62 木戸邸ニ臨幸ノ際下シ給ヘル勅語 明治天皇(第百二十二代)

木戸き どてい臨幸りんこうさいくだたまヘル勅語ちょくご(明治九年四月十四日)

【謹譯】なんじ孝允こういん維新いしんはじめヨリ國事こくじ鞅掌おうしょうシ、いまさいわい平安へいあんぞくス。なんじ輔翼ほよくこうところナリ。ちんここ親臨しんりんシ、かんつくスヲよろこフ。

【字句謹解】◯木戸孝允 長州ちょうしゅう派を代表した明治維新元勳げんくん〔註一〕參照さんしょう ◯國事ニ鞅掌シ くにのために忙しく働いてかえりみるいとまのない意。鞅掌おうしょうは背に荷物を、手に物を持つてゐるので容儀ようぎを修むるいとまのない意。てんじて物のせはしくて他を顧みられないことになる ◯輔翼ノ功 天皇の手足となつてたすたてまつつた功勞こうろう ◯親臨 親しくその場に臨まれること ◯歡ヲ盡ス 十分のもてなしに滿足まんぞくする。

〔註一〕木戸孝允 長州ちょうしゅう藩士はんしで、本姓ほんせいを和田とつたが、かつら氏に養はれて、かつら小五郞こごろうと改めた。はやくから尊皇そんこうの大義を唱へ、江戸に出て、諸藩の名士と交り、尊攘そんじょう派の公卿く げと事をはかつて、薩長さっちょう聯合れんごう實現じつげんした。その結果、幕府をして大政たいせい奉還ほうかんするに至らしめ、藩籍はんせき奉還ほうかんのことについてもまたおおいに力をつくしたのである。かくして政局の上に重要地位をむるに及び、木戸じゅん一郞としょうし、樞機すうき參與さんよした。明治四年、全權ぜんけん副使ふくしとして、岩倉大使と共に歐米おうべい巡囘じゅんかいし、六年歸朝きちょう征韓論せいかんろんの起つた際には、內治ないじ本位のせつを主張してこれ反對はんたいし、後、文部卿もんぶきょうとなつた。次いで參議さんぎに任ぜられ、明治十年、車駕しゃが扈從こじゅうして京都に赴き、五月、病んで、その地の客舍きゃくしゃ薨去こうきょした。とし四十四。れは文治ぶんじ派の一人として重きをし、進歩的な人、純理じゅんりたっとぶ人として、長藩ちょうはん勢力を代表し、大久保、西郷と共に、維新三けつしょうせられた。

〔注意〕本勅ほんちょくくだしおかれた五日後の十九日には大久保おおくぼ利通としみち邸に臨まれ、本勅ほんちょくと同じみことのりを下された。

【大意謹述】なんじ孝允こういん、維新の最初からくにのためにかえりみず、力をつくした事はちんとするところである。現在、さいわいにも世は治まり、人民はおだやかに生活するやうになつた。これ全くなんじが朕の手足となつて輔佐ほ さした功勞こうろうの結果もある。ちん本日、ここに親しく臨み、十分その歡待かんたい滿足まんぞくしたことを告げる。

【備考】木戸き ど孝允こういんは、政治家として、識見しきけんちょうじ、その行動・態度常に正理せいりに合してゐた。ただ大久保の如き膽略たんりゃくなく、實行力じっこうりょくには、乏しいところがあつた。したがつて、大久保の勢力あっせられたやうな場合さへあつて、始終、不平を胸にいだいてゐた。西南役せいなんえきのときは、大分だいぶ、心痛し、いろいろ配慮したことが、あるいは、れの生命を縮める一因となつたやうに思はれる。彼れが薨去こうきょぜん、三浦梧樓ごろうあたへた手紙には西南役せいなんえきの事について、「此度このたび人民の疾苦しっく國家こっかの損害、容易ならず、浩嘆こうたんの至りに御座候ござそうろう」といひ、「人世不如意じんせいいのごとくならず後來こうらいためにはうれいを消すあたはざる樣子ようすじつに少からず、涕泣ていきゅうの至りに御座候ござそうろう」とつてゐる。すべてにおいて、センチメンタルになり過ぎ、それが彼れの病を重くした。明治十年、薨去こうきょしたとき、明治天皇は、深く悼惜とうせきせられ、勅語ちょくごたまわつた。

 公誠こうせい忠愛ちゅうあいつとに心を皇室に傾け、獻替けんたい規畫きかくおおいに力を邦猷ほうゆうぶ、維新の鴻圖こうとさんし、中興ちゅうこう偉業いぎょうたすけ、こう全くとくゆたかに始めあり終りあり。まことにこれ國家こっか柱石ちゅうせきじつちん股肱ここうたり。ここ溘亡こうぼうを聞く、なん痛悼つうとうへん。よっしょう二位をおくり、あわせて金幣きんぺいたまふ。せんす。