2-2 名和長年に賜へる宸翰 後醍醐天皇(第九十六代)

名和長年に賜へる宸翰(第二段)(元弘三年 扶桑拾葉集)

長年ながとし忠功ちゅうこう後代こうだいひとにもしらせんがために、しるしをくなり。すゑずゑのきみにもこれをせたてまつらば、いかがをろかならん。わたくし子孫しそんまでも、このちゅうちじとおもへば、正直しょうじきをもつて報國ほうこくとして、行末ゆくすえひさしくつかへたてまつるべし。

【字句謹解】◯長年が忠功 名和な わ長年ながとしの忠義の功績。〔註一〕參照さんしょう ◯後代の人 のちの世の人 ◯しるしをく しるして置く ◯すゑずゑの君 後世の天皇を指す ◯いかがをろかならん どうして粗末に取扱はうか、決してそんなことはない ◯私の子孫 長年ながとしの子孫のこと ◯朽ちじ ちは腐る義で、ここでは朽ちない事 ◯報國 國恩こくおんほうずる ◯行末久しく 子孫末長く ◯つかへたてまつる 天皇に奉仕する。

〔註一〕長年が忠功 本宸翰ほんしんかんの歷史的背景として、ここでは少し長文となるが、『太平記たいへいきまきの七「先帝せんてい船上ふなのえ臨幸りんこうこと」の一節を引用する。

 (前略)主上しゅじょう且しばらくは義綱よしつな御待おんまちありけるが、あまりにこととどこおりければ、ただうんまかせて御出おんいであらんと思召おぼしめして、或夜あるよよいまぎれに、三殿どの御局おつぼね御產おさんのことちかづきたりとて、御所ごしょ御出おいであるよしにて、主上しゅじょう御輿みこしにめされ、六じょう少將しょうしょう忠顯ただあき朝臣あそんばかりをめしして、ひそかに御所をぞ御出おんいでありける。ていにては人のあやしめ申すべきうえ駕輿丁かよちょうもなかりければ、御輿みこしをばめられて、かたじけなくも十ぜん天子てんしみずか玉趾ぎょくし草鞋そうあいちりけがして、みずか泥土でいどの地をませたまひけるこそあさましけれ。ころは三月十三日の事なれば、月待つ程の暗きに、そことも知らぬ遠きの道を、たどりて歩ませたまへば、今ははるかにぬらんと思召おぼしめされたれば、あとなる山はいまたきひびきのほのかきこゆるほどなり。追懸おっかまいらする事もやあるらんと、おそろしく思召おぼしめしければ一あしも前へと御心みこころばかりは進めども、いつならはせたまふべき道ならねば、夢路ゆめじをたどる心地ここちして、ただ一所ひとところにのみやすらはせたまへば、こは如何いかにせんと思ひわずらひて、忠顯ただあき朝臣あそん御手おんてを引き御腰おんこしして、今夜いかにもしてみなとあたりまでと心をたまへども、心身しんしん共に疲れてて、野徑やけいつゆ徘徊はいかいす。いたくけにければさと遠からぬかねこえの、月にしてきこえけるを、みちしるべにたずね寄りて、忠顯ただあき朝臣あそん或家あるいえの門をたたき、千波湊ちぶりのみなとへは何方いずかたくぞとひければ、うちよりあやしげなる男一人むかひて、主上しゅじょう御有樣おんありさまいらせけるが心なき田夫でんぷ野人やじんなれども、何となくいたはしくや思ひまいらせけん、千波湊ちぶりのみなとへはこれよりわづか五十ちょうばかりそうらへども、みち南北へわかれていかさま御迷おんまよそうらひぬとぞんそうらへば、御道おんみちしるべつかまつそうらはんと申して、主上しゅじょう輕々かるがるまいらせ、ほどなく千波湊ちぶりのみなとへぞきにける。ここにてとき打つつつみこえを聞けば、いまだ五こうはじめなり。の道の案內者つかまつりたる男、かひがひしくみなとうちを走り𢌞まわり、伯耆ほうきくにもど商人船あきびとぶねのありけるを、とかうかたらひて、主上しゅじょう屋形やかたうちまいらせ、いとま申してぞとどまりける。の男まこと凡人ただびとにあらざりけるにや、きみとう御時おんときに、最も忠賞ちゅうしょうあるべしとて國中くにじゅうたずねられけるに、われこそそれにてそうらへと申す者ついになかりけり。

 すでけければ、船人ふなびとともづないて順風じゅんぷうげ、みなとの外にいだす。船頭せんどう主上しゅじょう御有樣おんありさたてまつりて、凡人ただびとにては渡らせたまはじとかや思ひけん、屋形やかたの前にかしこまつて申しけるは、かやうの時御船おんふねつかまつつてそうろうこそ、我等われら生涯しょうがい面目めんもくにてそうらへ。何處いずこうらへ寄せよと御諚ごじょうしたがひて、御船おんふねかじをばつかまつそうろうべしと申して、まこと他事た じもなげなる氣色けしきなり。忠顯ただあき朝臣あそんこれを聞きたまひて、かくしては中々なかなかしかりぬと思はれければ、船頭せんどうを近く呼び寄せて、これほどてられぬるうえは何をかかくすべき、屋形やかたうち御座ぎょざあるこそ日本國にっぽんこくあるじかたじけなくも十ぜんきみにていらせたまへ。汝等なんじらさだめて聞き及びぬらん。去年こ ぞより隱岐お き判官はんがんやかたおしめられて御座ぎょざありつるを、忠顯ただあきぬすいだまいらせたるなり。出雲いずも伯耆ほうきあいだに、何處いずこにてもさりぬべからんずるとまりへ、急ぎ御船おんふねけておろしまゐらせよ。御運ごうんひらけなば、必ずなんじさむらいに申しして、所領しょりょうしょあるじになすべしとおおせられければ、船頭せんどうじつに嬉しげなる氣色きしょくにて、取梶とりかじ面梶おもかじとりはせて、片帆かたほにかけてぞせたりける。今は海上かいじょう二三十ぎぬらんと思ふ所に、同じ追風おいかぜけたるふねそうばかり出雲いずも伯耆ほうきをさしてきたれり。筑紫船つくしぶね商人船あきびとぶねかと見れば、さもあらで、隱岐お き判官はんがん淸高きよたか主上しゅじょうたてまつる船にてぞありける。船頭せんどうこれを見て、くてはかなそうらうまじ、これに御隱おんかくそうらへと申して、主上しゅじょう忠顯ただあき朝臣あそんとを、船底ふなぞこにやどしまいらせて、の上にあひものとてしたるうおりたるたわらとりみて、水手か こ梶取かじとりの上に立竝たちならんで、をぞしたりける。ほど追手おっての船一そう御座船ござせんいて、屋形やかたのなかにり移り、ここかしこさがしけれども、いだまつらず。さてはの船にはさざりけり。あやしき船やとおりつるとひければ、船頭せんどう、今夜のこくばかりに、千波湊ちぶりのみなとそうらひつる船にこそ、京上﨟きょうじょうろうかとおぼしくて、かぶとやらんたる人と、立烏帽子たてえぼしたる人と、二人らせたまひてそうらひつる、の船は今は五六も先立ちそうらひぬらんと申しければ、さてはうたがひもなき事なり。や、船をおせとて、を引きかじなおせば、の船はやがへだたりぬ。今はかうかとこころやすおぼえてあと浪路なみじかえりみれば、またばかりくだり、追手おっての船百そう御座船ござせんを目にかけて、鳥の飛ぶがごとくに追ひけたり。船頭せんどうこれを見ての下にやぐらを立てて、萬里ばんりを一に渡らんとこえげてしけれども、とき節風ふしかぜたゆみ、しおむこうて御船おんふね更に進まず。水手か こ梶取かじとり如何いかんせんとあわてさわぎけるあいだ主上しゅじょう船底ふなぞこより御出おんいでありて、はだ御守おんまもりより、佛舎利ぶっしゃりを一つぶ取出とりいださせたまひて、御疊紙おたとうがみせて、波の上にぞけられける。龍神りゅうじんこれに納受のうじゅやしたりけん、海上かいじょうにわかに風かわりて、御座船ござせんをば東へ吹き送り、追手おっての船をば西へ吹きもどす。さてこそ主上しゅじょう虎口ここうなん御遁おんのがれあつて、御船おんふねは時の伯耆ほうきのくに名和な わみなときにけり。

 六じょう少將しょうしょう忠顯ただあき朝臣あそん一人づ船よりおりたまひて、へんには如何い かなる者か、弓矢ゆみや取つて人に知られたるとはれければ、道く人立休たちやすらひて、へんには名和な わ又太郞またたろう長年ながとしと申す者こそ、さしてある武士にてはそうらはねども、いえみ一族ひろうして、心がさある者にてそうらへとぞかたりける。忠顯ただあき朝臣あそん仔細しさいたずね聞いて、やが勅使ちょくしを立てておおせられけるは、主上しゅじょう隱岐お き判官はんがんやかたおんげあつて、今みなと御座ぎょざあり。長年ながとし武勇ぶゆうかねて上聞じょうぶんたっせしあいだ御憑おんたのみあるべきよしおおいださるるなり。たのまれまゐらせそうろうべしやいなや、すみやかに勅答ちょくとうもうすべしとぞおおせられたりける。名和ま わ又太郞またたろうは、折節おりふし一族ども呼び集めてさけうでたりけるが、よし聞きて案じわずろうたる氣色けしきにて、かくも申しざりけるを、舎弟しゃてい小太郞こたろう左衞門尉ざえもんのじょう長重ながしげすすでて申しけるは、いにしえより今にいたまで、人の望む所はとの二つなり。我等われらかたじけなくも十ぜんきみたのまれまいらせて、かばね軍門ぐんもんさらすとも後代こうだいのこさん事、生前の思ひいで、死後の名譽めいよたるべし。ただすじに思ひさだめさせたまふよりほかあるべしともぞんそうらはずと申しければ、又太郞またたろうはじめとして當座とうざそうらひける一族共二十にんみなに同じけり。さらばやが合戰かっせんの用意そうらうべし。さだめて追手おってあとよりかかそうろうらん長重ながしげ主上しゅじょう御迎おんむひにまいつて、ただち船上山ふなのえせんまいらせん。かたがたはやがうち立ちて、船上ふなのえ御參おんまいそうろうべしとひ捨てて、よろいしゅくして走りでければ、一族五人腹卷はらまきつて投げけ、みな高紐たかひもしめて共に御迎おんむひにぞさんじける。にわかの事にて御輿みこしなんどもなかりければ、長重ながしげたるよろいの上に荒薦あらごもいて、主上しゅじょうまいらせ、鳥の飛ぶが如くして船上ふなのえたてまつる。長年ながとし近邊きんぺん在家ざいけに人を𢌞まわし、思ひ立つ事ありて船上ふなのえ兵粮ひょうろうぐる事あり。我がくらうちにある所の米榖べいこくを、一持ち運びたらん者には、ぜに五百づつを取らすべしとれたりけるあいだ、十ぽうより人夫にんぷ五六千人きたりて、われおとらじと持ち送る。一日がうち兵粮ひょうろう五千こく運びけり。家中かちゅう財寶ざいほうことごとく人民百しょうあたへて、おのやかたに火をかけ、ぜい百五十にて、船上ふなのえまいり皇居を警固けいごつかまつる。長年ながとしが一族名和な わろうひける者、武勇ぶゆうはかりごとありければ、白布はくふ五百たんありけるを旗にこしらへ、松の葉をいて煙にふすべ、近國きんごくの武士どもの家々のもんを書いて、此處こ こもと彼處かしこみねにぞ立て置きける。の旗どもみねかぜに吹かれて、陣々じんじんひるがえりけるさま山中さんちゅう大勢たいぜい充滿じゅうまんしたりと見えておびただし。

【大意謹述】長年ながとしの忠義をつくした功績を、のちの世の人にも知らせる目的で、これを記して置くのである。後世の天皇にもこの書簡を見せたならば、決して粗略そりゃくに取扱はれることはなからう。その一家の子孫に至るまで、この忠義の行動は消えるものではないと考へるから、今後共に正義を中心として國恩こくおんむくゆることに專念せんねんし、末長く奉仕しなければならない。

【備考】建武けんむ中興ちゅうこうのために、後醍醐ごだいご天皇が、如何い か危險きけんおかされて、度々、生死のちまた出入しゅつにゅうされたかが、この御宸翰ごしんかんによつても分明わ かる。宮廷のうちに成長なされて、荒い風にもたまはなかつた玉體ぎょくたいもってして、庶民しょみんさへ、困難とする境地にたれ、しかも容易にどうぜられなかつたのは、その英邁えいまい剛毅ごうき御氣象ごきしょうによると思はれるが、一つは天皇親政しんせい時代を招來しょうらいせんとするはげしい御熱情ごねつじょうによるところが多かつたであらう。拜讀はいどくして古今を俯仰ふぎょうし、感慨かんがい却々なかなかきない。