29 諸皇子に朝臣の姓を賜ふの勅 仁明天皇(第五十四代)

諸皇子しょおうじ朝臣あそみせいたまふのみことのり(承和二年四月 續日本後紀

象著損上、禮存寧儉。王者則之、古今合契。朕、雖菲昧、跂予思齊、去泰就約、夙關情慮。如今、所有朕之兒息、除親王之號、賜朝臣之姓。先太上天皇丕恩罔極、玄澤更加。不令別姓、被以源氏、使與曾枝而同蔭、共渭派而混流。其前號親王仍舊不改。同母後產、猶復一例等制、准弘仁五年天長九年兩度勅書。宜告中外、咸俾聞知。

【謹譯】しょう損上そんじょうあらわれ、れい寧儉ねいけんそんす。王者おうじゃこれのっとり、古今ここんけいがっす。ちん菲昧ひまいなりといえども跂予ぎ よしてひとしからんことをおもひ、たいやくき、つと情慮じょうりょかんせり。如今いまのごとくゆうするところちん兒息じそくは、親王しんのうごうのぞいて、朝臣あそみせいたまはらん。さき太上だじょう天皇てんのう丕恩ひおんきわまりなく、玄澤げんたくさらくわはる。別姓べっせいならしめず、こうむらしむるに源氏げんじもってし、曾枝そ しともにして、かげおなじうし、渭派い はともにして、ながれまじへしめたまふ。まえ親王しんのうごうせるは、きゅうつてあらためず。同母どうぼ後產ごさんは、猶復なおまた一に等制とうせいれいせんこと、弘仁こうにんねん天長てんちょうねん兩度りょうど勅書ちょくしょじゅんぜん。よろしく中外ちゅうがいげて、ことごと聞知ぶんちせしむべし。

【字句謹解】◯象は損上に著れ 損上そんじょうは『易經えききょう』の兌下だ か艮上こんじょうである。「そんまことあればおおいにきちなり。とがし。ただしくすべし。ところるにろし。なにをかもちひん。二もっきょうすべし」とある。以上の意義については、たんにおいて、「そんしもそんしてかみえきし、みち上行しょうこうす。そんしてまことあるはおおいにきちなり。とがなし」とあつて、人臣じんしんの身を以てしゅつかへ、百せいえきに服して、奉公するなどは、「みち上行しょうこう」するもので、かみえきしてゆくわけである。要するに、抑損よくそんすることをとするの意を述べた言葉 ◯寧儉 『論語ろんご八佾はついつにある語、「いわく(中略)れいおごらんよりはむしけんなれ」とある。れいの根本は儉素けんそたっとぶにある意。虛飾きょしょくをやめて本質を重んずるのがれいの意義だといふにある ◯ 割符わりふのこと ◯菲昧 おろかといふ義、謙辭けんじである ◯跂予 足をつまだてる事、『詩經しきょう衞風えいふうにある語 ◯泰を去り約に就き 『論語ろんご述而篇じゅつじへんに「むなしけれどもてりとし、やくなれどもたいなりとす」とある。やく貧約ひんやくの意、たいおごりてゆたかな意、すなわおごれるを去つて、質素に就くといふこと ◯情慮 思ひを重ね深く考へる ◯如今 現在の意 ◯太上天皇 淳和じゅんな天皇を指したてまつる ◯丕恩 大なる恩 ◯玄澤 深い慈愛 ◯源氏 みなもとの姓をびた氏族、嵯峨さ が天皇の時に始まる。〔註一〕參照さんしょう ◯曾枝 すえの枝 ◯渭派 渭川いせんのこと、陜西省きょうせいしょう大河たいかここではただ大きい流れの分派の意 ◯等制 等しい制度 ◯弘仁五年・天長九年兩度の勅書 嵯峨さ が天皇及び淳和じゅんな天皇皇子おうじ源姓みなもとのせいたまわりし時の勅書ちょくしょ。〔註二〕參照 ◯中外 くにの內外。

〔註一〕源氏 源氏げんじせいを最初嵯峨さ が天皇からたまわつたのは、天皇皇子おうじまことひろしときわあきら及び皇女こうじょ貞姬さだひめ潔姬きよひめ全姬またひめ善姬よしひめたちである。その戸主となつたのはまことであつた。それから嵯峨さ が源氏げんじしょう出來で きた。爾來じらい仁明にんみょう文德もんとく淸和せいわ陽成ようぜい光孝こうこう宇多う だ醍醐だいご村上むらかみ冷泉れいぜい花山かざん・三じょうじょう順德じゅんとく後嵯峨ご さ が諸帝しょてい御代み よに皇族に朝臣あそみせいたまひ、通例それらを區別くべつして、仁明源氏にんみょうげんじ淸和源氏せいわげんじ文德源氏もんとくげんじなどとつた。あきらまことといふ風に一字を用ゐたのである。

〔註二〕弘仁・天長兩度の勅書 嵯峨さ が天皇弘仁こうにん五年、みことのりあつて、「ちん男女なんにょようやおおし。いまの道をらず。すでに人の父となる。封邑ほうゆうるいむなしく府庫ふ こついやす。よろしく親王しんのうごうとどめ、朝臣あそみせいたまひ、へんして同籍どうせきし、服官ふくかん在公ざいこう出身の始め、一に六位にじょせん云々うんぬん」とおおせられた。ぎに淳和じゅんな天皇天長てんちょう九年にも、以上、嵯峨さ が天皇御精神ごせいしんを重んずるのむねおおせられ、「今、親王しんのうごうするものは、きゅうよっあらためず、同母どうぼ後產こうさんこれごうすることまた同じ。自外じがいならび朝臣あそみせいたまふ。あるい親王しんのうたるべきものは、特にまさに定めんとす。これへいはぶくの遠圖えんとくにおさむるの長策ちょうさくたる所以ゆえんなり」とちょくせられた。

【大意謹述】『易經えききょう』の損上そんじょうに示されてゐるやうに、人間は抑損よくそんして、かみえきするがよく、本質をたっとんで、儉素けんそを守るに越したことはない。王者はこの原理に基づいて政治をす上で、古今、あとを同じうする。ちんもとより不肖ふしょうであるが、及ばずながら、足をつまだてて、右の旨を實現じつげんしようとこころざし、おごりてゆたかならんよりも、きよくして貧しからんことをねがひ、早くからこのてんおもんばかつてゐた。現在自分の王子らは、平生へいぜいの希望により、ここ親王しんのうごう辭退じたいし、朝臣あそんとしてのせいあたへようと思ふ。きの太上だいじょう天皇淳和天皇)の恩愛おんあいこうむること深く、今やこれが一そう加はつてゆくにあたり、親王ごう辭退じたいした王子たちは、すべて姓を別々にせず、一よう源氏げんじとし、根本ねもとから分れた枝葉えだはを同一にせしめ、その同じ葉蔭はかげにをらせ、大きい流れから出た分派を相混あいまじへしめようと考へる。現在より以前、すで親王ごうしてゐるものは、そのままとし、今後同じ母によつて出生しゅっせいしたものは、すべて源氏の姓をあたへて朝臣あそんとすべきこと、弘仁こうにん五年、天長てんちょう九年の勅書ちょくしょに準じたい。當局とうきょくの役人はこの旨を中外ちゅうがいに告げ、一般をして諒知りょうちせしめるやう心がけよ。

【備考】親王しんのう源姓みなものとのせいたまわつて、朝臣あそんとせられた主因しゅいんは、經濟上けいざいじょうの事情によるところが多いと拜察はいさつする。當時とうじ、朝廷の財政は、支出が多くて收入しゅうにゅうこれともなはなかつた。無論、これについて、いろいろの方策ほうさくこうぜられたが、やはり滿足まんぞくにゆかない。左樣そ うしたことから親王皇子おうじたいして、十分の費用を支給し得ないので、臣姓しんせいあたへて臣下しんかせしめ、あるいは地方官に任用さるることとなつた。右の實例じつれいは、旣述きじゅつした如く、最初、嵯峨さ が天皇の時にあらはれ、いで淳和じゅんな天皇の時になると、それが多くなり、天長てんちょう二年には、葛原かつらばら親王に(桓武天皇の皇子)平姓たいらせいたまわり、それから淸原きよはら夏野なつの奏議そうぎを採用して、常陸ひたち上野こうずけ上總かずさの三ごく親王任國にんごくと定め、しゅ大守たいしゅと改められた。それに太宰帥だざいのそつまた親王にんとなつたのである。

 以上の事について、一部の史家し かは「藤原氏權勢けんせい擴張かくちょう主義の犠牲として、藤原氏にはえんのない皇子おうじ達を成るべく地方におもむかせまゐらせるやうになつたのだ」としてゐるが、やはり、主因しゅいんは、經濟けいざい上の事情にある。桓武かんむ嵯峨さ がの二ていは、皇子おうじ皇女おうじょが多いめに自然宮廷費かさみ、諸國しょこく沒官領ぼっかんりょうすなわち有罪のために除かれた者の⻝邑しょくゆう荒蕪地こうぶち、所有者が歿ぼっして無主むしゅとなつた田畠等でんばたとう皇子おうじ皇女おうじょの領地とされたほどで、これ又經濟けいざい上、餘儀よ ぎなき處置しょちであつたらう。その天長てんちょう三年に、平城へいぜい天皇皇子おうじ阿保あ ぼ親王上書じょうしょして、在原姓ありはらせいたまわつたこともまた經濟けいざい上、親王としての生活を支持してゆくだけ餘裕よゆうがないめであつた。要するに、事は必ずしも大きくないが、朝廷の財政が、大分だいぶ行詰ゆきづまつたことを、ここに暗示してゐる。それと同時に、本勅ほんちょく拜誦はいしょうして、英斷えいだんいでられた天皇大御心おおみこころすいたてまつるのである。