70 故岩倉具視ニ太政大臣ヲ贈ルノ勅語 明治天皇(第百二十二代)

岩倉いわくら具視ともみ太政だじょう大臣だいじんおくルノ勅語ちょくご(明治十六年七月 岩倉公實記)

【謹譯】大節せ つだんシ、旋轉せんてん偉業いぎょうたすケ、純忠じゅんちゅうせいシ、經綸けいりん宏猷こうゆうつくス。まこと國家こっか棟梁とうりょうまこと臣民しんみん儀表ぎひょうタリ。いわんちん幼冲ようちゅうニシテくらいのぼリ、一ニ匡輔きょうほたよル、啓沃けいよくおしえル。よしみ師父し ふひとシ。天憖てんぎんセス。なん痛悼つうとうヘン。とく太政だじょう大臣だいじんおくルヘシ。

【字句謹解】◯岩倉具視 三じょう實美さねとみならんで明治初期から中期にかけ、最も重きをした人〔註一〕參照さんしょう ◯大節 優れて高きみさお ◯旋轉ノ偉業 王政おうせい復古ふっこのこと、旋轉せんてんは、くるくるとめぐる意であるが、ここでは、囘天かいてんなどと同じく時勢を一ぺんするの意となる ◯純忠 ただ忠義一のこと ◯經綸 政治上の方策ほうさく ◯宏猷 大きい計略 ◯儀表 手本のこと ◯幼冲 幼少に同じ ◯匡輔 君主をただし助ける ◯啓沃 知識を開發かいはつすること ◯ おしへに同じ ◯ まじわりの義 ◯天憖遺セス せめて一人の老成人ろうせいじんなりとものこして置きたいと思ふのに、天はそれを許さぬ。

〔註一〕岩倉具視 堀川ほりかわ中納言康親やすちかの第二子、岩倉具慶ともよしの養子となつた。天保てんぽう九年十四歲の時、元服げんぷくしてじゅ五位じょし、昇殿しょうでんを許された。つと勤王きんのうこころざしいだき、諸藩しょはん志士し し氣脈きみゃくを通じて、王政おうせい復古ふっこ實現じつげんする上に少からぬ貢獻こうけんをした。明治四年、外務卿がいむきょうとなり、右大臣に任ぜられ、特命全權ぜんけん大使として、木戸き ど孝允こういんらと歐米おうべい巡遊じゅんゆうし、日本の立場を有利ならしむることに努めた。明治六年、歸朝きちょうした時、西郷さいごう隆盛たかもりらの征韓論せいかんろんの主張に反對はんたいし、內治ないじ第一主義を標榜ひょうぼうして、大久保おおくぼ利通としみちらと結び、難局に善處ぜんしょした。當時とうじ征韓せいかん派にみした高知の士族、武市たけち熊吉くまきちらは岩倉の態度に憤慨ふんがいして、これを赤坂喰違くいちがいの暗いみちに待ちもうけ、暗殺しようとしてはたさなかつた。それは明治七年一月のことである。のち、明治九年、華族かぞく局部長となり、いで明治十四年、明治天皇が二十三年を以て、國會こっかいを開設するのみことのり渙發かんぱつせられると、十五年、奏上そうじょうして、參議さんぎ伊藤いとう博文ひろぶみ歐洲おうしゅうに派遣して、憲法視察しさつせしむるやう、決定した。十六年七月、胃癌いがんのために薨去こうきょとし五十九。

【大意謹述】優れた節操せっそうを守つて、大事を英斷えいだんし、よく王政おうせい復古ふっこの事業を助成したけいは、忠義に正しき道を歩み、政治上の重要な計畫けいかくすについて、貢獻こうけんするところが多い。けい國家こっか棟梁とうりょうであり、臣民しんみんのよき手本である。それにちんが少年時代に卽位そくいしたときにあたり、けい輔翼ほよくつところ深く、いろいろとけいの指導を得て、まじわりの上では、師父し ふにひとしいものがある。ところが、天、この老成人ろうせいじん長生ちょうせいさえぎり、ここにその世を捨てたのは、哀惜あいせきの至りである。今、特に太政大臣おくつてけいが生前の功勞こうろうむくゆる。

【備考】岩倉は、木戸の理想家型であつたのにたいして、實行じっこう型であつた。木戸には、一定の主義があつて、時にはそれにとらはれたが、岩倉には、一定の主義がなく、機におうじ、へんしょしてゆくについてなり大膽だいたんで、勇往ゆうおう敢爲かんい氣象きしょうを示した。それだけに、政治家としては、木戸よりも、膽略たんりゃくの上ですぐれたとへる。その代りに時としては奸物視かんぶつしせられて、誤解を受けたことが往々おうおうある。けれども岩倉の尊皇心そんこうしんは、却々なかなか强烈きょうれつで、そのめにはどんな難局に起たうとも屈しなかつた。明治天皇は、左樣そ うした長所を認めて、これを適所に置かれ、岩倉をして十分に才能を發揮はっきせしめるやうにせられた。そこに天皇御思召おぼしめしがよくうかがはれる。岩倉がこうずると、天皇は、國葬こくそうれいを以てぐうたまひ、廢朝はいちょう三日に及んだ。岩倉の光榮こうえいまことに大きいとはねばならぬ。