2-1 名和長年に賜へる宸翰 後醍醐天皇(第九十六代)

名和長年に賜へる宸翰(第一段)(元弘三年 扶桑拾葉集)

漫漫まんまんたる海上かいじょうに、いづくともなくただよひて、四ばかりはすぎぬ。二十七にちゆうかたにや、杵築きづきうらにて、西風にしかぜはげしくふきて、いかなるべきにかと、こころさわぎせしかども、かぜにまかせしに、よるより海山かいさんもしづかにて、あけぬればここかしこもゆるに、伯耆ほうきみなとにつきぬ。楫取かじとりどもいまちからつきぬといふをとかくして大坂おおさかといふところへつきぬ。ここはあらいそにて、釣舟つりぶねだにもまれなり。このところのあるじといふものもみやこにありければ、よしあしにつけてことふべきものもなし。ともなるひとひとりふたり、なおひともとめにとていでぬ。楫取かじとりもにげうせぬれば、あやしきとまもとに、ただひとりうづもれゐたるこころうち、いはんかたなし。なほしなんどひきつくろひて、いまはかぎりとまちたるに、ふねのもとにひとひとりきたり、あらあらしくもなきは、いかなるにやとあやしきに、忠顯ただあきをたづねて、御迎おんむひのよしをもうす。うれしなんどはかかるためしをぞいふべかんめる。中々なかなか其時そのときこころことばおよぶべきにあらず。おもひいづるたびごとに、その氣味き みなおむねにあり。ちゅうをいたすともがら、いづれもおろかなるべきにはあらねども、さしあたりてまちでたりし心地ここちなん、たとふべきかたぞなかりし。

  わすれめやよるべもなみのあらいそ

    御舟みふねのうへにとめしこころ

【字句謹解】◯名和長年 伯耆ほうきのくに名和な わ地頭じとうで、後醍醐ごだいご天皇元弘げんこう三年に六じょう忠顯ただあきと共に隱岐お き行宮あんぐう脫出だっしゅつしてられた人。その後、勤王きんのうこうあり、建武けんむ中興ちゅうこう後、高氏たかうじたたかつて敗死はいしした。明治十六年八月、じゅおくられた ◯漫漫 はてしなくひろい形容 ◯いづくともなく漂ひて 何處ど こを指してくのか知らず、ただ海上を浮動ふどうしての意。これは天皇隱岐お き脫出だっしゅつされた時のものである ◯四日ばかりはすぎぬ 天皇元弘げんこう三年うるう二月二十四日に隱岐お きいでられ、四日ばかりを過ぎたので、ただちに「二十七にちゆう」とつづいでゐるのである。ただしこの日は諸書しょしょ一致してゐない ◯心さわぎ 心中が不安となりおちつかないこと ◯楫取 舟頭せんどうのこと ◯力つきぬ 激しい勞働とうどうでもう力がつづかなくなつたこと ◯とかくして 何とかなぐさめて ◯あら磯 岩だらけの海岸のこと ◯釣舟 漁船の意。〔註一〕參照さんしょう ◯よしあしにつけて 善惡ぜんあくにつけて ◯あやしき苫の下 主上しゅじょうはこの時、船底せんていにあられ、その上に乾魚ひうおの入つたたわらを積んであつた。だから申しようのない程みすぼらしいとまもとおおせられたのである。とまとはすげ又はかやこものやうに編んだもの。屋根や日蔽ひおおいに使用する ◯なほし 直衣なおし、貴人の通常服でほうに似て短くせまいもの ◯引つくろひて 態度をととのへられること ◯今はかぎり 一こくしゅうのおもひで ◯あらあらしくもなきは 亂暴らんぼうな態度もないのは。天皇討手うってかと思はれたが樣子ようすおだやかなので不思議に思召おぼしめされた。ゆえに「いかなるにやとあやしきに」とつづいてゐる ◯忠顯 天皇と共に島を脫出だっしゅつし、最後まで御奉公ごほうこう申し上げた人 ◯うれし 心から喜ばしい義 ◯かかるためし かうした時 ◯中々 かえつて ◯心も詞も及ぶべきにあらず その時の喜ばしさは「うれしい」などの文字や意味であらはされるものではないとの御意ぎょい ◯氣味 樣子ようす ◯むねにあり 忘れられない ◯忠をいたすともがら 忠義を致す人々 ◯疎なるべきにはあらねども 不十分な事はないけれども ◯さしあたりて その時にあたつて ◯待出でたりし心地なん ちんいたるのを待つて奉迎ほうげいした心のうちことばの調子をつよめたもの ◯忘れめや 忘れることが出來で きようか、出來るものではない ◯よるべもなみのあら磯を 寄るもないといふ意と波の荒磯あらいそとをけられたもの ◯御舟 主上しゅじょう御座船ござせん ◯とめし心 注意して奉迎ほうげいした忠義の心。

〔註一〕釣舟 隱岐お きから脫出だっしゅつされた天皇御樣子ごようすに就いては『增鏡ますかがみ』及び『太平記たいへいき』に見えるが、ここでは前者第二十の「月草つきぐさはな」から一部を引用する。

 かの島には、春てもなほ浦風うらかぜさえてなみあらく、なぎさの氷もとけがたきのけしきに、いとどおぼしむすぼるることつきせず、かすかに心ぼそきおんすまひに、としさへへだたりぬるよとあさましくおぼさる。さぶらふ人々もしばしこそあれ、いみじくくむじにたり。今年ことし正慶しょうけい二年といふ、うるう二月きさらぎあり。のち二月きさらぎのはじめつかたより、とりわきて密法みっぽうこころみさせたまへば、よる大殿おおとのごもらぬ日數ひかずにて、さすがにいたうこうじたまひにけり。心ならずまどろみたまへるあけかた、ゆめうつつともわかず、宇多院ごうだいんありしながらの御面影おんおもかげさやかに見えたまひて、きこえ知らせたまふことおほかりけり。うちおどろきて、夢なりけりとおぼすほど、いはむかたなくなごりかなし。御淚おんなみだもせきあへず、さめざらましをとおぼすもかひなし。源氏げんじ大將たいしょう須磨す まうらにて、父御門ちちみかどたてまつたまひけむ夢の心地ここちたまふも、いとあはれにたのもしう、いよいよ御心みこころづよさまさりて、かの新發意し ぼ ちおんむかへのやうなる釣舟つりぶねも、たよりいできなむやと、たるるここちしたまふに、大塔おおとうみやよりもあまひとのたよりにつけてきこたまことえず。都にもなほ世の中しづまりかねたるさまにきこゆればよろづにおぼしなぐさめて、關守せきもりのうちるひまをのみうかがひたまふに、しかるべき時のいたれるにや、御垣守みかきもりにさぶらふつはものどもも、御氣色みけしきをほのこころえてなびきつかうまつらむと思ふ心つきにければ、さるべきかぎりかたらひはせて、おなじ月の二十四のあけぼのに、いみじくたばかりてかくろへゐてたてまつる。いとあやしげなるあまの釣舟つりぶねのさまに見せて、よるふかき空のくらきまぎれにおしいだす。おりしもきりいみじうふりてゆくさきも見えず、いかさまならむとあやふけれど、御心みこころをしづめてねんたまふに、おもふかたの風さへ吹きすすみて、その日のさるの時に出雲國いずものくににつかせたまひぬ。ここにてぞ人々こころちしづめける。

 おなじ二十五日伯耆ほうきのくに稻津いなずうらといふ所にうつらせたまへり。このくに名和な わ又太郞またたろう長年ながとしといひて、あやしき民なれど、いともうめるが、るいひろく心もさかさかしく、むねむねしき者あり。かれがもとへ宣旨せんじつかはしたまひたるに、いとかたじけなしと思ひて、とりあへず五百餘騎よ きぜいにて御迎おんむへにまいれり。又の日賀茂か もやしろといふ所にたちらせたまふ。都の御社みやしろおぼしいでられて、いとたのもし。それより船上寺ふなのうえでらといふ所へおはしまさせて、九重ここのえみやになずらふ。これより國々くにぐにのつはものどもに、御敵みかたきほろぼすべきよしの宣旨せんじをつかはされ、比叡ひえいの山へものぼされけり。(下略)

〔注意〕後醍醐ごだいだい天皇御宸翰ごしんかんとしては、これ以外に左記の數通すうつうはいせられる。

(一)佛舍利ぶっしゃり保護の宸翰しんかん(元弘三年、東寺文書)

(二)北畠きたばたけ顯家あきいえたまへる宸翰(延元元年十二月二十五日、白川文書)

(三)高野山こうやさん金剛こんごう峯寺ぶ じおさたまへる御立願狀ごりつがんじょう(延元元年、寶簡集)

(四)宇多院ごうだいんおくらせたまへる宸翰

(五)曼殊院まんじゅいん門主もんしゅたまへる宸翰(京都曼殊院所藏)

(六)大燈だいとう國師こくし影賛えいさん(龍寶大德寺誌)

【大意謹述】限りなく廣々ひろびろとした海の上に、何處いずこくとも分明わ からないながらも浮動ふどうしつつ、約四日間をくらした。二十七日の夕方だつたらうか、杵築きづきのうらの沖に居た時、西風が非常に激しく吹いたので、どうなるのかと不安に思つたが、風まかせにしてゐると、夜中になつてなみしずかになつた。が明ければもう陸地が此方こなた彼方かなたに見え、心おぼえの風景もある。やがて船は伯耆ほうきの港にいた。船頭せんどうなどはもう力が出なくなつたと不平をいふ。それを何とかなぐさめつつもやつと大坂おおさかといふ場所ところに達した。このへんは岩だらけの海岸で、漁船すらもほとんど見えない。この土地の領主は都に居るとのことで、結果の如何いかんかんせず、前後策を相談する人もない。ともなつてた人々はそれでもと人を探しに一人二人と出て行つた。船頭も逃げて行つたので、申しようもないほどみすぼらしいとまの下に、ただ一人身をかくしてゐる心のうちは、適當てきとうに形容することばがない程、寂しく、悲しく、不安だつた。直衣なおしを正して討手うってでもたら最後と覺悟かくごして、ともの者のかえりを一こくしゅうの思ひで待つてゐると、船のかたわらに一人の男が立ち寄つてた。その態度が案外おだやかなので、如何ど うしたのかと不審をいだきながら、たずねると、その男は忠顯ただあきをさがしてゐるので、「主上しゅじょう奉迎ほうげいする目的でた」と答へた。こんな時に「喜ばしい」といふを使用するのだらうが、この時の氣持きもちは決してさうしたことばや心で言ひあらはされる限りではなかつた。今でも當時とうじ囘想かいそうするごとに、その樣子ようすがはつきりと心に浮んでる。忠義こころざす人々は、すべてする事に手落ておちはないが、ああした時にあたつて海岸に出てちん奉迎ほうげいした長年ながとしの心こそ、にも比較出來で きない程の忠義な武士といへるであらう。

 寄るもなく、荒磯あらいそなみに浮んでゐた舟に注意して奉迎ほうげいた者の忠義な心を、ちんは忘れようとしても忘れることは出來で きないのである。