74 故森有禮ヲ弔スルノ勅語 明治天皇(第百二十二代)

森有禮もりゆうれいちょうスルノ勅語ちょくご(明治二十二年二月)

【謹譯】多年たねんしょく外交がいこう事務じ むほうシ、つい內閣ないかく樞機すうきさんシ、敎育きょういく大任たいにんリ、せいはげまシ、しょくつくス。ここ溘亡こうぼうク、なん痛悼つうとうヘン。よっしょうおくリ、金幣きんぺい五千えんたまフ。

【字句謹解】◯外交 森が公使となつて淸國しんこく及び英國えいこくにあつたので、外交とおおせられた ◯樞機 大政たいせいのこと ◯敎育ノ大任 敎育制度を整へる大切な任務〔註一〕參照さんしょう ◯精ヲ勵シ せいを出して一生懸命になる ◯職ヲ盡ス 職務について最善の力をつくすこと ◯溘亡 急死 ◯痛悼 いたましい。

〔註一〕敎育ノ大任 明治歷代れきだい文相ぶんしょう中、敎育上、特に功勞こうろうが多かつたのは、森有禮もりゆうれい及び井上毅いのうえこわしの二人である。森の前半生は、極端な歐化おうか主義者で、世人の反感を挑發ちょうはつしたが、後半生は國家こっか主義者となり、その考へは、著しくへんじた。けれども、森といえば男女同けんや自由結婚の主張者、鼓吹こすい者として、より多く世人に記憶せられ、敎育上、國家主義の上につくしたことは、存外ぞんがい一般的には知られてゐない。れが明治二十二年二月十一日憲法發布はっぷ式に臨まうとして、兇漢きょうかん西野にしの文太郞ぶんたろうのために刺殺せきさつせられたのも、やはり森が非國家的な人物と誤解されたによる。けれども森有禮ゆうれい文相ぶんしょうとして、その横死おうしぜんした施設は、すべてにわたつて、國家主義につてゐた。彼れが文敎ぶんきょう中興ちゅうこう者として、のちに正しく認識せられたのもまたそれがためである。ことに彼れが力をつくしたのは、初等敎育・師範しはん敎育・外國語敎育の上にあつたとせられてゐる。外國語敎育はかく前二者について、これが振興しんこうすにあずかつて功勞こうろうがあつたことを認めてよい。

【大意謹述】けい多年たねん、外交官としてその方面の公務にはげみ、いで內閣につて、文相ぶんしょうとなり、政治上の重要なてんについてあずかるところがあつた。けいは、敎育のにゐて、その大きい任務をまっとうするため、全力を傾け、職務上貢獻こうけんしたところが多い。ほ今後、けいの施設に期待してゐた折柄おりからにわかに世を去つたと聞く。しん痛悼つうとうの至りである。よっここしょう二位をおくり、金幣きんぺい五千えん下賜か しする。

【備考】もり有禮ゆうれいが明治十八年文相ぶんしょうとなる迄、日本の敎育は、始終しじゅうぐらついてゐた。その主な傾向は、大體だいたいに於いて歐化おうか的だつたとへよう。そのため、一般國民こくみんは、どの位、わざわいされたか知れない。今日、敎育の弊源へいげんとして殘存ざんそんしてゐるのもさかのぼつて考へると、森有禮ゆうれい以前に於ける文政ぶんせい當局とうきょく謬想びょうそうにもとづくところが多い。

 勿論もちろんもり有禮ゆうれいが、どの程度迄、日本の國體こくたい國性こくせい自覺じかくしたか、また如何い かに日本精神せいしんを理解したかは、明白でない。いずれかといへば、漠然ばくぜんたる意味の國家こっか主義者だつたとへよう。けれども以前、れが極端な歐化おうか主義者であつたのにくらべると、たとひ、それが漠然としてゐようとも、國家主義に立脚りっきゃくしたてんに意義がある。彼が帝國ていこく大學令だいがくれいを作つて、「帝國ていこく大學だいがく國家こっか須要すようおうずる學術がくじゅつ技藝ぎげい敎授きょうじゅし、その蘊奥うんおう講究こうきゅうするを以て目的とす」としたのは、國家主義の發露はつろであつた。しこの法文を擴張かくちょうして、「帝國ていこく大學だいがくは、日本の國體こくたい闡明せんめい顯揚けんようし、國家こっか須要すようおうずる日本本位の學術がくじゅつ技藝ぎげい敎授きょうじゅす」云々うんぬんとしたならば、一そう意義があつたらうと思ふ。そこへゆくと、井上こわしは、森よりも、國家主義の內容を明確に近き迄に把握してゐた。『いん存稿ぞんこう』を見ると、れがよく日本國體こくたいを正解してゐた事が分明わ かる。彼は森が外國語を奬勵しょうれいしたにたいして、國語こくご漢文かんぶん奬勵しょうれいし、忠孝ちゅうこう主義の國粹こくすい道德どうとく高調こうちょうした。し森が、井上の如く、眞摯しんしで、井上の如く、日本の古典に親しんでゐたならば、その國家主義思想は、內容上一そう充實じゅうじつしたにちがひない。