56 西郷隆盛等辭職ニ付キ陸軍武官ニ下シ給ヘル勅語 明治天皇(第百二十二代)

西郷さいごう隆盛たかもり辭職じしょく陸軍りくぐん武官ぶかんくだたまヘル勅語ちょくご(明治六年十月 陸軍省日誌)

【謹譯】西郷さいごうしょう病氣びょうきつき辭表じひょうおもむきアツテ參議さんぎ近衞このえ都督ととくとう差免さしゆるシ、もっと大將たいしょうきゅうごと申付もうしつけヲケリ。もとヨリ國家こっか柱石ちゅうせき信賴しんらいスルノおいかわルコトナシ。皆々みなみなけっシテ疑念ぎねんいだカス。是迄これまでごとク、職務しょくむ勉勵べんれいセヨ。

【字句謹解】◯西郷隆盛 征韓論せいかんろんに敗れたれは、非征韓派の岩倉・大久保らの方針を非として決然辭職じしょくした〔註一〕參照さんしょう ◯差免 職をめんぜられる事 ◯疑念 疑ひをさしはさむこと ◯懷カス いだかずに同じ。

〔註一〕西郷隆盛 文政ぶんせい十年十二月、薩州さっしゅう鹿兒島かごしま生れ、幼名ようめい吉之助きちのすけといひ、南洲なんしゅうごうした。早くから尊皇そんこう主義思想をいだいて、國事こくじ奔走ほんそうし、時の大老井伊い い直弼なおすけにらまれて、一時、同志のそう月照げっしょうと共に、うみに投じたことがある。その際、月照げっしょうは死んだが、隆盛たかもり蘇生そせいし、大島おおしまへ流された。それは安政あんせい五年のことである。後、ゆるされて歸國きこくすると、薩長さっちょう聯合れんごう尊王そんのう倒幕とうばくのことにつくし、大久保おおくぼ利通としみちと共に諸藩士はんしの間に重きをした。慶應けいおう三年、隆盛は同志と協議した上、藩主はんしゅ後見こうけん島津しまづ久光ひさみつ建言けんげんし、同年十月十四日、討幕とうばく密勅みっちょくを薩・長にたまわるやう密奏みっそうして、その實現じつげんを見た。丁度、その日、將軍しょうぐん德川とくがわ慶喜よしのぶは、上表じょうひょうして、大政たいせいを返上したので、ここ薩長さっちょう二藩を中心とする新政府が出來た。この時、隆盛は參與さんよとなり、政治上の樞機すうきあずかるに至つた。明治元年東征とうせい大總督だいそうとく有栖川宮ありすがわのみや熾仁親王たるひとしんのう參謀さんぼうとなり、かつ海舟かいしゅうこいれて江戸開城の大事を平和に進めて、市民を兵火の難からまぬがれしめ、四月、江戸城官軍かんぐんの手におさめた。やがて隆盛は奥羽おううに軍を進め、列藩れっぱんことごと歸順きじゅんしたのをとどけると、江戸に凱旋した。その後、一旦歸國きこく、明治四年上京して、參議さんぎに任ぜられ、近衞このえ都督ととく兼陸軍大將たいしょうの重任に就き、政府に重きをした。ところが、明治六年、隆盛らは、征韓論せいかんろんを主張し、東洋に於ける日本の勢力を伸ばし、日本をしてアジヤの盟主めいしゅたらしめようと計つたが、岩倉具視ともみ、大久保利通としみちらの反對はんたいするところとなつた。副島そえじま種臣たねおみ板垣いたがき退助たいすけ江藤えとう新平しんぺい後藤ごとう象二郞しょうじろうらは、隆盛の征韓論を支持したが岩倉らは、內治ないちを主とすべき旨を力說りきせつして、極力、征韓論を抑へることに努めた。その結果、隆盛らは、こころざしを達しないで、政府を去るに至つた。それは明治六年十月のことである。當時とうじ征韓論に共鳴した文武の官僚は、隆盛らと行動を同じくして續々ぞくぞく辭職じしょくし、人心じんしんすこぶ動搖どうようした。爾來じらい、隆盛は故山こざん歸臥き がして、私學校しがっこうし、後進こうしんを指導したが、後、子弟にようせられて起ち、政府の罪を問ふとしょうして熊本城をかこんだが、ついに敗れ、明治十年、城山しろやま戰死せんしした。時に年五十三、その弟に從道つぐみち小兵衞こ へ えらがある。小兵衞こ へ え西南役せいなんえきに隆盛にしたがひ、戰死した。その後、明治二十二年二月十一日、朝廷では、地下の隆盛にたいし、特別の思召おぼしめしを以て賊名ぞくめいを除く旨をつたへられ、しょうおくられた。(『軍事外交篇』参照)

【大意謹述】西郷さいごうしょう病氣びょうきのため、辭表じひょうを提出したので、參議さんぎ近衞このえ都督ととくの職をめんずることとした。が、陸軍大將たいしょうだけは元の如く、勤めるやう命じた。それについて、ちんは彼を國家こっかの柱ともいしずえとも信賴しんらいするのてんに於ては、以前とかわらぬ。よって一同は、隆盛たかもり辭職じしょく一件にかんし、疑念を抱かないで安心し、只管ひたすら職務を勉勵べんれいするやう、心がけよ。

【備考】當時とうじ士族の大半は、不遇の地位にゐて、何か事が起るやう、不穩ふおんの考へをいだいたものが少くなかつた。彼等はおおむ征韓論せいかんろんに同情し、隆盛たかもり崇拜すうはいしてゐた。それに隆盛の恩顧おんこを受けたものは、大抵、隆盛の辭職じしょくじゅんじ、薩州さっしゅう軍人の中堅ちゅうしん主腦しゅのうは多くその地位を去つた。こんな具合で、不安の念は到るところに生じ、殺氣さっき、西南の空をおおふといふ有樣ありさだつた。明治天皇は、深くこれを憂へたまひ、特に陸軍方面に向つて、諭さとされたのである。本勅ほんちょくはいすると、當時とうじの形勢が、眼に浮ぶやうに思はれる。