4-1 德川家茂に賜へる宸翰 孝明天皇(第百二十一代)

德川家茂に賜へる宸翰(第一段)(元治元年正月二十一日 維新史料)

嗚呼あ あなんじ方今ほうこんの形勢けいせい如何いかんる。うちすなわち紀綱きこう廢弛はいし上下しょうか解體かいたい百姓ひゃくせい塗炭とたんくるしむ。ほとん瓦解がかい土崩どほういろあらわし、そとすなわち驕虜きょうりょ大洲だいしゅう凌侮りょうぶけ、まさ併呑へいどんわざわいかからんとす。その危事あやうきことじつ如累卵るいらんのごとくまた如燒眉しょうびのごとしわれこれおもいて、よる不能寢いぬるあたわずしょく不下喉のどをくだらず嗚呼あ あなんじこれ如何いかんる。これすなわちなんじつみ不非あらず不德ふとくいたところ其罪そのつみ在朕身あがみにあり天地てんち鬼神きじんわれなにとかいわむ。なにもっ祖宗そそう地下ち かまみゆことんや。よっおもえらく、なんじ赤子せきしわれなんじあいすること如子このごとしなんじわれしたこと如父ちちのごとくせよ。その親睦しんぼく厚薄こうはく天下てんか挽囘ばんかい成否せいひ關係かんけいす。あにおもきにあらずや。嗚呼あ あなんじ夙夜しゅくやこころつくし、焦思しょうしつとめ征夷府せいいふ職掌しょくしょうつくし、天下てんか人心じんしん企望きぼう對答たいとうせよ。

【字句謹解】◯嗚呼 感歎詞かんたんしで別に意味はないが、至上の御身おんみ當時とうじの形勢を御心痛ごしんつうのあまり、感極まつてはっせられたものとはいする ◯ 德川とくがわ家茂いえもちを指す ◯方今形勢 現在日本の世の動きと、その樣子ようす ◯內は 日本國內こくないはの義で、內政方面のことをおおせられたもの ◯紀綱 國家こっかを治むる根本の方針 ◯廢弛 根本となる大小の方針が全くなく、又、わずかにあるものも少しも實行じっこうせられてゐない義 ◯上下解體 社會しゃかい上、身分の上の者と下にある者とが離れ離れの心となつて、一致して內政革新を斷行だんこうするを失ふこと ◯百姓 國民こくみん一般の義で、必ずしも農夫を意味しない。本來ほんらいこの語は全國民こくみん總稱そうしょうで、我が日本が農業こくであつたから、農夫を主としたものに使用されたのである ◯塗炭に苦む どろは火の義で、水火すいかの苦痛 ◯瓦解 瓦のやうにくだけちる ◯土崩 土壤どじょうのやうにもろくくづれる ◯外は 前文のたいしたので、外政方面はの意 ◯驕虜 きょうは自分の力を盲信もうしんして相手をあなどる。りょはこの場合、異國人いこくじんを意味する ◯五大洲 全世界の義で、佐久間𧰼山ぞうざんの有名な詩などにうたはれた如く、當時とうじこの語が流行してゐた ◯凌侮 あなどり ◯正に まさにと同意に用ゐられてゐる。今にも…しようとしてゐる狀態じょうたいをいはれた ◯併呑之禍 我が神國しんこく日本が他國たこくの領土に併合されてしまふわざわい ◯如累卵 累卵るいらんの如く、卵を重ねたやうに非常に不安定で、危險きけんはなはだしい事 ◯如燒眉 燒眉しょうびの如し、まゆに火がついたやうに、この上もなく危險きけんなこと。共に國情こくじょうの不安に大御心おおみこころろうせられた御意ぎょいである ◯朕之を思て これとは前文の「うちすなわち」から「併呑へいどんわざわいかからんとす」までを指された ◯夜不能寢 ぬるあたはず、夜間も熟睡することが出來で きない。は熟睡の義 ◯⻝不下喉 しょくのどくだらず、⻝事をしても⻝物の持つ味をその通りに感じたことはない。ゆつくりあじわつて⻝事も出來ないとのおおせで、前文「ぬるあたはず」と共に、はなはだしい御心痛ごしんつうつよく表現されたのである ◯朕が不德の致す所 皇道こうどう國家こっかは武力で民衆を威服いふくさせるものではなく、帝王の德澤とくたく心服しんぷくさせるのが主意となつてゐる。ゆえに帝王の德澤とくたく下民かみんわたれば、そのくには平和となり、わたらないか、又は帝王にとくがなければ天下がみだれる。このを逆に天下が平和なのは帝王にとくがあり、みだれるのはとくのない證據しょうこだといへる。今、孝明こうめい天皇が「不德ふとくの致す所」とおおせられたのは、恐れ多くもこの精神せいしんもとになされたので、次句の「つみが身にり」と共に、如何い かに世の不安に御心痛ごしんつうあり、古聖王こせいおうの如くに責任を感じたもうたかが分明わ かる ◯天地鬼神 天地の神々かみがみ及びその他の人々を祭つたかみのことで、とは人靈じんれいの意である ◯祖宗 御先祖ごせんぞ代々のこと ◯地下に見る 地下にまします御先祖ごせんぞと面接することが出來ようか、はずかしくて出來はしないとの意 ◯赤子 國民こくみんのこと ◯親睦 相互に親しみ合ふ ◯天下挽囘の成否 天下のいきおい恢復かいふくするかいなか。これは朝廷と幕府とが親しみ合ふことが厚ければ天下は再び昔日せきじつ隆盛りゅうせいにかへり、薄ければ光輝こうきある我國わがくに衰亡すいぼうする結果になるかも知れぬとおおせられた言葉 ◯夙夜 朝早くから夜おそくまで ◯心を盡し 出來る限り注意をする ◯焦思 この事ばかりを考へて、に何も考へない ◯征夷府の職掌 征夷せいい大將軍たいしょうぐんとしての行はなければならない職務のことで、異國人いこくじん討滅とうめつ排斥する意 ◯企望 期待 ◯對答 滿足まんぞくさせるやう處置しょちする。

〔注意〕本宸翰ほんしんかん萬延まんえん三年八月十八日の薩長さっちょう二藩の衝突・七卿落きょうおち・五じょう及び生野いくのらん・二條城じょうじょう會議かいぎて、元治げんじ元年正月に上洛じょうらくした德川とくがわ家茂いえもちたまはつたもので、穩健おんけんなる天皇君臣くんしん一致、公武こうぶ思召おぼしめしを示されてゐる。家茂いえもちたまはつた宸翰しんかんは本書から六日後の二十七日にもあり、同じ意を示されたのをはいするにつけても、いかなるてん叡慮えいりょそんしたかが分明わ かる。當時とうじの世相についてはすでに『政治經濟けいざい篇』その他に記した。

【大意謹述】ああ、なんじ德川とくがわ家茂いえもちよ、一たい、現在の世間の動きと有樣ありさとをどう考へるか。ちんは、內政・外交共にかなえ輕重けいちょうを問はれる重大時機だと斷定だんていせざるを得ない。內政方面はどうか。國家こっかを取締る大小の根本方針の多くは確立せず、確立した一部も實行じっこうされねば、效果こうかげる事なく、上に立つ統治者と下に居る被統治者との心がばらばらになり、國民こくみん一般は水火すいかを受け、國家こっかは瓦のやうに、土のやうに、今にも崩れ散る傾向を見せてゐる。又、外交方面はどうか。自己の優勢にすつかり溺れ切つたけがらはしい西洋人ばらは、全然日本人を輕視けいしし、今にも我國わがくにはこれらの國々くにぐにの領土にならうとしてゐるではないか。りょう方面を通じて、現在の日本はこの上もなく不安定な、むし危險きけん極まる地位にある。例へば數箇すうこの卵を積み重ねた有樣ありさや、又は眉に迄火のついた人と少しもことならない。はこの世態せたいを心痛して、夜間も熟睡出來で きず、⻝事も箸だけは執るが、物の味などは分からない。く思ふが、なんじ家茂いえもちはたして朕とかんを同じうするであらうか。それとも如何ど う考へてゐるか。

 國家こっか現狀げんじょうは、これ程の危機に直面してゐるが、それに就いてちんは決してなんじに責任があるとはいはない。國家こっかの統治者は汝ではなく、朕であるから、全く近年の世のみだれは、朕のとくが薄く、世を德化とっか出來ないところに原因してゐる。はば罪は朕自身にあり、責任は朕の身にあるとしなければならない。天地の神々かみがみ及び過去に於ける功臣こうしんなどのれいは、朕を何と批判するだらう。朕も地下に眠られる御先祖ごせんぞに、何の面目があつて他日たじつまみえる事が出來ようか。ゆえに朕は現狀げんじょう打開策として次の如き意見を有する。本來ほんらい、汝は朕の忠實ちゅうじつしんだ。朕は我が子の如く汝を愛する。汝も父に接するやうに朕に親しんでほしい。朕と汝とが相互に親しみ合ふ程度が厚ければ、我が國家こっかは昔の隆盛を恢復かいふく出來る。が、この事はこれ程重大であるのだ。汝は左樣そ う考へないか。ああ、幕府の最高位にある汝は、朝早くから夜およくまで注意を怠らず、他事た じを一切打捨てて、征夷せいい大將軍たいしょうぐんたる本務をつくし、現在天下の一同が期待する攘夷じょうい斷行だんこうし、それに滿足まんぞくあたへなければならない。

【備考】一字一句、息詰るやうに激切げきせつ國家こっかの不安を深く打嘆うちなげかれるうちにも、洋夷ようい跋扈ばっこと幕府當局とうきょく優柔ゆうじゅうとにひどく御氣お きを揉まれる御樣子ごようす歷々ありありと浮んでゐる。當時とうじ重苦しい空氣くうきが到るところに滿ちて、思ひ切つた革新を斷行だんこうしなければ、到底とうてい日本は救はれないと深く思ひ込まれた御精神ごせいしんが、りんとして家茂いえもちに迫るやうながせられる。じつにその修辭しゅうじ如何いかんは、別として、氣魄きはく光焰こうえんあっするに足るところの生氣せいきが、すべてにわたつて、磅礴ほうはくしてゐるのを痛感せずにはをられぬ。と同時に、その絕大ぜつだい御心勞ごしんろうたいし、只管ひたすら恐懼きょうくするのほかはない。