父母ふ ぼつかふるにらず。

〔註二〕參覲 參覲さんきん交代こうたいとは江戸時代の制度で、諸大名が一定の時期に江戸に伺候しこうし、しくは本國ほんごくに就くことをいふ。前者を參覲さんきんといひ、後者を交代こうたいといつた。この目的は全く德川とくがわ幕府が諸侯しょこうを規制しつその富裕を合法的に抑止よくしすることにあり、三代將軍しょうぐん家光いえみつ嘉永かえい十二年六月にこれを定め、同十九年五月に改定した。その後八代將軍しょうぐんの時に期限を改めようとしたことがあつたが、中止され、文久ぶんきゅう二年に至つて大改革を行つて、明治維新と共に自然消滅の形となつた。

〔註三〕藤原實美 三じょう實萬さねつむの子の實美さねとみのこと。天保てんぽう八年に京都で生れ、常に公卿く げ中の急進派の代表者として維新に大功たいこうあり、明治二十四年二月十八日にこうじた。詳細なでんは『雜事ざつじ篇』その他にゆずる。

〔註四〕妄に討幕の師を興さんとし 文久ぶんきゅう三年四月十一日の男山おとこやま行幸ぎょうこうの際に、家茂いえもち病氣びょうき口實こうじつとして供奉ぐ ぶしなかつたことは、非常に勤王きんのうの人々をいからせた。その前後に薩藩さっぱん生麥なまむぎ事件、長藩ちょうはんしもせき外艦がいかん砲撃ほうげきなどがあつても、幕府は常に馬耳ば じ東風とうふうぜんこれ關係かんけいしなかつたので、二事件が共にわれに不利であつただけにその無能を呪ふこえが大きくなり、遂に長藩ちょうはんを主とした御親征ごしんせい奏請そうせいについて朝議ちょうぎほとんこれに傾いた。ところが、松平まつだいら容保かたもり及び薩摩藩の中心人物がそれを一ぺんさせたのである。

〔註五〕夷船を砲撃し すで攘夷じょうい決行期が文久ぶんきゅう三年五月十日と定まつたので、幕府は事を未然に防ぐため、その事を諸外國に通知し、鎖國さこくしたが、彼等は承知しなかつた、その日に至つて攘夷じょうい上の急進論を持する長州藩しもせき通航つうこうしたアメリカ船に發砲はっぽうし、つづいてイギリス・フランス・オランダの軍艦をも砲撃ほうげきした。翌元治げんじ元年の八月に至ると、この時に砲撃を受けた四こく聯合れんごう艦隊が打揃うちそろつてしもせき襲擊しゅうげきしたので、長藩ちょうはん必死の防戰ぼうせんこうなく遂にこうじてこの事件を終つた。のちに幕府の長州征伐せいばつに際して、藩士ちょうはんしがよく團隊だんたい行動を固めて幕兵ばくへいに勝つたのは、この時の苦い經驗けいけんによるといはれてゐる。

〔註六〕私に實美等を本國に誘引す 京都守護職しゅごしょく松平まつだいら容保かたもり長藩ちょうはん御親征ごしんせいを促す計畫けいかくを知り、薩藩さっぱん及び公卿く げ溫和おんわ論者と結んで朝議ちょうぎを一ぺんさせることに成功した。その結果、京師けいし警衞けいえい薩藩さっぱんの手に移り、長藩ちょうはんの在京者は退去するやう命ぜられた。當時とうじこころざしを同じくした朝臣ちょうしんじょう實美さねとみ以下は參朝さんちょうとどめられ、御親征ごしんせいはその時期でないことを勅諭ちょくゆされた。藩士ちょうはんし實美さねとみ無實むじつを訴へたが許されず、加ふるに藩主の上京を禁ぜられたので、遂に再擧さいきょを計る目的で、文久ぶんきゅう三年八月十五日に二千人の藩士は、三條西じょうにし季知すえとも、三じょう實美さねとみ東久世ひがしくぜ通禧みちよし壬生み ぶ基修もとのり、四じょう隆謌たかうた錦小路にしきこうじ賴德よりのりさわ宣嘉のぶよしの七廷臣ていしん擁護ようごして長門ながと西下せいかした。世にこれを七卿落きょうおちあるいは七きょう都落みやこおちしょうし、勤王きんのうの士は續々ぞくぞくと長州にあつまつた。

〔注意〕本宸翰ほんしんかん元治げんじ元年正月二十七日に德川とくがわ家茂いえもちくだたまわつたもので、內容は前宸翰しんかんかわりはなく、公武こうぶ合體がったいの上、擧國きょこく一致して國難こくなん打開を計畫けいかくされたものである。なほ孝明こうめい天皇御宸翰ごしんかんとして注意されるものに、

(一)九じょう尙忠なおただたまへる宸翰しんかん安政六年正月十二日、維新史料)

(二)三じょう實萬さねつむに賜へる宸翰(安政六年四月四日、維新史料)

(三)三條實萬に賜へる宸翰(安政六年五月三日、維新史料)

(四)松平まつだいら容保かたもりに賜へる宸翰(文久年間、保科家所藏)

(五)松平容保に賜へる宸翰(文久年間、維新史料)

などが本兩宸翰りょうしんかん以外にはいされる。

【大意謹述】ちんは父上にも似ず愚鈍ぐどんな身でありながら早くから卽位そくいし、恐れ多くも天地と共に永久不變ふへん皇統こうとうを受けいではゐるが、平常からとくが薄く、先帝及び日本國民こくみん一般の期待を裏切りはしないかと心中いつもつつしみ恐れてゐる。朕の世となつて以來いらい、目立つて世は騒がしくなつてた。特に嘉永かえい六年の米使べいし來朝らいちょう以來いらい、未開の異國人いこくじんえ間なく惡勢あくせいをほしいままにして、我が各所の港灣こうわんきたり、そのために三千年らい光輝こうきある國體こくたいすこぶる不安になつて、口にするのも恐ろしい程の危險きけん狀態じょうたいにある。それに物價ぶっか騰貴とうきし、國民こくみんは生活難のため水火すいかくるしみを負うてゐる。天地の神々かみがみ及び諸人しょにんれいも、朕を何といつて批評するであらうか。ああ、誰の過ちでこのやうな不安な國狀こくじょうになつたのだらうか。朕は一日中じつちゅうこれを忘れたことがない。

 ちんかつて、國難こくなん打開を目的として、諸公卿く げ諸侯しょこう中の重立おもだつた者などに會議かいぎさせたことがある。が、二百年の太平は、國人こくじんから武力の尊ぶべき所以ゆえんを全然忘れさせて、今となつては、武力を用ひて、外來がいらい異國人いこくじんしずめることは及びもつかないのを如何い かにしよう。この際、まん一不用意に惡人輩あくにんはいらす軍をげたとて、豫期よ きに反して、必ずその結果は我がくにが思はない災難を受けるにきまつてゐる。朕はこのてんを深く憂慮する。今囘こんかい幕府が大決心のもとに朕のこの意をひろく外面にひろめ、十代以上もつづいた各種のふるい儀式を改革し、外部方面では各年每ねんごと出府しゅっぷ歸藩きはんしてゐた諸大名の參覲さんきん交代こうたい制度を從來程じゅうらいほど嚴重げんじゅうにせず、今まで江戸に置いた妻子を歸國きこくさせ、各藩にたいしては武力を養ひ、戰鬪せんとうに必要な用意を致させ、內部方面では諸部の人員整理を行ひ、無駄な費用を一切除いて大砲・軍艦の設備をだいにした。じつに幕府の覺醒かくせいは、朕がために幸福こうふくであるのみでなく、御先祖ごせんぞ及び一般國民こくみんにとつても喜ばしいことである。その上去年の春にはなんじは京都に出て天機てんきはいし、過去永い間はいされてゐた將軍しょうぐん上洛じょうらくの儀式を再びおこしたのは、朕が最も喜ぶてんで、朝廷と幕府とはこれを機として協力のもと異國人いこくじんたいすることが出來で きるのである。

 しかるにちんのこの滿足まんぞくも次にく事件によつて消滅してしまつた感がする。誰もが知るやうに、三じょう實美さねとみらが市井しせい敎養きょうようなく身分の低い者共ものどもの過激な攘夷說じょういせつを信用し、世界の現狀げんじょうを探らうともせず、我が國家こっかげんに置かれた危險きけん樣子ようすをも意にかけず、公武こうぶ合體がったいを主とする朕の命にしたがはない。すなわち朕の命令を曲げて、輕々かるがるしく異國人いこくじん打拂うちはらひの命令を諸方面にひろく告げ知らせ、理由なく幕府征伐せいばつの軍をおこさうと計畫けいかくする一方、それと結んだ長門ながと毛利もうり敬親たかちか臣下しんかで過激な一部の者共ものどもは、藩主を輕侮けいぶし、口實こうじつもなく異國艦いこくかん砲撃ほうげきを加へ、幕府の使者を暗殺し、祕密裡ひみつり實美さねとみなど七人の廷臣ていしん本國ほんごくに誘ひ出してしまつた。このやうな正氣しょうきを外れた狂人同樣どうようの者は、必ず嚴重げんじゅう處罰しょばつしなければならないが、これといふのもみな朕のとくのないのが原因だと考へると、つよ後悔うかいの念におそはれてならぬ。

【備考】當時とうじ孝明こうめい天皇は、飽迄あくまでも、溫和おんわな方針を執られ、一切の過激、急進の傾向には、反對はんたいせられた。それはつまり、公武こうぶを主眼とされためでもあり、國家こっかの重きに任ずる立場から輕率けいそつの行動をとなされたからである。この事については近衞家このえけたまわつた御宸翰ごしんかんおいても言及せられ、「元來がんらい攘夷じょうい皇國こうこくの一大重事じゅうじ何共なにとも苦心くしんがたそうろうながら三じょう初め暴烈ぼうれつ所置しょち、深く痛心つうしんの次第、いささかもちん了簡りょうけんを採用せず、の上、言上ごんじょうもなく、浪士輩ろうしはいもうしあわせ、勝手次第所置しょち多端たたんおもてには朝威ちょういあい立てそうろうなど申候もうしそうらども眞實しんじつ朕の趣意しゅいあい立たず」とおおせられてゐる。