31 外祖父藤原冬嗣追尊の宣命 文德天皇(第五十五代)

外祖父がいそふ藤原ふじわら冬嗣ふゆつぐ追尊ついそん宣命せんみょう(嘉祥三年七月 文德實錄)

天皇我勅命爾坐宣久、尊祖比敦親須留事波、⻝國乃恒典奈利。故是以、追氐太政大臣乃官贈賜比崇賜布勅命乎、散位從五位下藤原朝臣雄瀧乎差使氐、申賜久止宣。

【謹譯】天皇すめら勅命みことりたまはく、とうとおやあつくすることは、⻝國おすくに恒典つねのしきなり。れをて、おっ太政だじょう大臣だいじんつかさおくたまあがたま勅命おおみことを、散位さんみじゅ位下い げ藤原ふじわら朝臣あそん雄瀧おたき使つかわして、もうたまはくとる。

【字句謹解】◯外祖父藤原冬嗣 文德もんとく天皇仁明にんみょう天皇の第一皇子おうじにましまし、御母おんはは冬嗣ふゆつぐじょ藤原ふじわら順子じゅんこである。ゆえ天皇からいへば冬嗣ふゆつぐは母方の祖父そ ふあたるので、外祖父がいそふしょうする。〔註一〕參照さんしょう ◯追尊 死後に於いて生前のとくを慕つて地位をのぼせること。冬嗣ふゆつぐしょう左大臣天長てんちょう三年七月にこうじたので、本詔ほんしょう太政だじょう大臣だいじんおくられた ◯勅命に坐せ 勅命ちょくめいのままに ◯親に敦くする 親を厚くぐうすること ◯⻝國の恒典 ⻝國おすくに天皇御統治國ごとうちこくすなわち日本のこと、恒典こうてんいにしえからはらない習慣 ◯追て 死後の今日こんにち ◯散位 地位のみあつて職責しょくせきのない人。

〔註一〕外祖父藤原冬嗣 冬嗣ふゆつぐ內麿うちまろの二で、大同だいどう年中にじゅ五位侍從じじゅうじゅ四位下・中務大輔なかつかさだゆうとなり、弘仁こうにん年間には藏人頭くろうどのかみ春宮大夫とうぐうだゆう式部しきぶ大輔だゆうじゅ四位じょう參議さんぎしょう四位左大將さだいしょうじゅ中納言ごんちゅうなごん大納言だいなごん右大臣うだいじんしょう二位となり、天長てんちょう年間に有名な意見封事ふうじじょうたてまつつて嘉納かのうせられ、左大臣さだいじんとなり、同三年七月に五十二さいこうじた。その際、しょう一位をおくられ、更に本詔ほんしょうにある如く外祖父がいそふゆえを以て太政だじょう大臣だいじん榮位えいいおくられたのである。施藥院せやくいん勸學院かんがくいんの設備、弘仁格こうにんきゃく內裏式だいりしきせんなどはれの力によるところが多く、國史こくし監修かんしゅうの中途に薨去こうきょした。

【大意謹述】天皇勅命ちょくめいのままをここにもうし上げる。一たい祖父そ ふを尊敬し、自身に親しい關係かんけいの者を優遇するのは、昔から行はれた習慣である。以上の例により今囘こんかいちん外祖父がいそふ藤原ふじわら冬嗣ふゆつぐ太政だじょう大臣だいじんかんを死後の今日こんにちおくつて優遇するとの勅命ちょくめいを、散位さんみじゅ五位藤原ふじわら朝臣あそん雄瀧おたき勅使ちょくしとしてもうし上げる。

【備考】藤原ふじわら冬嗣ふゆつぐについては、拙著せっちょ國民こくみん日本史にほんし平安時代うちで、「れは、器宇き うひろくて、才識さいしき非凡ひぼんなことろがあつた。最初、れは、弘仁こうにんのはじめに、藏人頭くろうどのかみとなり、つづいて大納言だいなごんとなり、右大臣にのぼつて、臣下しんかのうちで、權勢けんせい第一の地位に到達した。彼れが政治上に於ける功績は、檢非違使け び い しちょうの新設、『弘仁こうにん格式きゃくしき』の撰修せんしゅうなどにもあらはれてゐるが、天長てんちょう二年四月、京都に施藥院せやくいんを置いて、貧民ひんみん及び一般病者を療養りょうようせしむることとしたのは、新社會しんしゃかい政策の發現はつげんと見るべきものであつた。(中略)彼れには、硬直こうちょくなところがあつて、きみのためにすすめていと信じたことは、少しもはばかることなく、諫爭かんそうした。弘仁こうにん十四年、諸國の凶荒きょうこうつづいた折柄おりから當時とうじ大伴おおとも親王しんのうであられた淳和じゅんな天皇嵯峨さ が上皇じょうこうから受禪じゅぜんされ、大嘗會だいじょうえを行はれる事となると、冬嗣ふゆつぐ緒嗣おつぐ連署れんしょして、『天下の人民が疲弊ひへいしてをりますから、大嘗會だいじょうえは略式にして、費用を節約なされた方がよいと存じます』といさめた。それで大嘗會だいじょうえは、金銀などのかざりをやめて、淸楚せいそに行はれた」と述べて置いた。それによりれの人物の一面がわかるであらう。勿論もちろん彼れとても、藤原氏權勢けんせい增大ぞうだいするについては、あらゆる力をつくしたてんで、かたよつたところがあつたとへるが、これは、ひとり彼れに限つたことではなく、藤原氏一門の主要な共通傾向で、一般史家し かあきたらずとするところである。