77 元勳優遇ニ就テ黑田淸隆ニ賜ヘル勅語 明治天皇(第百二十二代)

元勳げんくん優遇ゆうぐうつい黑田くろだ淸隆きよたかたまヘル勅語ちょくご(明治二十二年十一月 官報

【謹譯】ちん樞密すうみつ顧問官こもんかん陸軍りくぐん中將ちゅうじょうじゅくんとう伯爵はくしゃく黑田くろだ淸隆きよたかツニとく大臣だいじんれいもっテシ、ここ元勳げんくん優遇ゆうぐうあきらかニス。

【字句謹解】◯黑田淸隆 藩閥はんばつの有力者〔註一〕參照さんしょう ◯待ツニ 待遇するに ◯大臣ノ禮 現任大臣にたいする同樣どうよう禮遇れいぐうあたへる ◯元勳優遇 君主を輔佐ほ さした功勞こうろう多き老臣ろうしんたいし、優待をす事〔註二〕參照 ◯昭ニス あきらかにするに同じ。

〔註一〕黑田淸隆 きゅう鹿兒島かごしま藩士はんしで、初めの名を了介りょうすけつた。明治維新の際、王事おうじつくし、功勞こうろうが少くなかつた。やがて彼は政府に擢用てきようせられて、明治三年、開拓次官となり、ロシヤと樺太かばふと交換について重要な交渉をし、任務をまっとうした。明治七年、陸軍中將に任ぜられ、參議さんぎ・開拓長官を兼任し、薩派さっぱの間に重きをした。十七年、伯爵はくしゃくさずけられ、二十年、農商務のうしょうむ大臣となり、翌年四月、內閣總理そうり大臣の地位に就いたのである。二十二年、樞密すうみつ顧問官となり、二十五年、逓信ていしん大臣に任ぜられた。二十八年、樞密院すうみついん議長として、政治上の樞機すうきあずかり、三十三年、薨去こうきょする迄、政界の大立物おおたてものかぞへられた。その世を去つたのは、六十一歲の時である。

〔註二〕元勳優遇 元勳げんくんといふ言葉が、政治上、重き意味を加へきたつたのは、主としてこの時分からである。元老げんろうといふこともまた當時とうじ新意義を生じたのであらう。明治八年に元老院げんろういんが作られたが、それは、おのづから別である。のち國家こっかに重大な問題を生ずると、元老げんろう會議かいぎなるものが開かれた。今日、元老げんろうとしては、西園寺さいおんじ公望きんもち公のみが存在する。

【大意謹述】ちんここ樞密すうみつ顧問官こもんかん・陸軍中將・くん一等伯爵はくしゃく黑田くろだ淸隆きよたか功勞こうろうを思ひ、特に大臣の禮遇れいぐうあたへることとした。それは、國家こっか盡力じんりょくした老臣ろうしんを優待するの旨意し いあきらかにする所以ゆえんである。

【備考】黑田くろだは軍人であると同時に政治家で、薩州人さっしゅうじんの長所を備へてゐる。新知識に乏しかつたが、豪快で淡白なところが、人々の好むところとなつた。かうして西郷さいごう從道つぐみち圓滑えんかつ洒落しゃらくあいつて、薩派さっぱの中心となり、長派ちょうは伊藤いとう博文ひろぶみ對抗たいこうしたのである。明治三十三年八月、こうじたとき、誄詞るいしたまわつた。

 奮勵ふんれい時艱じかんあたり、忠實ちゅうじつ皇運こううんたすく、かつ惟幕いばくさんして征討せいとうくんそうし、つと邊疆へんきょうおさめて開拓のもといを定む、樞要すうよう歷任れきにんして、世の重望じゅうぼうを負ふ。今や溘亡こうぼうす、なん痛惜つうせきへん、ここ侍臣じしんつかはし、賻賵ふぼうもたらしてもっ弔慰ちょういせしむ。