90 故本居宣長位階追陞ノ策命 明治天皇(第百二十二代)

本居もとおり宣長のりなが位階いかい追陞ついしょう策命さくめい(明治三十八年十二月十一日)

天皇乃大命爾坐世、贈正四位本居宣長乃墓前爾宜給波久止宣留。

汝命波古學乃道乃蘊奥乎深久究米、許許太久乃書冊乎著述志、君臣乃名分乎正志、內外乃大義乎明爾志氐、世乃諸人乎志氐朝廷乎尊毘奉利、皇國乎崇米敬布心乎起左志米多留大伎功乎賞給比褒給比氐。曩爾正四位乎贈良世給比志賀、猶飽加受思保志⻝志、今囘更爾從三位爾進給比、位記乎授賜布。是乎以氐三重縣知事正五位勳五等有松英義乎差使氐、如此乃狀乎宜給波久止宜留。

【謹譯】

天皇すめら大命おおみことにませ、ぞうしょう本居もとおり宣長のりなが墓前ぼぜんたまはくとる。

汝命みましみこと古學こがくみち蘊奥うんおうふかきわめ、ここだくの書冊しょさつ著述ちょじゅつし、君臣くんしん名分めいぶんただし、內外ないがい大義たいぎあきらかにして、諸人もろびとをして朝廷みかどとうとたてまつり、皇國すめらみくにあがとうとこころおこさしめたるおおいさおたまたまひて、さきしょうおくらせたまひしが、かずぼしめし、今囘こんかいさらじゅすすたまひ、位記い きさずけたまふ。ここて三けん知事ち じしょうくんとう有松ありまつ英義えいぎ使つかはして、かくごとくのさまらせたまはくとる。

【字句謹解】◯本居宣長 我が皇國學こうこくがく先覺者せんかくしゃ、江戸時代に於ける日本精神せいしん發揮者はっきしゃとして知られてゐる。〔註一〕參照さんしょう ◯古學の道 我がくに上古じょうこ神々かみがみ實踐じっせん躬行きゅうこうされた自然の道をあきらかにする學問がくもん。〔註二〕參照 ◯蘊奥を深く究め 學問がくもんの究極の深いてんきわめること ◯ここだくの書冊を著述し 多くの書物を書きあらわす意。〔註三〕參照 ◯君臣の名分を正し きみしんとの間にあきらかな區別くべつを立てる。宣長のりながは一くん萬民ばんみんの思想を日本古典から得て、支那し なの考へが全然これことなるよし隨處ずいしょあきらかにしてゐる ◯內外の大義を明らかにして うちは日本、そと支那し な所謂いわゆる華夷か いべん、日本を中華ちゅうかとし支那し なとした。そしてこの反對はんたい支那を中華とし、日本を夷とした徂徠そらい春台しゅんだい一派とするど對立たいりつしたのである。大義は大きい、大切な義理の意 ◯皇國 皇室を中心とする我が日本のこと ◯曩に正四位を贈らせ給ひしが 明治十六年におくられた。

〔註一〕本居宣長 享保きょうほ十五年五月、伊勢い せ飯高郡いいだかぐん松坂まつざかに生れ、最初小兒科しょうにか醫術いじゅつまなんで一家したが、寶曆ほうれき十一年、賀茂か も眞淵まぶちの門につて古學こがく研鑽けんさんし、明和めいわ元年に『古事記でん』を起稿きこうはじめた。眞淵まぶちの死後名聲めいせいようやあらはれ、寬政かんせい六年紀伊き い德川とくがわ治寶はるたかつかへ我がくに古書こしょ進講しんこうした。古書にたいする宣長のりながの優れた識見しきけんは天下に知られ、門人もんじん日に多きを加へた。享和きょうわ元年九月二十九日、七十二歲で卒去そっきょ皇國こうこくがく上の最も大きな存在であり、かず多い門人のうちで、平田ひらた篤胤あつたねがよくその意を繼承けいしょう發展はってんさせた。

〔註二〕古學の道 我が國體こくたい精華せいかを研究する學問がくもんで、日本古代の神々かみがみが示された道を絕對ぜったい最勝さいしょうなものとして、『古事記』を貫き流れてゐる古代純日本精神せいしん立脚りっきゃくして儒佛じゅぶつを非難攻撃こうげきした學派がくは。普通儒者じゅしゃ中の古學こがく派―山鹿やまが素行そこう・伊藤仁齋じんさいぶつ徂徠そらいの各派―と區別くべつするため國學こくがく又は皇國學こうこくがくしょうする。道とは支那し なの聖人の主張したふうの物ではなく、それ以外に、それ以前に正しい本當ほんとうの道が日本に存在したとふ事をき、「いにしえ大御世おおみよには道といふ言葉も更になかりき」(直毘靈)といふのが主要てんの一つで、日本に於ける道の存在及びその優越性を明白にしようとつとめた。この思想が明治維新の一原動力となつたことにかんしては多くの學者がくしゃいてゐる。

〔註三〕ここだくの書冊を著述し 宣長のりながの著述は『古事記でん』を始めとしてすこぶる多く一々げ切れない。直毘靈なおびのたま神代正語かみよのまさごと馭戎ぎょじゅう慨言がいげん歷朝れきちょう詔詞解しょうしかいたま小櫛おぐし・言葉の玉緒たまのお玉勝間たまかつまたまくしげ・葛花くずばな玉鉾たまぼこ百首・鈴屋集すずのやしゅうなどはその代表的なもので、宣長のりながの知識は我が古道こどう以外に國策こくさく(秘本玉くしげ)・和歌(玉鉾百首)・文法(てにをは紐鏡・字音假字用格)・外交(馭戎慨言)にまで及んでゐる。

【大意謹述】天皇大命たいめいのままに、かつしょう四位をおくられた本居もとおり宣長のりながの墓前におおせられるよしもうし上げる。

 なんじ宣長のりながは、我が國體こくたい精華せいか發揚はつようする古學こがくの道の究極てんをよく研究し、それにかんする多數たすう書物著述ちょじゅつして世を導いた。更に一くん萬民ばんみんの意義及び上下の別を正し、日本と支那し なとの區別くべつ君臣くんしんの道の相違そういから明らかにしたのである。かくして世間の人々をして朝廷を崇拜すうはいせしめると共に、我が皇室を基礎とした祖國そこくたいする自覺じかくふるひ起さしめたその大功たいこうしょうせられ、かつしょう四位をおくらせたもうたが、今囘こんかいじゅに進められ、その地位にのぼされる。よって三重けん知事しょう五位くん五等有松ありまつ英義えいぎ勅使ちょくしとして派遣し、墓前に於いて以上を告げさせるとおおせられた旨を告げまゐらせる。

【備考】宣長のりなが功績こうせきは、支那し な精神せいしんのために不純さを加へた日本文化の醇味じゅんみ飽迄あくまで保持しようとし、思想に學術がくじゅつに、日本精神せいしんを中心とし本位とした新組織を作らうとしたところにある。彼は敬神けいしん尊皇そんこうについて、ことに熱心で、日本がくの成立には、特にいちじるしい力を注いだ。學問がくもん支那し な化から離れて日本化への實現じつげんについては、彼の力によるところが多い。そこに一つの劃期的かっきてき貢獻こうけんがある。

 思ふに、日本の學問がくもんは、在來ざいらい兎角とかく拜外はいがい的に流れ、日本とそれ自身に於て、當然とうぜん、日本流に組織し、日本獨自どくじの材料を整頓して、世界の學界がっかい貢獻こうけんするといふ精神せいしんが乏しかつたと思ふ。外國がいこくの學問は、たとひ、そこに幾多の長所を有するとしても、その材料やその考へ方などにおいて、日本とはちがふし、日本にそのまましつくりあてまるべきものではない。かうした見易い理由と事情とがあるにかかわらず、江戸時代の學者の一ぱんは、支那し なの學問に沒頭ぼっとうして、日本なるものを成立せしめることを忘れてゐた。それは、明治・大正年間にも、やはり、同じ例が多い。しかながら、左樣そ うした情勢に甘んずることは、日本學の不振を意味するのであつて、日本學界の恥辱ちじょくにほかならない。日本としては、獨自どくじの材料と獨自どくじの考察・組織により續々ぞくぞく發見はっけんを世界に示すべきである。本居もとおり宣長のりながの學問上に於ける態度は、これ先驅せんくをしたにほかならぬ。

 彼は、在來ざいらい漢學かんがく者が、支那し なの材料を主とし、支那し な風の見方を第一義とした方法を全く排斥はいせきした。のみならず、支那がくの中心を儒敎じゅきょう易世えきせい革命を是認ぜにんし、(『孟子』などで)また道德どうとく理論にちょうじてゐても、道德どうとく實踐じっせんするところがすくないことをも非難し、そのいたずらに煩瑣はんさに流るるのへい攻擊こうげきしたのである。かうしてれは、日本それ自身の材料により、日本的な見方のもとに、國學こくがくしょうする新しい學問がくもんを完成した。ことに彼は、支那し な思想などの影響をまだあまり受けないとも見られる古代日本文化の上に、日本獨自どくじ道德どうとく精神せいしん發見はっけんし、日本獨自どくじ美所びしょ・長所を見出した。かうして、彼の力により、日本學の上に記憶すべき時代が出來で きたのである。

 思ふに、日本の學問がくもんは、今後、一ぺんせられねばならぬ。ひ換へると一切の學問は日本自身の有する材料を中心とし、それを整理して、一つの體系たいけいが各科の上に作られねばならぬ。その組織・體系たいけいすについての精神せいしんは純日本的であらねばならない。これを政治・法制の上についていへば、英法・佛法ふっぽう獨法どくほうなどのほかに日法にちほう―日本法律を要する。英政えいせい佛政ふっせい獨政どくせいのほかに日政にっせい―日本政治を要する。理化り かとても、博物はくぶつとても、日本理化・日本博物を要する。それらは、一切の學問の上に適用せねばならぬのが當然とうぜんである。

 それには、歐米おうべい的見解を混入してはいけない。づ日本精神せいしん自覺じかくし、日本の國體こくたいを知り、道義どうぎ建國けんこくの旨をも理解して、飽迄あくまでも日本的な見方に立脚りっきゃくすべきである。歐米おうべい的な見方を新しいとし、優れてゐるとするが如きは、華夷か い・內外のべん(旣述して置いた)を知らざるの致すところだ。ここに至ると、日本の學問がくもんはすべて創造の時代に入つてゐるとへよう。歐米おうべい的な學問がくもん支那し な的な學問から離れて、日本獨自どくじの學問を創造すべき重大任務に直面してゐる。

 勿論もちろん歐米おうべいの新しい原書を參考さんこうとすることは、今後も繼續けいぞくせらるべきで、決してそれらを排するのではない。ただ在來ざいらいの如く、歐米おうべい原書の鵜呑う のみ、うけり、鸚鵡おうむ的な引寫ひきうつしなどの陋習ろうしゅう不見識ふけんしきことごとくやめよといふだけのことだ。このてんは、今ほ一部の學者がくしゃによつて繰返され、原書によつて學科がっかを講ずるにあたり、ただそれを演繹えんえきするのみで、獨自どくじの批判を加へない如きは、不見識のはなはだしきものとして、極力、排斥しなくてはならぬ。このは、本居もとおり宣長のりなが學問がくもんの方法、思惟し いの態度について、おしへられてしかるべきである。今は第二の宣長のりながを要する時代で、昭和の日本學が確立せらるべき必然の運命につてゐる。同時に、それは、ひとり、宣長のりなが時代の如く文學のみに限られたことではなく、全學問の組織・材料、體系たいけいの上に及ぼさるべき要求に滿ちてゐるのである。現在の學者・思想家が率先、このてんに目ざめない限り、日本獨自どくじの學問は成立しない。また創造されない。かくて、日本は、いつ迄も學問の上で、歐米おうべい支那し な印度いんどのあとを追うてゐるとのみ考へられることは堪へ難き屈辱ではなからうか。このてんすべての學者・思想家の反省を促し、奮發ふんぱつを要求したい。學問上の日本精神せいしん本位時代!それを速かに實現じつげんしてほしいと思ふ。本居もとおり宣長のりながのことを囘想かいそうするにつけて、これを現代的に考へた結果、以上の所感を附記ふ きした。