42 故大村永敏に位を贈るの勅語 明治天皇(第百二十二代)

大村おおむら永敏ながとしくらいおくるの勅語ちょくご(明治二年十一月 三條實美公年譜)

夙賛囘天之偉業、克策勦賊之勳。軍旅之事、大有望後圖。豈料溘然謝世、帷幄喪人、深悼惜焉。贈從三位幷賜金幣、宣。

【謹譯】つと囘天かいてん偉業いぎょうたすけ、勦賊しょうぞくいさおしはかり。軍旅ぐんりょことおおい後圖こうとのぞむところあり。あにはからんや溘然こうぜんとしてしゃし、帷幄いあくひとうしなふ、ふか悼惜とうせきす。じゅおくり、ならび金幣きんぺいたまふ、せんす。

【字句謹解】◯大村永敏 明治初期陸軍の傑物けつぶつ大村おおむら益次郞ますじろうの事。〔註一〕參照 ◯囘天の偉業 國勢こくせい挽囘ばんかいするの大業たいぎょうここでは舊幕政きゅうばくせいを倒して衰へた皇威こうい恢復かいふくし、天皇親政しんせい時代―王政おうせい復古ふっこ實現じつげんするの鴻業こうぎょう ◯勦賊 賊をほろぼすこと ◯軍旅 軍隊のこと、ここでは陸軍 ◯後圖 のちのはかりごと ◯溘然 にわかにの意 ◯世を謝し 世を去る事 ◯帷幄 あくも共にまくに用ふる布のるいてんじて陣營じんえいの事 ◯悼惜 心からいたみおしむ。

〔註一〕大村益次郞 大村おおむら益次郞ますじろうは、長州ちょうしゅうの出身で、文政ぶんせい七年に生れ、初めは村田むらた藏六ぞうろくつた。少年時代は亂暴者らんぼうもので通つたが、後、眞面目ま じ め一方の人となり、長崎で蘭學らんがくを修め、大阪へ出て、緒方おがた洪庵こうあんの門に入つた。そこで蘭學らんがく醫學いがくを研究して、嶄然ざんぜん頭角とうかくあらはした。左樣そ うした彼の英材えいざいは、彼をして伊豫い よ宇和島うわじまこう侍講じこうたらしめ、蘭語らんご兵書へいしょとをこうじたが、もうその時分から、軍人として天才的なところを示し、軍艦の雛形ひながたなどを作つて人を驚かしたことがある。その後、嘉永かえい六年、江戸へ出て、兵學へいがく私塾しじゅくを開き、かたわら英語を修めた。當時とうじ幕府が攘夷じょうい主義の長州を征伐せいばつする少し前、大村は歸國きこくして西洋の兵法へいほうを若き人々におしへたのである。

 やがて幕府の征長軍せいちょうぐんが四へんに迫つたとき、大村は石州口せきしゅうぐち陣頭じんとうに起ち痛快に敵をち退けた。れの兵略へいりゃく、彼れの勇武ゆうぶは、この時によく發揮はっきせられたので、おのづから、出世の道が開け、明治維新の際には、彰義隊しょうぎたい征伐せいばつし、會津城あいづじょう總攻擊そうこうげきす際にも、彼れの戰略せんりゃくが、見事、勝利もたらしたのである。いで、明治政府が兵制の統一を計るに及び、兵部ひょうぶ大輔だゆう重職じゅうしょくに就き、種々しゅじゅ畫策かくさくに努めてゐる折柄おりから刺客せっかくのため暗殺せられた。それは明治二年のことである。とし四十七。彼が、かかる奇禍き かかかつたのはフランス式兵制を採用しようとして守舊派しゅきゅうは憎惡ぞうおされためだといはれる。

【大意謹述】なんじ永敏ながとしつと皇軍こうぐん挽囘ばんかいするの大業たいぎょうを助けて、賊軍ぞくぐん征定せいていするの功績をてて、明治維新實現じつげんする上に少からぬ寄與き よした。今後、陸軍軍制の改革については、最もなんじに期待するところが多い折柄おりから、突然世を去り、軍部に有力な一人物じんぶつうしなつたことは、悼惜とうせきへない。つてここじゅなんじおくり、金幣きんぺい下賜か しする。