43 松平容保ノ死一等ヲ宥ムルノ勅語 明治天皇(第百二十二代)

松平まつだいら容保かたもりとうゆるムルノ勅語ちょくご明治元年十二月七日 太政官日誌)

【謹譯】賞罰しょうばつ天下てんか大典たいてんちんにんわたくしスヘキニあらス。よろシク天下てんか衆議しゅうぎあつメ、至正しせい公平こうへい毫釐ごうりんあやまリナキニけっスヘシ。いま松平まつだいら容保かたもりはじ伊達だ て慶邦よしくにごとキ、百かん將士しょうしヲシテセシムルニ、おのおの小異同しょういどうアリトいえどモ、つみひとシク逆科ぎゃっかニアリ。よろシク嚴刑げんけいしょスヘシ。就中なかんずく容保かたもりつみ天人てんじんともいかところ餘罪よざいアリトそうス。ちんつらつこれあんスルニ、政敎せいきょうあまねク、名義めいぎ人心じんしんあきラカナレハ、もとヨリ亂臣らんしん賊子ぞくしナカルヘシ。いまちん不德ふとくニシテ敎化きょうかみちいまタス。加之しかのみならず七百年來ねんらい紀綱きこう不振ふしん名義めいぎ乖亂かいらん弊風へいふうよっきたところひさシ。そもそ容保かたもりごとキハ門閥もんばつちょうシ、人爵じんしゃく假有かゆうスルもの今日こんにち逆謀ぎゃくぼうかれにんところあらス、かなら首謀しゅぼうしんアリ。ちんよっだんシテいわク、じつすいシテじょシ、じょうあわれンテほうゆるシ、容保かたもりとうゆるメ、首謀しゅぼうものちゅうシ、もっ非常ひじょう寬典かんてんしょセン。ちんまたまさ自今じこんみずか勵精れいせいはかリ、敎化きょうか國內こくないキ、德威とくい海外かいがいかがやかサンコトヲほっス。なんじかん將士しょうしこれたいセヨ。

【字句謹解】◯賞罰 くにこうのあつた者をしょうし、ばつのあつた者をつみすること ◯天下ノ大典 國家こっか嚴重げんじゅうな規定 ◯朕一人ノ私スヘキニ非ス かみにんであつても勝手に變更へんこう出來で きない ◯天下ノ衆議ヲ集メ 滿天下まんてん一同の論議參照さんしょうする意 ◯至正公平 最も正しく少しも感情的にならないこと ◯毫釐 ごくわずかなものの形容 ◯松平容保 會津あいづ藩主はんしゅ德川とくがわ三百年の恩を感じ、朝廷に反抗した人。明治元年八月に會津城あいづじょうに於て降服こうふく本勅ほんちょくつて死一等を減ぜられた ◯伊達慶邦 仙臺せんだい藩主、容保かたもりと共に朝廷にこうし、後、官軍かんぐんに降服した ◯小異同 いささかの意見の相違 ◯逆科 謀反罪むほんざいのこと ◯嚴刑ニ處スヘシ 死刑に相當そうとうする意 ◯天人共ニ怒ル所 容保かたもり頑强がんきょう皇軍こうぐん反對はんたいしたので、天にまします神々かみがみまでもいかたまふ意 ◯死尙ホ餘罪アリ 死刑にしょしても犯した罪は全部消えさりはしない意 ◯奏ス 群臣ぐんしんの意見の綜合そうごうされた結果を天聽てんちょうに達する意 ◯熟ラ之ヲ按スルニ 十分この問題に就いて考へるのに ◯政敎 理想的な政治の運用によつて國民こくみん善導ぜんどうすること ◯世に洽ク 政治の運用が日本中によく及ぶ ◯名義 所謂いわゆる大義たいぎ名分めいぶんのこと、君臣くんしん及び父子ふ しの道を意味する ◯亂臣 くにみだしん、これは君子くんしの道を知らない者をいふ ◯賊子 父をしいする子。これは父子ふ しの道を知らない者のしょう ◯七百年來 源賴朝みなもとよりともの幕府創立以來いらいを指す ◯紀綱不振 國政こくせいの根本がさかんにならない。これは武家政治時代を我が國の建國けんこく精神せいしんからられた句である ◯名義乖亂 君臣くんしん父子ふ しの道が本性ほんせいにもとりみだれること ◯弊風 弊害へいがいの意 ◯門閥ニ長シ よい家柄に成長する。松平氏は特に許された姓で、幕府時代は社會しゃかい的地位の高いものだつた。〔註一〕參照さんしょう 〇人爵ヲ假有スル者 人爵じんしゃくとは「孟子もうし」に天爵てんしゃくたいして用ゐてゐる。人の定めた官位かんいのこと。つまり社會しゃかい的に高い地位を有する意 ◯首謀ノ臣 事件の張本人となる家臣があつて、それに誘はれたに相違ない意 ◯斷シテ曰ク 以下述べるやうに天皇裁斷さいだんされる ◯其ノ實ヲ推シテ其ノ名ヲ恕シ 容保かたもり謀反むほん實狀じつじょうをよく察して罪名を手加減する ◯其ノ情ヲ憐ンテ其ノ法ヲ假シ 事實じじつ斟酌しんしゃくして國法こくほうをゆるめる ◯非常ノ寬典 特別の恩典おんてんのこと。前例とはならない意味での減刑 ◯自今 今後と同じ ◯親ラ勵精 御自身で天皇としての業をはげみたもふこと ◯治ヲ圖リ くにの平和に治まる事をこころざされる意 ◯敎化 國民こくみん善導ぜんどうする方針 ◯德威 一方に恩德おんとくを垂れると同時に、他方には平和をみだす者を皇威こういを以て平定する。

〔註一〕門閥ニ長シ 江戸時代に於いて松平まつだいらの姓は、將軍しょうぐん、三、三きょう嫡流ちゃくりゅう以外の德川とくがわ氏の庶流しょりゅう支族しぞくこれしょうした。その他外樣大名とざまだいみょう中では、前田・島津しまづ毛利もうり・池田(鳥取)・池田(岡山)・蜂須賀はちすか黑田くろだ伊達だ て(仙臺)・淺野あさの山內やまのうちの十宗族そうぞくに限つて許された。松平氏とは德川氏のせいである。

〔注意〕德川とくがわ慶喜よしのぶ歸順きじゅん江戸城明渡あけわたし以後、その態度を喜ばない幕臣ばくしん諸處しょしょおい皇軍こうぐん對抗たいこうした。舊幕軍きゅうばくぐん副總裁ふくそうさい榎本えのもと武揚たけあきは軍艦を率ゐて安房あ わ館山たてやまに逃れ、大鳥おおとり圭介けいすけ下總しもふさに、彰義隊しょうぎたい輪王寺宮りんのうじのみや公現こうげん親王しんのうを奉じて上野の寬永寺かんえいじつたが、大鳥圭介及び彰義隊は敗れて會津あいづ軍に加はり、仙臺せんだい米澤よねざわ庄內しょうない長岡ながおかなどの諸藩しょはん會津あいづ氣脈きみゃくを通じ、若松城わかまつじょうを死守したが、遂に官軍かんぐんのために破られた。その際、白虎隊びゃっこたい勇名ゆうめいのこした事は世の知る所である。容保かたもりはこの時にくだつた。これらの事件に就いての詔勅しょうちょくとしては、

(一)奥羽おううくだたまヘル勅語ちょくご明治元年八月七日、太政官日誌)

(二)有功者ゆうこうしゃ頒賜はんしスルノ勅語(明治二年六月二日、太政官日誌)

(三)函館はこだて戰功せんこうしょうスルノ勅語(明治二年九月十四日、太政官日誌)

(四)有功者ゆうこうしゃしょうスルノ勅語(明治二年九月二十六日、太政官日誌)

(五)德川とくがわ慶喜よしのぶ松平まつだいら容保かたもり寬宥かんゆうスルノ勅語(明治二年九月二十八日、太政官日誌)

などが本勅ほんちょく以外にある。

【大意謹述】國家こっか功勞こうろうのあつた者を褒賞ほうしょうしたり、罪のあつた者を處刑しょけいすることは、天下にとつて重要な規定で、ちんいえども自分の意見のままにこれ變更へんこうすることが出來で きない。すなわち政府その他各人の意見を尊重し、その一致てんおうじて、正しく公平に裁斷さいだんしてわずかでも誤りがあつてはならないのである。今囘こんかいきゅう會津藩あいづはん松平まつだいら容保かたもりを始め、きゅう仙臺せんだい伊達だ て慶邦よしくになどの行動に就て、朕は朝廷に於ける官吏かんり文武ぶんぶしん處罰しょばつ方法を協議せしめたところ、彼等は細部のてんに考への相違はあつたが、謀反罪むほんざいとしてこれ處罰しょばつすることに一致し、共に死刑にしょし、特に松平まつだいら容保かたもりの罪は天にまします神々かみがみも共におおいいかたまふところであるから、死刑としてもほその罪は消えうせるものではないと上奏じょうそうしたのである。

 この問題についてちん熟考じゅっこうするに、國政こくせいが理想的に施されて皇威こうい社會しゃかいの各部分にわたり、人々の心に大義たいぎ名分めいぶんの考へが明らかにそんしてをれば、くにみだしん・親をしいする子の居る筈がない。が、現在皇位繼承けいしょうした朕に天皇としての十分なとくがなく、國民こくみん敎化きょうかの方針は效果こうかそうしない。つ七百年の過去に於いて、武家政治が成立して以來いらい我國わがくに建國けんこく精神せいしんは振はず、大義名分の考へがみだれてゐるので、この弊害へいがいの原因はじつに長い間の武家政治に在るといはなければならない。現在、問題となつてゐる松平まつだいら容保かたもりなどは、舊幕きゅうばく時代に地位家門かもんの高いところに成長し、幕府から優遇された者であり、皇軍こうぐんに反抗したのは、容保かたもりにんの意志につたのではなく、必ずに積極的に張本人となつた家臣があつて、容保かたもりはそれに誘はれたにすぎないと思ふ。朕はく考へて、その罪を次のやうに裁斷さいだんする。すなわ今囘こんかいの事件の實際じっさいを十分に考察して謀反むほんの名を緩め、狀情じょうじょう斟酌しんしゃくしてこれ所罰しょばつかるくし、容保かたもりむかひ死一等を減ずる。それと共に眞實しんじつの張本人を死刑にしょし、これが前例にならないといふ條件じょうけんもとに特別にこの恩赦おんしゃあたへる。すでに朕の不德ふとくが一原因として考慮される以上、今後は朕もみずか國政こくせいに一そうせいを出して平和を目的とし、國內こくないでは國民の善導ぜんどうに努力し、海外かいがいに向つては我が皇室の恩德おんとく武威ぶ いを共に輝かしたいと考へる。汝等なんじら朝廷に奉仕する文武ぶんぶかんは、朕の意を十分に了解し、朕の希望の實現じつげんに力をくせ。

【備考】松平まつだいら容保かたもりの行動は、たとひ、幕府の恩誼おんぎを重んじた精神せいしんから出たにもせよ、また京都きょうと守護職しゅごしょくとして、功勞こうろうがあつたにもせよ、大義たいぎ名分めいぶんの上からは許さるべきことではない。けれども明治天皇至仁しじんにましますがために、その心事しんじに同情せられ、死一等をゆるめるの寬典かんてんを以てされたのである。「ちん不德ふとくにして敎化きょうかみちいまたず」とおおせられたのは御謙辭けんじで、また「七百年らい紀綱きこう不振ふしん名義めいぎ乖亂かいらん」とのたもうたことも、陛下の厚き思召おぼしめしから出た御言葉みことばで、容保かたもりあたたか情味じょうみの上から、寬恕かんじょされた慈恩じおんは、しん海山うみやまよりも廣大こうだいである。