5 雁 仁德天皇(第十六代)

多麻岐波流、宇知能阿曾、那許曾波、余能那賀比登、蘇良美都、夜麻登能久邇爾、加理古牟登、岐久夜。

【謹譯】たまきはる、うち朝臣あ そこそは、長人ながひとそらつ、やまとくにに、かりと、くや。

【字句謹解】◯たまきはる たまきわまる義で、いのち、世、又はうつつの義で「うち」にかける枕言葉とく人と、「たまき」は手纏たまきで、「はる」はくと同じと解し、「手纏たまきうで」とつづける例から「うち」にかけ、「うち」は現世の意であるとして、いのち、世にかける人と二せつあり一定しない。ここでは「うち」の枕言葉として使用してゐる ◯內の朝臣 武內宿禰たけのうちのすくね內大臣ないだいじんとしての地位にゐたからかく言つたといふ人と、「うち」は大和の宇智郡うちごおりの義で、武內宿禰たけのうちのすくねじゅうしてゐたからかうおおせられたとする人と、これも二ように解せられて定說がない ◯汝こそは 武內宿禰たけのうちのすくねふ ◯世の長人 長老の意、宿禰すくね生歿年せいぼつねん明瞭めいりょうではないが、「公卿く げ補任ほにん」に景行けいこう天皇九年に生れ、仁德にんとく天皇の七十八年にこうじ、六帝につかへて、三百十二歲の壽命じゅみょうを保つたとあるのでも、長生ながいきのほどが分かる ◯空見つ 虛空こくうから見るといふせつが多いが、定說ていせつにならない。「やまと」の枕言葉 ◯雁子產と聞くや かりが子を生んだといふが、そんな例を知つてるかとの意。これは多分祥瑞しょうずいを喜ぶ思想の反映であらうとふ說もある。

〔注意〕本御製ほんぎょせい天皇女島ひめじまに於いてかりが子をんだのを御覽ごらんあり、その前例を武內宿禰たけのうちのすくねに問ひたもうたので、『古事記下卷げかんにある。記紀き きでは多少御製ぎょせいことなるから、その部分をに引用する。

(一)『古事記』の記事

 又一時あるとき天皇すめらみこ豐樂とよのあかりたまはむとして、女島ひめじまにいでませる時に、の島にかりみたりき。かれ建內たけうち宿禰すくねみことして、御歌みうたもてかりめるさまはしたまへるその御歌みうた

  たまきはる、うち朝臣あ そこそは、世の長人ながひとそらつ、やまとくにに、かりと、くや。

 ここに建內たけうち宿禰すくね、歌もて語りもうさく、

  たかひかる、御子み こ、うべしこそ、たまへ、にこそ、たまへ、こそは、長人ながひとそらつ、やまとくにかりと、いまかず。

 かく申して、御琴みことたまはりて、うたひけらく、

  御子み こや、ついに知らむと、かりうむらし。

 これ祝歌ほぎうた片歌かたうたなり。

(二)『仁德紀』の記事

 五十年春三月やよい壬辰朔みずのえたつのついたち丙申ひのえさる河內かわちの人そうしてもうさく、茨田堤まむたのつつみおいかりこうめりと。卽日そくじつ使つかいつかわしてしめたまふ。いわく、すでじつなり。天皇すめらみこここに歌よみて以て武內宿禰たけのうちのすくねひてのたまわく、

  たまきはる、うちのあそ、こそは、遠人ながひとこそは、くに長人ながひと秋津島あきつしま大和やまとくにに、かりむとかずや。

 武內宿禰たけのうちのすくね答歌かえしよみていわく、

  やすみしし、大君おおきみは、うべなうべな、はすな、秋津島あきつしま大和やまとくにに、かりむと、かず。

【大意謹述】朝廷に奉仕する大臣おおおみ武內宿禰たけのうちのすくねよ。なんじこそは現在最も長壽ちょうじゅを保つてゐるので、の人々の知らない珍らしい事などを知つてゐるに相違ない。そこでちんなんじに問ひたいのだが、一たい、この日本國やまとのくにかりが子をんだ前例があるだらうか。そんな事を聞いたかどうか。

【備考】當時とうじかりが子を生むとつたやうな、珍しいことを見出すと、それについて、吉凶きっきょうぼくするといふ風習があつた。仁德にんとく天皇が、武內宿禰たけのうちのすくねに向ひ、下問かもんあらせられたのも、つまり、そのめで、その際、宿禰すくねは、返歌へんかもうし上げ、「わがきみ、よくこそ御下問ごかもんなさいました。おおせの如くわたくしれな長老でございます。しかいまかつかりが子を生んだことを聞きませぬ。して見ると、それは必ず目出度め で たい前兆と存じます」と答へた。賀茂か も眞淵まぶちは、この事を仁德にんとく天皇皇子おうじ時代のこととし、『書紀』の五十年とあるのは誤りだとしたが、成程なるほど、最後の片歌かたうたみこや」の意味が、皇子時代の事としないと、通ぜぬのである。すなわち「きみが天下に君臨なさる目出度い前兆として、かりが子を生みました」といふ意味が皇子時代のことだとされる上に於てこそ、始めて意味が通ずる。