34 故菅原道眞に太政大臣を贈るの詔 一條天皇(第六十六代)

菅原すがわら道眞みちざね太政大臣だじょうだいじんおくるのみことのり(正曆四年閏十月 東朝文粹)

寵章表德錦篇載而長傳、縟禮旌賢素簡編而不朽。故贈正一位左大臣菅原朝臣、鍾石銘勳旂常紀績。和鹽梅乎台鉉韜風雲乎才岑。朕前加追榮令昭徽烈於百代之後、今申駿令逾崇靈魂於九原之中。嗟呼馬鬛年深蒼煙之松雖老、龍光露暖紫泥之草再新、贈以太政大臣。蓋增褒貴之故也。宜極人臣之職式照泉壤之蹤。布告天下、俾知此意。主者施行。

【謹譯】寵章ちょうしょうとくあらわし、錦篇きんぺんせてとこしえつたわり、縟禮じょくれいけんあらわし、素簡そかんみてちず。ぞうしょう左大臣さだいじん菅原すがわら朝臣あそん鍾石しょうせきいさおめいじ、旂常きじょうあとしるし、鹽梅あんばい台鉉たいげんし、風雲ふううん才岑さいしんつつむ。ちんさき追榮ついえいくわへて、徽烈きれつを百だいのちあきらかならしめ、いま駿命しゅんめいかさねて、とお靈魂れいこんを九げんうちたっとぶ。嗟呼あ あ馬鬣ばりょうとしふかく、蒼煙そうえんまついたりといえど龍光りゅうこうつゆあたたかに、紫泥しでいそうふたたあらたなり。おくるに太政だじょう大臣だいじんもってす。けだ褒貴ほうきすの故也ゆえなりよろしく人臣じんしんしょくきわめ、もっ泉壤せんじょうあとてらすべし。天下てんか布告ふこくして、らしむ。主者つかさどるもの施行しこうせよ。

【字句謹解】◯菅原道眞 宇多う だ醍醐だいご兩朝りょうちょうつかへた政治家〔註一〕參照さんしょう ◯寵章 天子てんしからたまわつた御諚ごじょう ◯錦篇 美しい詩文 ◯縟禮 美しく整つた儀式 ◯素簡 まことあらはした文章 ◯鍾石 つりがねや石 ◯旂常 共にはたの事、交龍こうりゅうえがけるをといひ、日月じつげつを描ける旗をじょうといふ ◯台鉉 台鼎たいていと同じく三こうの位、太政大臣左大臣・右大臣のこと、てんじて宰相さいしょうを意味す ◯風雲 君臣くんしん際會さいかいの意 ◯才岑 高き才能 ◯追榮 死後に榮寵えいちょうを加へること ◯徽烈 美しい勳功くんこう ◯駿命 天子の大命たいめい ◯九原 墓地又は黄泉こうせんの義 ◯馬鬣 馬のたて髪の如く薄く長い形に土を盛つた墳墓ふんぼのこと ◯蒼煙 茂つてあおけむれる如くなる形容 ◯龍光 君子くんしとく賞讃しょうさんした言葉 ◯紫泥 詔書しょうしょのこと、それは紫色の印泥いんでいにて璽書じしょふうずるため、かくの如き意味を生じた ◯褒貴 ほめたっとぶ ◯泉壤 泉下せんかの地。

〔註一〕菅原道眞 道眞みちざねは、名門ので、父是善これよしは、經學けいがく文章もんじょう大家たいかだつた。承和じょうわ十二年六月の出生しゅっしょうで、早くから文學ぶんがくの天才として知られ、十一さいの時に作つた詩、「月夜げつや梅花ばいかる」などは、すで大人たいじんの風格を示した。十八歲の時、試驗しけん及第きゅうだいして文章生もんじょうしょうとなり、二十三歲で、文章もんじょう得業生とくごうしょうに進み、極めて順調に立身した。三十三歲の頃文章博士もんじょうはかせとなり、いで讃岐さぬきおもむいて、牧民官ぼくみんかんとなつたことがある。その後、一時、不遇ふぐうだつたが、四十七歲で藤原ふじわら時平ときひらに代つて、藏人頭くろうどのかみとなるに及び、ようや得意とくい時代につた。かうした拔擢ばってきは、宇多う だ天皇が、藤原氏權勢けんせいおさへ付けるためにせられたとつたへられてゐる。寬平かんぺい五年になると道眞みちざね參議さんぎ式部しきぶ大輔だゆう左大辨さだいべん勘解由か げ ゆ長官ちょうかん春宮亮とうぐうのすけを兼ね、加ふるにそのじょたてまつつて、女御にょうごとするの光榮こうえいつた。その上、れのじょ橘氏たちばなし所生しょせい齊世おきよ親王しんのうとつがせた。寬平かんぺい六年、道眞みちざね時勢じせいおもむく所を見て、遣唐けんとう大使たいし廢止はいし上奏じょうそうするとただちに採用せられ、ここに日本文化の上に一しん紀元きげんかくしたのである。といふのは、當時とうじとう支那)がみだれて留學りゅうがく上都合わるきのみでなく、多大の旅費と勞力ろうりょくとを要し、つこれ以上、支那し なまなぶべきてんとてはなかつたからだつた。この事が日本文化の獨立どくりつうながす一主因しゅいんとなつたのである。

 いずれかといふと、道眞みちざね醇吏じゅんりに近いが、政治家としては、まだ一いき物足らぬところがあつた。それは、れが保守的で、思ひ切つた改革を斷行だんこうするの手腕なく、藤原氏對抗たいこうしてゆくだけ權略けんりゃくにもとぼしかつたによる。それにたいし、藤原時平ふじわらのときひらは政治家として相當そうとうの手腕を有し、藤原氏一門のために活躍した。すなわ道眞みちざね時平ときひらのためにざんせられて、到頭とうとう失脚するのむなきに至り、一太政大臣に迄なるかも知れないと思はれたれも、右大臣として終り、太宰權帥だざいのごんのそつ左遷させんせられ、延喜えんぎ三年二月不遇ふぐうのうちに薨去こうきょしたのである。

【大意謹述】天子てんしからたまわつた賞揚しょうよう御言葉みことばは、そのとくあらはし、美しい詩篇しへんせられて長くつたはり、慇懃いんぎんな天子の禮遇れいぐうは、その賢明けんめいあらはし、まことあらはした文篇ぶんぺんまれてとこしへにちない。これぞうしょう左大臣菅原すがわら朝臣あそん道眞みちざねの一生である。道眞みちざねよ、けい文勳ぶんくんかねや石に刻まれ、日月じつげつ交龍こうりゅうの旗にもまたその功績を記されてゐる。けいは大臣としてく政治を鹽梅あんばいし、その高くすぐれた才能を君臣くんしん際會さいかいの時につつみかくして、謙遜けんそんだつた。ちんきにけいに向ひ、榮寵えいちょうを加へて、その美しい功績を百だいのちあきらかにしたが、今また大命たいめいを下して、遠く九せんのもとにゐるけい靈魂れいこんなぐさめ、深い崇敬すうけいの意を表する。嗚呼あ あけい墳墓ふんぼは久しく日月じつげつて、墓畔ぼはん靑々あおあおした松も年老いたが、ひとり、けい德光とっこう愈々いよいよ輝きわたつてゐる。ここ詔書しょうしょを以て、ちんあらたにけい文勳ぶんくんを表彰するため太政だじょう大臣だいじんの位をおくる。それはけいとく褒賞ほうしょうする所以ゆえんである。けいよ、よろしく人臣じんしんの最高位を占め、泉下せんか幽魂ゆうこんとこしへに滿足まんぞくするところあれ。この事を今天下につたへて、ひろく知らしめる。當局とうきょくの役人は命令のままにこれを奉行ぶぎょうせよ。

【備考】道眞みちざね太宰權帥だざいのごんのそちへんせらるる前、太政大臣に任ぜらるることになつてゐたが、れは固辭こ じして受けなかつた。ところが、藤原時平ふじわらのときひららは、その事を聞知ぶんちして、道眞みちざねのもとに屈することをいさぎよしとしない。そのめ、到頭とうとう道眞みちざねざんしたのである。すなわ道眞みちざねは、太政大臣となるべくして、ならず、むなしくうらみをんで、不遇ふぐうのうちに世を去つた。以上の事について一じょう天皇におかせられては御同情あり、ここ太政大臣おくつて、道眞みちざねれいなぐさめられた事と拜察はいさつする。道眞みちざねがかく死後に殊寵しゅちょうを加へられたことは大なる光榮こうえいである。