51 故山內豐信に位を贈るの勅語 明治天皇(第百二十二代) 

山內やまのうち豐信とよのぶくらいおくるの勅語ちょくご(明治五年六月 太政官日誌)

【謹譯】讜議とうぎ侃々かんかんはじめ太政たいせい復古ふっことなへ、偉勳いくん赫々かくかくつと皇圖こうと維新いしんさんす。まこと國家こっか柱石ちゅうせきじつ臣庶しんしょ儀型ぎけいたり。ここ溘亡こうぼうく、なん痛悼つうとうへん。よっじゅおくり、もっ表彰ひょうしょうす、せんす。

【字句謹解】◯山內豐信 土佐藩山內やまのうち容堂ようどうのこと〔註一〕參照さんしょう ◯讜議侃々 讜議とうぎは正しき議論、侃々かんかん剛直ごうちょくな姿 ◯太政復古 王政おうせい復古ふっこに同じ ◯偉勳 大きい手柄 ◯赫々 目立つた著しい形容 ◯皇圖維新 皇道こうどうの衰へたるを起して萬事ばんじ、面目を一新する事 ◯柱石 肝腎な土臺どだい ◯臣庶 臣民しんみんに同じ ◯儀型 模範の意味 ◯溘亡 にわかに卒去そっきょすること ◯表彰 功勞こうろうを世にあらはし示す。

〔註一〕山內豐信 明治維新實現じつげんについて、諸侯しょこう中、特に功勞こうろうの多かつた一人である。れは、そのしん後藤象二郞しょうじろう進言れて、大政たいせい返上の建白けんぱく德川慶喜よしのぶ捧呈ほうていし、王政復古先驅せんくをした。その後、慶喜よしのぶが大政を返上すると、小御所こごしょ會議かいぎで、慶喜よしのぶ處分しょぶんについてせられた時、公平なる意見を述べ、これを擁護ようごすることにつとめた。が、岩倉具視ともみが、手强てづよこれ反對はんたいしたので、れの意見は用ゐられなかつた。大體だいたいにおいて、彼れは、公武こうぶ主義を執り、朝廷ときゅう幕府との間を緩和する事に傾いてゐたが、本來、勤皇心きんこうしんに厚く、廢藩はいはん置縣ちけん斷行だんこうを見るに至る迄、種々のてんで、誠意を傾倒したのである。その功により、議政官ぎせいかんに任ぜられ、後、麝香間じゃこうのま出仕しゅっしした。卒去そっきょしたのは、四十六歲の時である。

〔注意〕きゅう土佐藩山內やまのうち容堂ようどうのほかに、肥前ひぜん藩主鍋島なべしま直正なおまさ長州藩毛利もうり敬親たかちか、毛利元德もとのり及び薩州さっしゅう藩主島津しまづ忠義ただよしらの卒去せしとき、左の如く誄詞るいしたまわつた。

(一)故鍋島なべしま直正なおまさくらいおくるの勅語ちょくご(明治四年一月二十三日)

(二)故毛利もうり敬親たかちかに位を贈るの勅語(明治四年四月十五日)

(三)故毛利もうり元德もとのりちょうするの勅語(明治二十九年十二月三十日)

(四)故島津しまづ忠義ただよしを弔するの勅語(明治三十一年一月十二日)

【大意謹述】けい剛直ごうちょくな態度のもとに、正しい議論をして、率先、王政復古せつを唱へ、その功績は、著しいものがある。けいはかくして、皇道こうどう發揚はつよう明治維新の上に力を注ぐところが多かつた。しんけい國家こっかはしらたりいしずえたるべき人物で、臣民しんみんの模範だ。今、その逝去せいきょを聞き、いたましく思ふ。よっじゅおくり、けいの生前の功勞こうろうを表彰する旨をここに告げる。