58 島津久光鹿兒島ニ歸ルニ當リ下シ給ヘル勅語 明治天皇(第百二十二代)

島津しまづ久光ひさみつ鹿兒島かごしまかえルニあたくだたまヘル勅語ちょくご(明治七年二月 島津久光公實記)

【謹譯】なんじ久光ひさみつ近日きんじつ鎭西ちんぜい形勢けいせいうれヒ、みずか鹿兒島かごしまおもむカント縷々る る上陳じょうちんス。ちんはなはだその至誠しせい衷情ちゅうじょうかんス。いま國家こっか多事た じさいちん左右さゆうはなルヘカラストいえども事情じじょうまたムヲサルニツ。よろし本縣ほんけんいたリ、それちからつくスヘシ。なおすみやか歸京ききょうあるツ。

【字句謹解】◯島津久光 きゅう鹿兒島かごしま藩主はんしゅ〔註一〕參照さんしょう ◯鎭西 九州のこと ◯縷々 詳しく、こまかく ◯上陳 申し述べる ◯至誠 まごころの意味 ◯衷情 眞實しんじつ情想じょうそう ◯本縣 鹿兒島かごしまの事 ◯力ヲ竭スヘシ 國許くにもとおい動搖どうようせる士族らを諭さとして、平和に赴くべきことを十分計ること。

〔註一〕島津久光 齊彬なりあきらの弟、文化ぶんか十四年十月、鹿兒島かごしまに生れた。幼名ようめい普之進かねのしんといひ、元服して、又次郞またじろう忠敎ただのりつた。最初、その一門、島津しまづ忠公ただきみ養嗣ようしとなり、山城やましろしょうしたが、後、周防すおうと改めた。つと齊彬なりあきらの感化を受けて、勤王きんのうこころざしが厚かつたところから、諸藩に率先して、維新の大業を翼賛よくさんし、功勞こうろうが多い。明治二年、參議さんぎとなり、政治上につくすところもまた少くなかつた。同六年、麝香間じゃこうのま祗候しこうとなり、次いで內閣顧問の地位に就き、七年、右大臣に任ぜられた。明治十七年、多年たねん功勳こうくんによつて公爵こうしゃくさずけられ、二十年、じゅ一位にじょし、菊花きっか大綬章だいじゅしょうたまわつた。明治二十年十二月六日薨去こうきょ、同月十八日、國葬こくそうされた。時にとし七十一。

【大意謹述】なんじ久光ひさみつ、近日、九州に於ける不穩ふおんの形勢を憂ひ、みずか鹿兒島かごしまおもむいて、これを取鎭とりしずめようと決意せるよし、汝が委曲いきょくをつくした上奏じょうそうによつて、ちんこれ諒知りょうちした。朕はけい眞實しんじつ心持こころもちたいして、これをよみする。が、今や國家こっかこと多きの時、けい信賴しんらいするところが多いので、左右から離すに忍びないけれども、事情止むを得ぬ以上、一けい歸國きこくを許可する。けい鹿兒島かごしまおもむいて、不穩ふおんの形勢を緩和するやう、十分に力をつくしてほしい。ほ用件がみ次第、一日も早く歸京ききょうせよ、朕は切にそれを待つてゐる。