68-2 楠正成贈位追陞の策命 明治天皇(第百二十二代)

【備考】楠公だいなんこうの事は、あまく世に知られてゐるが、その祖先そせんについては、現在ほ判明しない。ただこう河內かわちの住人で、東大寺領の莊務しょうむ關係かんけいしたことだけは、今日こんにち明白になり、東大寺の支配のもとにゐた豪族だつた。れが建武けんむ中興ちゅうこう偉業いぎょう翼賛よくさんした由來ゆらいについて考察すると、幼少の時から觀心寺かんしんじ金剛寺こんごうじなどに參詣さんけいしたことが一因となつてゐる。後醍醐ごだいご天皇は、それらの寺と深い交渉を持つてをられた關係かんけいから、おのづから、勤王心きんのうしんいだいた事が、づ考へられる。楠公だいなんこうは、後醍醐ごだいご天皇の信任厚かつた文觀ぶんかん僧正そうじょう(醍醐報恩院)をも間接に知つたこととすいせられる。いずれにしても、大楠公が、勤王きんのう軍に參加した動機は純粹じゅんすいで、そこに何ら野心がなかつた。それは、諸將しょしょうの場合と、おのづからことなつてゐる。ここ楠公だいなんこう忠誠ちゅうせいが、水際みずぎわつて、徹底してゐたことが知られる。現在、湊川みなとがわ神社じんじゃ所藏しょぞうされてゐるこう法華經ほけきょう奥書おくがき建武二年八月二十五日付)には北條氏ほうじょうし逆徒ぎゃくとしょうし、何處迄どこまでも、大義たいぎ名分めいぶんを重んじて、皇道こうどう發揮はっきせねばならぬ決意と信念とをあきらかにしてゐる。明治天皇は、左樣そ うした楠公だいなんこう心事しんじよみせられ、贈位ぞうい追陞ついしょう御沙汰ご さ たあらせられたのであつたと拜察はいさつする。

 ここに特に一げんして置きたいのは、淺見あさみ絅齋けいさい楠公なんこう崇拜すうはいである。世に楠公なんこうに共鳴するものが多いけれども、絅齋けいさいの如く、徹底してゐるものはすくない。彼は楠公なんこう最期さいご心事しんじを最もよく理解し、『剳錄さつろく』のうちにおいて、「近代武士の義の吟味は、ただおくれを取らざるの、名を汚さぬのとふ迄にて、つまるところ、小さき一意氣い きづくにほかならず。くすのき正成まさしげなどは、斯樣かようの名にかかわり、意氣い きづくの人間にてはなけれども、公家こうけしゅうに向つては、何事をふてもとても用ひられぬ。高氏こうし西國さいごく驅催かりもよほしてきたる。ふせぐべき道をへば、坊門ぼうもん宰相さいしょうの如きたはけをつくゆえ最早もはや生きて、天子の御難儀ごなんぎになりたまふべきを見るに忍びず。總竝すべなみに泥にまぶれてられぬ。世の中今は是迄これまでぞんじ切つたる心、感慨かんがい忍びざるのなげき、千載せんざい忠義ちゅうぎの人の涙をこぼすに堪へざる親切の忠臣ちゅうしん」なりと述べてゐる。

 絅齋けいさいは、また『楠公なんこう櫻井驛さくらいのえき訣別けつべつの歌』を一般人に示して、その忠義の精神せいしん萬世ばんせいつたへようと考へ、謠曲ようきょくに仕組んだのであつた。それは、左の如くで、文辭ぶんじ以外、作者の精神せいしんが、字々じ じ句々く くの上におのづから躍動やくどうしてゐる。

  其時そのとき正成まさしげ肌の守りをとり出し、

  これは一とせ都攻みやこぜめのありし時、

  くだたまへる綸旨りんしなり、

  世もこれまでと思ふにぞ、

  なんじにこれをゆづるなり、

  われともかくもなるならば、

  世は高氏たかうじの世となりて、

  芳野よしのの山の奥深く、

  叡慮えいりょなやませたまはんは、

  鏡にかけて見る如し、

  さはさりながら正行まさつらよ、

  しばしのなんをのがれんと、

  弓張月ゆみはりつきの影くらく、

  家名かめいけがすことなかれ、

  父が子なれば流石さすがにも、

  忠義ちゅうぎの道はかねて知る、

  ちもらされし郞黨ろうとうを、

  あわれみ扶持ふ ちしいたはりて、

  吉野よしのの川の水きよく、

  流れえせぬ菊水きくすいの、

  旗を再びなびかして、

  敵を千里に退しりぞけて、

  叡慮えいりょをやすめたてまつれ、

  あゝ叡慮えいりょをやすめたてまつれ。

 以上、多少、書物により、辭句じ く異同いどうがあるが、ここには、その穩當おんとうと思はるるところにしたがつた。

 絅齋けいさい謠曲ようきょくのほかに、古來こらい楠公なんこうえいじた詩は、賴山陽らいさんようその他、決して少くない。絅齋けいさいにも佳作かさくがあるが、そのうちで、大槻おおつき磐溪ばんけいの詩をわたくしは最も好む。それは楠公なんこう精神せいしんあらはしてゐるからである。

  ◯楠公なんこう湊川みなとがわ戰死せんし

  王事おうじなん成敗せいばいを以て論ぜん、

  ただ順逆じゅんぎゃくを知る忠臣ちゅうしん

  こう兒孫じそんあり、

  たり南朝なんちょう五十しゅん

 山陽さんようの「楠河州なんかしゅうはかえっしてさくあり」は長篇で、しかも彼が十八歲の時の作品であるが、一奔放ほんぽう楠公なんこうの生涯をえがき出したてんでは傑出けっしゅつしてゐる。楠公なんこう最期さいごを歌つたてんは、いかにも、悲壯ひそう沈痛ちんつうだ。「攝山せつざん逶迤い いとして海水かいすいみどりなり、われきたつて馬よりくだ兵庫ひょうごえき、想ひ見るわかれ弟を呼びきたつてここたたかふ、刀は折れ矢はきてしんことおわる、北向ほっこう再拜さいはい天日てんじつくもる、七たび人間にうまれてこのぞくほろぼさん」とぎんじ、いでの如く、楠公なんこう精神せいしんとその不朽ふきゅうの光とを高調してゐる。

  碧血へきけつあとす五百さい

  茫茫ぼうぼうたる春蕪しゅんぶ大麥たいばくちょうず、

  きみ見ずや君臣くんしん相圖あいはか骨肉こつにくあいむ、

  九よう十三せいなんそんするところぞ、

  如何いかん忠臣ちゅうしん孝子こうしの一門にあつまり、

  萬世ばんせいしもぺんの石、

  無數むすう英雄の涙痕るいこんとどむるに。

 北條ほうじょう九代、足利あしかが十三代を嘲笑ちょうしょうして、楠公だいなんこうの永遠の生命を禮讃らいさんするところに、後年こうねん山陽さんようの特質を想はしめるものがある。山陽さんようには、九州の楠公なんこうともいふべき菊池きくち正觀公せいかんこう(武光)の古戰場こせんじょうを過ぎて、ぎんじた長詩ちょうしがある。これ又佳作かさくだ。菊池氏は武光たけみつのみならず、父子兄弟四世の間、勤王きんのう心血しんけつぎ、楠公なんこう一族と同じく臣節しんせつまっとうした。さて日本人として楠公だいなんこう讃美さんびするのは、あまりにも當然とうぜんすぎるが、支那し な學者がくしゃしゅ舜水しゅんすい楠公だいなんこう傾倒けいとうしたことは一そう、感銘をふこうする。れは、楠公だいなんこう事蹟じせき、少くともその出身について、また王事おうじにつとめる以前において、もつと、楠公だいなんこう事蹟じせきをはつきり究明きゅうめいしたいといふ希望さへ述べてゐる。彼の楠公なんこうのさんは、異邦人として、最もよく日本精神せいしんれた代表的名篇めいへんだといつてからう。

  ◯くすのき正成まさしげ像賛ぞうさん

忠孝ちゅうこう天下にあらはれ、日月じつげつ天にうららかなり。天地に日月じつげつなくば、すなわ晦蒙かいもう否塞ひそくし、人心じんしん忠孝ちゅうこうはいすれば、すなわ亂賊らんぞくあいぎ、乾坤けんこん反覆はんぷくす。聞く、楠公なんこういみな正成まさしげなるもの、忠勇ちゅうゆう節烈せつれつにして國士こくし無雙むそうなり。行事ぎょうじあつむるに概見がいけんすべからず。大抵たいていこうの兵をもちふるや、强羽きょうういきおい幾先きせんつまびらかにし、成敗せいばい呼吸こきゅうけっす。人を知りてにんじ、たいしてまことす、れを以てはかりごとあたらざるなく、いくさたざるなし。心を天地に誓ひ、金石きんせきかわらず、めにもどらず、害のめにおそれず、ゆえく王室を興復こうふくし、舊都きゅうとかえる。

 ことわざふ、前門ぜんもんおおかみふせぎ、後門こうもんとらは進むと。廟謨びょうぼからず、元凶げんきょうくびすを接し、國儲こくちょ構殺こうさつし、鍾𥳁しょうきょ傾移けいいす。こうんなんとしてしゅふるはし、さくしといえどしかもちひられず、いにしえよりいま元帥げんすいまえねたみ、庸臣ようしん專斷せんだんして、しか大將たいしょうこうそとに立つる者あらず。これひきゐるに身を以てくにに許し、死にいてなし、臨終りんじゅう、子におしふるをるに、從容しょうようとしてき、託孤たっこ寄命きめいげんわたくしに及ばず、精忠せいちゅうつらぬくにあらざるよりは、かくの如くととのふにいとまあらんや。父子ふ し兄弟きょうだい世々よ よ忠貞ちゅうていあつく、節孝せっこう一門にあつまる、なるかな、今に至りて王公おうこう大人たいじん、以て里巷りこうに及ぶまで、口をまじへて誦說しょうせつしておとろへず、の必ずおおいに人にぐる者あらん。しいかな、ふでする者、まことを考ふる所なく、盛美せいび大德だいとく發揚はつようすることあたはざるのみ。」

 しゅ舜水しゅんすいは、學者がくしゃとして人格卓越たくえつし、その節操せっそうの上において、第一人者ともいふべき國士こくしである。彼が支那し な出身であつて、しか楠公だいなんこうを理解すること、すこぶる深いところがあるのは、流石さすがだけのことはある。楠公だいなんこうは、名譽めいよ拘泥こうでいせぬ英雄であるけれども、しゅ舜水しゅんすいさんには、破顏はがん微笑びしょう、その大義たいぎ名分めいぶんを解するてんに共鳴するであらう。