68-1 楠正成贈位追陞の策命 明治天皇(第百二十二代)

くすのき正成まさしげ贈位ぞうい追陞ついしょう策命さくめい(明治十三年七月二十日 公文錄)

天皇大命、贈正三位朝臣、官位姓名使宣給波久止。往昔年號元弘建武頃、天下亂禮爾、人心荒備爾備氐、天津日嗣乎母知者無里志、汝命誠實振起、皇御稜威彌高彌廣助奉作奉良牟止、家族親族引率射向賊等伐罰、最後爾波戰場身歿給比支。惟己命身沒給比志、兄弟子孫留麻氐爾、都我彌繼繼、草牟須屍水都久屍天皇御楯、許多間吉野行宮守奉里志、專汝命氐志、然在曾止奈母御思。凡汝命皇朝仕奉里志、天地共臣志止御思須賀、先年湊川神社別格官幣社定奉給志加止母、尙不飽足御思、今此所良世布爾里天、特殊奈留大命以、墓使差正一位贈給、故斯狀聞⻝世止宣給天皇大命聞⻝世止宣。

【謹譯】天皇すめら大命おおみことにませ、ぞうしょう朝臣たちばなのあそみはかまえに、官位かんい姓名せいめい使つかいとなしてりたまはくとる。往昔むかし年號と し元弘げんこう建武けんむひしころあめしたみだれにみだれ。ひとこころらびにらびて、天津あまつ日嗣ひつぎとうとことをもものなかりしときに、いましみことい、きよなおただしき誠實まことこころふるおこし、すめら御稜威み い ずをいやたかにいやひろたすたてまつおこたてまつらむとなして、家族かぞく親族しんぞくきゐ、むかぞくなどをうちめ、最後さいごにはいくさにわ歿まかたまひき。ただおのれいのちまかたまひしのみにあらず、兄弟はらから子孫こどもいたるまでに、つがののいや繼々つぎつぎに、くさむすかばねづくかばね天皇すめら御楯みたてとなして、許多ここだとしあいだ吉野よしのやま行宮あんぐうまもたてまつりしことも、もっぱいましみことおしえよりてし、しかあるものぞとなもいつもおぼしめす。およいましみことすめら朝廷みかどつかたてまつりしさまは、天地あめつち共臣むたおみおみかがみとあるべしとおもほすがゆえに、先年せんねん湊川みなとがわ神社じんじゃ別格べっかく官幣社かんぺいしゃさだたてまつたまひしかども、らずおもほすうちに、いま此所こ こいたらせたまふにりて、とくことなる大命おおみことて、はか使つかいつかわしてさらしょうおくたまふ。さまきこしめせとりたまふ天皇すめら大命おおみことこしめせとる。

【字句謹解】◯大命にませ 天皇御意ぎょいのままに ◯正三位朝臣 楠木くすのき正成まさしげのこと しょう後醍醐ごだいご天皇からおくられたのであり、正成まさしげ橘諸兄たちばなのもろえから出てゐるので朝臣たちばなのあそみといつた ◯官位姓名を使となし 使者(勅使)の官位と姓名とがこの場は略されてゐる ◯元弘 後醍醐ごだいご天皇年號ねんごう〔註一〕參照さんしょう ◯建武 同じく後醍醐ごだいご天皇年號ねんごう〔註二〕參照 ◯亂れに亂れ みだれるが上にみだれる、所謂いわゆる天下があさの如くにみだれる意 ◯荒らびに荒らび あらぶるが上にあらぶる、あらぶるとは社會しゃかいの秩序がみだれると共に人々の心に大義たいぎ名分めいぶんが失はれること ◯天津日嗣 萬世ばんせいけい皇位こういの意 ◯汝命い 正成まさしげを指される。は添へられたので幾分かしたをあらはした言葉 ◯淸く 私心ししんのないこと ◯直く正しき 正直なこと ◯誠實の心 一朝廷に御奉公ごほうこうする心 ◯皇御稜威 皇室の御威光ごいこう ◯いや高にいや廣に 一そう高くひろく。いやは現在あるが上にも一そうの意 ◯射向ふ賊 朝廷に弓を引く賊 ◯戰の場に身歿り 延元えんげん元年(建武三年)に湊川みなとがわで弟の正季まさすえと刺しちがへてぼっしたこと ◯己の命 正成まさしげ自身 ◯つがの木のいや繼々に つがの木は松杉科しょうさんか常緑じょうりょく喬木きょうぼくで、繼々つぎつぎ冠辭かんじ、葉先が二れつすることから兄弟・一族が引きつづいての意にここでは使用されてゐる ◯草むす屍水づく屍 山野さんやたたかへば天皇おんめにそこで死んで、死骸から草が生じ、海でたたかへば天皇おんめにそこで死んで死骸を水にけるとの意で、大伴氏おおともうじ天皇への忠誠ちゅうせいを誓つた歌である。『萬葉集まんようしゅう』には大伴おおとも家持やかもちがこれを挿入してえいじた長歌ちょうかがある〔註三〕參照 ◯天皇の御楯となして 身を以て天皇を防ぎたてまつることをかく表現した ◯許多の年 多くの年 ◯行宮 行在所あんざいしょ、一の御住所を申したてまつる ◯ 平常の敎訓きょうくん ◯然ある者ぞ 正成まさしげ敎訓きょうくんもとづいて忠義に厚かつたものである ◯おぼしめす 天皇おんおもんばかりあそばされたこと ◯天地の共 天と地とが存在する限り無限にの意 ◯臣と云ふ臣の鑑 すべての朝臣ちょうしんの模範 ◯湊川神社 正成まさしげまつつた神社じんじゃの名 ◯別格官幣社 官幣社かんぺいしゃとは一定の時に朝廷から幣帛へいはくたてまつ神社じんじゃしょう。それの中で格式の重いのが別格べっかく官幣社かんぺいしゃである ◯飽き足らず 十分とは思はない ◯此所に至らせ給ふ この地方に御巡幸ごじゅんこうあそばされた意。

〔註一〕元弘 皇紀こうき一九九一年から九三年までの年號ねんごう北朝ほくちょうでは光嚴院こうごんいん擁立ようりつした。

〔註二〕建武 皇紀こうき一九九四年から九五年(或は九七年)までの年號ねんごう元弘げんこう建武けんむの世の狀態じょうたいを知るために、この間に起つた事件の主なものをす。

〔元弘元年〕◯後醍醐ごだいご天皇笠置かさぎ行幸ぎょうこう ◯高時たかとき光嚴院こうごんいん擁立ようりつ ◯笠置かさぎ落城 ◯正成まさしげ義兵ぎへいを起す ◯赤坂城あかさかじょうおちいり、正成走る 

〔元弘二年〕◯天皇隱岐お き遷幸せんこう ◯正成まさしげ赤坂城あかさかじょうふくす ◯正成は千早城ちはやじょうを、護良もりなが親王しんのうは吉野に城を築く 

〔元弘三年〕◯天皇伯耆ほうき潜幸せんこう ◯土居ど い得能とくのう菊池きくちの各氏義兵ぎへいぐ ◯高氏たかうじ歸順きじゅん ◯官軍かんぐん京都恢復かいふく執權しっけん守時もりとき自殺 ◯義貞よしさだ鎌倉をおとしいる、高時たかとき伏誅ふくちゅう ◯光嚴院こうごんいんはいす ◯天皇還幸かんこう

建武元年〕◯初めて紙幣を用ふ ◯記錄所きろくしょ雜訴ざっそ決斷所けつだんしょなどを置く 

建武二年〕◯護良もりなが親王しんのうしいせらる ◯高氏たかうじみずか征東せいとう將軍しょうぐんしょうしてはんす ◯赤松あかまつ則村のりむら反す 

〔延元元年〕(建武三年)◯天皇延曆寺えんりゃくじ行幸ぎょうこう ◯高氏たかうじ入京にゅうきょうして西走せいそうす ◯高氏入京、正成戰死せんしす、車駕しゃが再び延曆寺えんりゃくじ行幸ぎょうこう ◯高氏光明院こうみょういん擁立ようりつす ◯建武けんむ式目しきもく十七じょうる ◯天皇吉野に遷幸せんこう 

〔延元二年〕(建武四年)◯瓜生うりゅうたもつ戰死せんし ◯金崎城かながさきじょうおちいる、尊良たかなが親王しんのう新田にった義顯よしあき戰死せんし ◯北畠きたばたけ顯家あきいえなど鎌倉をおとしい

〔註三〕草むす屍水づく屍 この語句を挿入した『萬葉集まんようしゅうまき十八の家持やかもち長歌ちょうかに示す。「陸奥むつのくによりくがねいだせる詔書みことのりことはうた」と題されてゐるので、『神祇じんぎ佛敎ぶっきょう篇』にも述べておいた。

葦原あしはら瑞穗みづほくにを、天降あまくだりしらしめしける、天皇すめろぎかみみことの、御代み よかさあま日嗣ひつぎと、しらしきみ御代み よ々々み よきませる四方よ もくにには、山河やまかわひろあつみと、たてまつ御調寶みつぎたからは、かぞつくしもねつ、しかれども大王おおきみの、諸人もろびといざなたまひ、ことはじたまひて、くがねかもたのしけくあらむと、おもほしてしたなやますに、とりあずまくにの、陸奥みちのく小田お だなるやまに、くがねありともうたまへれ、御心みこころあきらめたまひ、天地あめつちかみ相納受あいうずなひ、皇御祖すめらぎ御靈みたまたすけて、とおになかりしことを、御世み よあらはしてあれば、⻝國おすくにさかえむものと、かんながらおもほしして、もののふの八十伴やそともを、まつろへのむけのまにまに、老人おいびと女童兒めのわらわこも、ねがこころらひに、たまおさたまへば、これをしもあやにたっとみ、うれしけくいよよおもひて、大伴おおともとお神祖みおやの、そのをば大來目主おおくめぬしと、ちてつかへしつかさうみかばかばねやまかばくさかばね大皇おおきみにこそなめ、かえりみはせじとことて、丈夫ますらおきよを、いにしえいまおつつに、ながさへるおや子等こどもぞ、大伴おおとも佐伯さえきうじは、ひとおやつる言立ことだてひとおやたず、大君おおきみ奉仕まつろふものと、げる、ことつかさぞ、梓弓あずさゆみちて、劔大刀つるぎだちこしき、朝守あさまもゆうまもりに、大王おおきみ御門みかど守護まもりわれをおきてまたひとはあらじと、いやおもひしまさる、大皇おおきみ御言みことさきの、けばとうとみ」

〔注意〕明治時代に於けるこの種の過去の人々(明治以前)にたいする贈位ぞうい追陞ついしょう詔勅しょうちょくの代表的なものをかかげる。

(一)藤原ふじわら藤房ふじふさ追賞ついしょうするの勅語ちょくご明治元年九月二十二日、法令全書)

(二)故大石おおいし良雄よしたかを追賞するの勅語明治元年十一月五日、法令全書)

(三)故毛利もうり元就もとなり神號しんごうおくるの宣命せんみょう(明治二年三月三日、太政官日誌)

(四)故藤原不比等ふ ひ と追賞の勅語(明治十年二月十日)

(五)故武內たけのうち宿禰すくね追賞の勅語(明治十年二月十一日)

(六)故楠木くすのき正行まさつら追賞の勅語(明治十年二月十七日)

(七)故德川とくがわ光圀みつくに贈位ぞうい追陞ついしょう勅語(明治三十三年十一月十六日、笠間御臨幸記)

(八)故本居もとおり宣長のりなが位階いかい追陞ついしょう策命文さくめいぶん(明治三十八年十二月十一日)

【大意謹述】天皇御詞おことばのままに、かつしょうおくられた楠木くすのき正成まさしげ朝臣たちばなのあそんの墓前に、某官ぼうかんそれがし宣命使せんみょうしとしてもうし上げる。

 昔、後醍醐ごだいご天皇御宇み よ元弘げんこう建武けんむ年號ねんごうを定められた頃、天下がみだれるが上にもみだれ、人々の心が荒廢こうはいする上にも荒廢こうはいして、大義たいぎ名分めいぶんわきまへる者は一人もなく、萬世ばんせいけい皇位こうい尊嚴そんげんを誰も知る者が居なかつた。この時にあたり、なんじ正成まさしげは、私心ししんなく正直で、一朝廷に御奉公ごほうこう申し上げる心を振ひ起し、皇室の御德光ごとっこうをその時在つたよりも一そう高大にしようとつとめた。すなわみずから一もんの人々を引率して、朝廷に矢を放つ國賊こくぞく一同を討ち破つて天罰を加へ、最後には不幸、戰場せんじょうの露と消え失せたのである。皇家のおんめにたんに自分だけの一命をたたかいの庭に捨てたのみではなく、兄弟も、又子孫に至るまでも、次から次にと、一よう天皇を守護しまゐらせて、あるい山野さんやに死骸をさらし、あるい河海かかいにおいて天皇御傍おそばしかばねを浮かすことを望むと昔の人がつた通り、はば天皇御楯みたてとなつて多年たねん吉野山よしのやまにあられた一の御休息所を守りたてまつつた事實じじつも、やはり根本はなんじ正成まさしげの常々の敎訓きょうくんが正しかつたからで、兄弟・子孫はそれを忠實ちゅうじつに守り忠義をつくしたのであつたらうと思召おぼしめされる。

 要するに、これらを含めて、なんじ正成まさしげが朝廷に奉仕したすべての事實じじつは、天地の存在する限り、無限に臣下しんか一切の模範となるであらうと御思慮ごしりょあり、そのゆえにこそ先年せんねんなんじを祭つた湊川みなとがわ神社じんじゃ別格べっかく官幣社かんぺいしゃと定められたのであるが、それでもなんじ功勞こうろうたいして十分でないと思召おぼしめされ、今囘こんかいの地方を御巡幸ごじゅんこうあそばされたのを機會きかいに、特別の御叡慮ごえいりょから、その墓前に勅使を派遣され、又位階いかいのぼせてしょう一位をおくられる。ゆえかくおおせられる天皇の有難い御詞おことばを、きこしめされるやうもうし告げる。