47 岩倉具視ノ勳功ヲ賞スルノ勅 明治天皇(第百二十二代)

岩倉いわくら具視ともみ勳功くんこうしょうスルノみことのり(明治二年九月二十六日 太政官日誌)

【謹譯】なんじ具視ともみ皇道こうどうおとろえうれヒ、おおい恢復かいふくこころざしいだク。つい大政たいせい復古ふっこ基業きぎょうたすケ、もっ天下てんかおもきにんシ、夙夜しゅくや勵精れいせい規畫きかくはかリ、もっ中興ちゅうこうぎょうス。まことくに柱石ちゅうせきちん股肱ここうせつ偉勳いくんミス。すなわ賞賜しょうしシテろうむくユ。ああ將來しょうらい益益ますますのぞことアリ。なんじ具視ともみつとメヨ

【字句謹解】◯岩倉具視 三じょう實美さねとみと共に公卿出く げ でで明治維新に於ける功勞こうろう者。「ともよし」「ともはる」ともしょうするが、世間では一般に「ともみ」というてゐる〔註一〕參照さんしょう ◯皇道ノ衰 我が建國けんこく精神せいしんづく天皇親政しんせいの衰へたこと。これは七百年間の武家政治の結果であることは言ふまでもない。なほ、このみことのりは前に謹述きんじゅつした『三じょう實美さねとみ功勞こうろうしょうセラルルノみことのり』(明治二年九月二十六日、太政官日誌)と主旨同樣どうようで、語句の類似も多い ◯恢復ノ志 王政おうせい復古ふっここころざし ◯大政復古 王政おうせい復古ふっこと同意で、いにしえ天皇親政しんせい御代み よふくせしめること ◯基業 王政おうせい復古ふっこ大業たいぎょうのこと ◯夙夜勵精 朝早くから夜おそくまで國政こくせいせいを出すこと ◯規畫 諸方面の計畫けいかく ◯治ヲ圖リ くに平穩へいおんを目的とする ◯國ノ柱石 一こくの重要なしん ◯朕ノ股肱 天皇の手足として御信賴ごしんらいあるしん

〔註一〕岩倉具視 天保てんぽう九年十四元服げんぷくして以來いらい國事こくじつくし、とき公武こうぶ合體がったい論に賛成して、和宮かずのみや御降嫁ごこうかに努力したことから、佐幕黨さばくとうもくせられ、勅勘ちょっかんこうむつて岩倉村いわくらむら閑居かんきょしたことがある。やがて慶應けいおう三年三月に及んで入洛じゅらくを許され、いで勅勘ちょっかんめんされて、國事こくじに全力を注いだ。明治二年にはごん大納言だいなごんに任じ、しょう二位となり四年には外務卿がいむきょう右大臣となり、特命とくめい全權ぜんけん大使たいしとして、歐米おうべい諸國しょこく使つかいして、翌年歸朝きちょうした。七年一月に刺客せっかくのために負傷し、十一年大勳位だいくんいじょせられ、十六年七月二十日、五十九こうじた。遺骸品川しながわ海晏寺かいあんじほうむり、朝廷から太政だじょう大臣をおくられた。

〔注意〕明治天皇から岩倉いわくら具視ともみたもうた詔勅しょうちょくとして次のものがはいせられる。

(一)岩倉具視ヲしょうスルノ勅語ちょくご(明治二年九月二十六日、太政官日誌)

(二)岩倉具視ノやしき親臨しんりんシテ下シ給ヘル勅語(明治四年八月十八日、岩倉公實記)

(三)特命とくめい全權ぜんけん大使たいしどう副使ふくしニ下シ給ヘル勅語(明治四年十一月四日、太政官日誌)

(四)岩倉具視ノやしき臨幸りんこうさい下シ給ヘル勅語(明治六年十月二十日、岩倉公實記)

(五)岩倉具視ノ上奏じょうそうこたフルノ勅語(明治六年十月二十四日、岩倉公實記)

(六)岩倉具視ノ辭表じひょうほうスルノ勅語(明治七年四月二十八日、岩倉公實記)

(七)右大臣岩倉具視ニ政治ヲ委任スルノ勅語(明治十年一月二十四日、岩倉公實記)

(八)岩倉具視ニ太政大臣おくルノ勅語(明治十六年七月二十三日、岩倉公實記)

(九)岩倉具視ニしょう一位ヲおくルノ勅語(明治十八年七月二十日、岩倉公實記)

(一〇)岩倉具視ノ墓前ニ告クルノ御祭文ごさいもん(明治二十二年二月十一日)

【大意謹述】なんじ具視ともみ、我が皇威こうい衰微すいび心痛しんつうして、いにしえ通りこれを盛大にするこころざしを深く持つて努力をつづけ、王政おうせい復古ふっこの基礎を築きあげるについて貢獻こうけんした所が多い。汝は始終ちん輔佐ほ さして、天下に重きをし、朝は早くからはおそくまで出精しゅっせいして、天下を太平にする諸策をけんじ、維新大業たいぎょうを完成させた。じつ我國わがくにの基礎たるべき大切なしんであり、朕の手足として信賴しんらい出來で きる。朕は深く汝のすぐれた功績に滿足まんぞくする。今囘こんかい、このゆえ褒賞ほうしょうして、そのろうをねぎらはうと考へる。ああ、朕は今後一そう汝の輔佐ほ さを望む所が多い。汝具視ともみ、更に努力せよ。