71 五爵制定ノ詔勅 明治天皇(第百二十二代)

しゃく制定せいてい詔勅しょうちょく(明治十七年十月 官報

【謹譯】ちんおもフニ、華族かぞく勳冑くんちゅうくに瞻望せんぼうナリ。よろシクさずクルニ榮爵えいしゃくもっテシ、もっ寵光ちょうこうしめスヘシ。文武ぶんぶ諸臣しょしん中興ちゅうこう偉業いぎょう翼賛よくさんシ、くに大勞たいろうアルものよろシクひとシク優列ゆうれつのぼシ、もっ殊典しゅてんあきらかニスヘシ。ここニ五しゃくつらねその有禮ゆうれいちっス。卿等けいらますまなんじ忠貞ちゅうていあつクシ、なんじ子孫しそんヲシテ世々よ よ其美そのびサシメヨ。

【字句謹解】◯五爵 『禮記らいき王制おうせいに「王者おうしゃ祿爵ろくしゃくを制するやこうこうはくだんとう」とあるにもとづく ◯勳冑 いさをある家柄 ◯瞻望 あおぎ望んでとうとむ ◯榮爵 光榮こうえいある爵位しゃくい ◯寵光 寵愛ちょうあいするところの印 ◯中興の偉業 王政おうせい復古ふっこ大業たいぎょう ◯翼賛 力を添へ助ける ◯大勞 大きい功勞こうろう ◯優列 優遇する地位 ◯殊典 特別に優待する典例てんれい ◯昭ニスヘシ あきらかの意に同じ ◯有禮ヲ秩ス 『書經しょきょう虞書ぐしょ皐陶謨こうようぼの句、「天有禮ゆうれいちっす。わが五れいしたがひてつねあれや」とある。天は次第しだいを立てて、れいを示してゐることを述べたもの。ここではれいを正して階級付けてゆくの意 ◯美ヲ濟サシメヨ 美をさしめよに同じ。

【大意謹述】華族かぞく及び門閥家もんばつかは、一こくの人々のあおぎ望んで、常に尊敬するところである。この意味から、榮譽えいよある爵位しゃくい適當てきとうの人物に授け、特に寵用ちょうようする旨を臣下しんかに示すことは至當しとうつ必要である。ここちん文武ぶんぶ諸臣しょしんうち、明治中興ちゅうこうの大業を助けて國家こっかに著しい功勞こうろうあるものを、ひとしく華族かぞくの地位に列せしめ、特に優待するの典例てんれいを示す事とした。すなわこうこうはくだんの五しゃくつらねて、れいを正しくし、功臣こうしんらの勳績くんせきしたがつて、これを秩序付け等差をすることとする。けいらは、この旨を諒解りょうかいして、一そう忠義の念をあつうし、卿等けいらの子孫をして、代々よ よかわることなく、誠實せいじつ奉公ほうこうする任務をまっとうせしめよ。

【備考】本勅ほんちょく渙發かんぱつに先立ち、明治十五年、華族かぞくれいが制定せられ、十七年七月七日、聖上せいじょうにおかせられては、華族かぞく門閥家もんばつか及び明治維新功臣こうしんらを宮中にされ、授爵式じゅしゃくしきを行はせたまふとき、本勅ほんちょくたまわつたのである。當日とうじつ、この榮譽えいよよくした人々は、左の如くである。

公爵こうしゃくを授けられた門閥もんばつの人々、九じょう鷹司たかつかさ・二條・近衞このえ・一條・德川とくがわの六名。

勳功くんこうによつて公爵となつた人々、三じょう島津しまづ(久光)・毛利もうり・島津(忠義)・岩倉いわくら等。

侯爵こうしゃくを授けられた門閥家二十一名。

◯勳功によつて侯爵となつた人々一名。

◯父の偉勳いくんによつて侯爵となつた人々二名。

◯門閥家として伯爵はくしゃくとなつた人々五十九名。

◯勳功によつて伯爵となつた人々十三名。

◯父の偉勳によつて伯爵を授けられたもの一名。

◯門閥家で子爵ししゃくを授けられたもの三百十三名。

◯勳功によつて子爵となつたもの十二名。

男爵だんしゃくを授けられたもの七十四名。

 以上を總計そうけいすると公爵十一名、侯爵二十四名、伯爵七十三名、子爵三百二十五名、男爵七十四名となる。當時とうじ、大久保・木戸の遺子い しは父の勳功くんこうによつて侯爵こうしゃくとなり、伊藤・山縣やまがた黑田くろだ・井上・松方まつかた・大木・寺島てらじま・西郷・山田・大山・川村・佐々木の十二名は勳功くんこうによつて伯爵はくしゃくとなつた。廣澤ひろざわ眞臣まさおみ遺兒い じも父のこうによつて伯爵はくしゃくじょせられ、福岡ふくおか鳥尾とりお・三浦・谷・中牟田なかむだ・伊東・三よし曾我そ が・高島・樺山かばやま野津の づ仁禮に れの十二名は子爵ししゃくとなつた。それから七月十七日、副島そえじま伊地知い ち じ・吉井の三名も、特旨とくしを以て華族かぞくに列し、伯爵を授けられ、土方ひじかた品川しながわ子爵ししゃくじょせられた。大隈おおくま重信しげのぶ板垣いたがき退助たいすけ後藤ごとう象二郞しょうじろうらは、この時よりもはるかにおくれて、明治二十年、伯爵はくしゃくを授けられた。