59 司法省雇佛人「ボアソナアド」ニ下シ給ヘル勅語 明治天皇(第百二十二代)

司法省しほうしょうやとい佛人ふつじん「ボアソナアド」ニくだたまヘル勅語ちょくご(明治七年八月五日)

【謹譯】はじめ面會めんかいよろこハシ。なんじ去冬きょとう以來いらい司法省しほうしょうリテ法律ほうりつことしたがおおい勉勵べんれいだんちんこれ滿足まんぞくセリ。今般こんぱん全權ぜんけん辨理べんり大臣だいじん大久保おおくぼ利通としみち淸國しんこく派遣はけん臺灣たいわん蕃地ばんち事件じけん辨理べんりセシムルニキ、なんじめいシテ隨行ずいこうセシム。よっ利通としみちヨリはかことアラハ、なんじ意見いけんつくシ、これたすケテ勉勵べんれいアランコトヲのぞム。

【字句謹解】◯ボアソナアド G.Boisonade Fontarbie のこと。我がくに司法上の恩人〔註一〕參照さんしょう ◯去冬以來 去冬きょとうとは明治六年冬のこと。この時にボアソナアドは來朝らいちょうした ◯全權辨理大臣 事件を處理しょりする上に於いて全權ぜんけんまかされた大臣のこと ◯大久保利通 明治維新の三けつとして有名である〔註二〕參照 ◯臺灣蕃地ノ事件 生蕃せいばんのために我が國人こくじん慘殺ざんさつされ、われ支那し なに交渉したが要領を得ず、臺灣たいわん征伐せいばつおこなつた事件〔註三〕參照 ◯辨理 適當てきとう處理しょりすること ◯隨行 同行の意 ◯諮ヒ詢ル事 法規問題に就いて相談すること ◯意見ヲ盡シ 主張のすべてをべる ◯之ヲ輔ケテ 利通としみちたすける。

〔註一〕ボアソナアド 一八二五年にフランスのヷンサンヌに生れ、パリイに遊學ゆうがくして法律をまなび、一八五二年に法律博士のしょう、一八六四年にグルノオブル大學だいがく法科ほうか敎授きょうじゅとなり、後にパリイ大學にてんじて經濟學けいざいがく擔當たんとうした。

 明治五年秋に、司法卿しほうきょう江藤えとう新平しんぺいは、明治寮內りょうないに法學校を起し、ジユ・ブスケを敎師としたが、六年末に至り、ボアソナアドがへいせられて日本へた。以後れは刑法・治罪ちざい法の草案作成に從事じゅうじし(之は明治十五年實施)次いで民法の草案にしたがひ、その一部は改正後、實施じっしを見た。なほその法律顧問となり、內務・外務の事にも力をつくし、明治及び和佛わふつ法律校へも出て講義した。明治七年には本勅ほんちょくにある如く臺灣たいわん事件に際して、我が全權ぜんけん大久保利通隨行ずいこうし、そのこうによりくん二等をたまわつた。ボアソナアドの功績中、特筆にあたいするのは、我が國の拷問をはいし、證據しょうこ裁判の必要を司法省に進言しんげんして實行じっこうを見たことである。彼れは明治二十八年歸國きこくに際しては、くん一等ならびに終身年金二千えん下賜か しされ、三十五年には帝國ていこく大學だいがく講師たるの功勞こうろうによつて名譽めいよ敎授の稱號しょうごうを得た。

〔註二〕大久保利通 鹿兒島かごしま藩士で、明治維新の際、一躍有名になつた。慶喜よしのぶ政權せいけん返上、藩籍はんせき奉還ほうかんなどの大事件には、裏面りめんに於いて彼の畫策かくさくあずかつてちからあつたとつたへられる。歐米おうべい巡𢌞じゅんかいのち內務卿ないむきょうとなり、征韓論せいかんろん反對はんたいして內治ないじに主力を注いだ。ところが、征韓派せいかんは壯士そうしにらまれ、明治十一年五月十四日、島田しまだろうのため東京赤坂紀尾井町きおいちょうで暗殺された。

〔註三〕臺灣蕃地ノ事件 明治四年十月に琉球りゅうきゅう宮古みやこ八重山やえやま二島の住民六十六名が臺灣たいわん漂著ひょうちゃくして生蕃せいばんのために大部分が虐殺されたことがあつた。又、明治六年にも備中びっちゅうの者四人が慘虐ざんぎゃく取扱とりあつかいを受けた。我が國ではこれいきどおり、外務卿がいむきょう副島そえじま種臣たねおみ全權ぜんけん大使として北京ペキンおもむかせ、琉球りゅうきゅうは我が領土であることを主張し、淸國しんこくに向つて蠻民ばんみん處分しょぶんを要求した。しかるに淸國しんこくは、

(一)琉球りゅうきゅうの我が領土であることを認めず、

(二)臺灣たいわん化外かがいにある、

しょうして取合はない。そこでわれは自力につて問題を解決するほかはないと、明治七年に佐賀のらんの平定をつた政府は、大隈おおくま重信しげのぶを長官に、西郷さいごう從道つぐみち都督ととくとして征臺せいたい軍を起し、臺灣たいわんせいした。われ戰勝せんしょうを聞いて淸國しんこくは驚き、前言ぜんげんひるがえして、臺灣たいわん支那し な版圖はんとであると主張し、我が軍の撤去を要求した。

 ここに於いて我國わがくにでは本勅ほんちょくはいする如く、大久保利通全權ぜんけん辨理べんり大使とし、法律顧問たるフランス人ボアソナアドをしたがへしめて北京ペキンおもむかせた。會議かいぎを重ねること七かい、一ヶ月の日子にっし經過けいかし、駐支ちゅうしイギリス公使ウエエドの調停によつて、十一月六日に北京條約じょうやくが成立した。この條約じょうやくに於いて淸國しんこくは五十まんテエルの償金しょうきんわれ支拂しはらひ、生蕃せいばんが我が渡航とこうみんに危害を加へないことを誓ひ、我が征臺せいたいの事を保民ほみん義擧ぎきょと認めたので我が國も撤兵を承諾し、事件は落着した。『軍事外交篇』参照の事。

【大意謹述】ボアソナアドよ、ちんなんじ初對面しょたいめんすることを本懷ほんかいとする。なんじ去年の冬以來いらい、我が司法省しほうしょうに勤務して法律の編纂へんさん・整備につとめ、すこぶせい出しておもむきを知つた。それについても朕も滿足まんぞくである。今囘こんかい全權ぜんけん辨理べんり大臣の大久保おおくぼ利通としみち淸國しんこくつかはし、臺灣たいわん生蕃せいばん邦人ほうじんを虐殺した事件を處分しょぶんさせることになつたにつき、朕は汝に隨行ずいこうを命ずる。ゆえに談判の進行中、利通としみちから法規上の問題に就いて意見を求められることがあつたならば、汝の主張を遠慮なくべ、十分に利通をたすけて善處ぜんしょすべく骨折ほねおりのほどを希望する。