24 國都の稱號を定むるの詔 桓武天皇(第五十代)

國都こくと稱號しょうごうさだむるのみことのり(延曆十三年十一月 日本紀略

此國山河襟帶、自然作城。因斯形勝、可制新號。宜改山背國、爲山城國。子來之民、謳歌之輩、異口同辭、號曰平安京。又、近江國滋賀郡古津者、先帝舊都。今接輦下、可追昔號、改稱大津。

【謹譯】くに山河さんが襟帶きんたいおのずからしろをなす。形勝けいしょうり、新號しんごうせいすべし。よろしく山背國やましろのくにあらためて、山城國やましろのくにとなすべし。子來しらいたみ謳歌おうかはい異口い く同辭どうじに、ごうして平安京へいあんきょうふ。また近江國おうみのくに滋賀郡しがごおり古津ふるつは、先帝せんてい舊都きゅうとなり。いま輦下れんかせっし、むかしごうひ、大津おおつ改稱かいしょうすべし。

【字句謹解】◯山河襟帶 山と河とがくにをめぐりかこむこと。えりは首をめぐり、おびは腰をめぐることからいふ ◯自から城をなす 自然の城のやうに山河やまかわで敵の攻撃こうげきをはばんでゐる ◯形勝 すぐれた自然の配置 ◯子來の民 子が親をしたふやうに皇室をしたつて集る人民 ◯謳歌の輩 天皇功德くどくを喜びうたふこと ◯異口同辭 全部が一よう平安京といふ意 ◯輦下に接し 輦下れんか都下と かに同じ帝都ていともと接續せつぞくして近いこと ◯昔の號 古津ふるつ天智帝てんぢてい國都こくと大津おおつのことであるからかうおおせられた。

【大意謹述】このくには山と河とが周圍しゅういとりき、人工を加へないでおのずから城の役目を果してゐる。ちんはこの有利な地勢ちせいを占めて、國都こくとに新しい名稱めいしょうしたいと思ふ。今後は山背國やましろのくにを改めて、山城國やましろのくにすなわ周圍しゅういの山々で城塞じょうさいを自然に構成するふ意味にしたい。また朝廷を生みの親のやうに慕つて諸方から集る民は、皆一ように之を平安京しょうしてゐる。それから近江國おうみのくに滋賀郡しがごおり古津ふるつは、御先祖ごせんぞの幾人かが皇都こうととされたもうた場所で、帝都ていとに接してゐるから昔の名稱めいしょうを復活して、大津おおつ改稱かいしょうするがよい。

【備考】思ふに、平安へいあん遷都せんとは、人心を一新する上から、避け難い必然しぜんの結果として斷行だんこうせられたのであらう。それ以前、光仁こうにん天皇の時に政弊せいへいの一部を改革し、面目を新たにされたが、更にこれを積極的に押進めて、一段と刷新さっしんを加ふべき局面に起たれたのが、桓武かんむ天皇であらせられる。丁度、光仁こうにん天皇が、政費せいひを節約して、いくらか財政上の餘裕よゆうを作つて置かれたので、遷都せんとの財源は得られた。元來がんらい、遷都の決行は、すで聖武しょうむ天皇の時代に考へられたことで、天皇山城やましろ恭仁宮くにのみやを造り、あるい近江おうみ紫香樂宮しがらきのみやいとなまれたのは、その徵證ちょうしょうである。爾來じらい歷代れきだい天子てんしのうちにも、この事を考慮のうちへ入れてをられた御方おかたもあつたが、財政上の都合が主因で決行されなかつた。

 ぎに遷都せんとについて、どの地をえらぶかについては、藤原ふじわら種繼たねつぐの建策によるところが多く、種繼たねつぐは交通上の便利その他を考へ、長岡ながおかの地をすすめた。よっ延曆えんりゃく三年、そのれ、長岡ながおか遷都せんとに決したのである。長岡の名は、北方から南方へかけて、今日こんにち向日町むこうまちのあたりまで伸びてゐる丘陵きゅうりょうにもとづいたものとはれる。そして南端なんたんあた向日町むこうまち宮城きゅうじょうが置かれ、その規模は、平城へいじょう平安へいあんぼひとしかつた。そこには、朱雀すざく大路おおじがあり、大極殿だいごくでんがあつた。いで延曆えんりゃく四年正月、天皇大極殿だいごくでん朝賀ちょうがを受けられ、つづいて淀川よどがわ改修かいしゅう工事が始められたのである。かうして長岡京ながおかのみやこの面目が次第に整つたにかかわらず、突如として更に平安遷都を決行されたのは、どういふわけであらうか。それにはいろいろのせつもあるが、そのうちの有力な一原因は、藤原ふじわら種繼たねつぐ横死おうしであらう。

 けだ種繼たねつぐ樞要すうようの地位にのぼつて、その發案はつあんになる長岡ながおか遷都せんとのことが實現じつげんされ、造宮使ぞうぐうし長官の地位を占めたことがその政敵たる武斷ぶだん派の大伴おおとも佐伯さえき氏らによき感じをあたへなかつたものと思はれる。それがため種繼たねつぐ武斷ぶだん派の手で暗殺された。それに種繼たねつぐ大伴おおとも氏らのあらそひの渦中かちゅうとうぜられた早良さわら親王しんのう廢立はいりゅう事件などがあつて、一般に觸穢しょくえ不吉ふきつといふことが、はなはだしくまれた時代だつたから、急に長岡京ながおかのみやこを見捨てることとなつたものと推測される。當時とうじ、皇后・中宮ちゅうぐう・皇太子らが長岡の地を非とされたのも、要するに以上の事情によることと思はれる。

 この局面の收拾しゅうしゅうは、延曆えんりゃく十二年、和氣淸磨わけのきよまろ密奏みっそうによつて、まっとうせられるやうになつた。淸磨きよまろ山城やましろ葛野郡かどのごおり宇太村うたむらの地をすすもうし上げて、採用されたのである。それが今日こんにちの京都である。けだし京都は、自然に優秀な地勢ちせいを占め、東には三十六ぽうを有する東山ひがしやまがあり、西には、天王山てんのうざん嵐山あらしやまがあり、北は所謂いわゆる北山きたやま」一たい山嶺さんれいを負うて南方に廣々ひろびろした平野が開け、はるかに大和やまとの山脈を望んでゐる。そして桂川かつらがわ加茂川かもがわ宇治川うじがわや、巨椋池おぐらいけなどがその間にあつて、自然の城たる實質じっしつを備へた。それに風光ふうこう優麗ゆうれい溫雅おんがてんとにおいて、交通の便利なてんにおいて帝都ていとにふさはしい地位にゐた。

 以上、京都宇太村うたむら遷都せんとされるについて、財政のしょうに誰があたつたか、それには、藤原ふじわら小黑磨おぐろまろが、相當そうとう助力じょりょくしたのである。小黑磨おぐろまろは、藤原ふじわら房前ふささきの子で和氣淸磨わけのきよまろ與黨よとうの一人だつた。したがつて彼は淸磨きよまろせつを支持し、つ財政上についてもいろいろ配慮した。すなわ淸磨きよまろ小黑磨おぐろまろとの間には、おのづから一つの默契もっけがあつたものとすいせられる。以上により淸磨きよまろ密奏みっそうしたところによつて、新しい遷都せんとのことが定つた。

 かうして延曆えんりゃく十三年、著々ちゃくちゃく以上の工事が實現じつげんせられ、四月には諸國しょこく役夫やくふ五千人を徵發ちょうはつして、新都の地をはらはしめられた。七月には、東西のいちを新都に移し、十二月には、天皇車駕しゃがが新都に向つたのである。が、新都の工事は、ほ進行中で、それが二十四年迄、つづいて始めて完成に近付ちかづいたのである。

 京都の體制たいせいは、主としてとう長安ちょうあんじょうのっとり、その規模のおおきさは空前であつた。そのひろさは東西一十二ちょう、南北一里十五町餘にのぼつた。そして朱雀すざく大路おおじが中央をつらぬいて、東西二京を分劃ぶんかくし、東を左京さきょう(洛陽)西を右京うきょう長安)とつた。各京共に九じょうかくし、北端ほくたんの一じょうからかぞへて九條に至つた。左・右兩京りょうきょう共に各ちょう六百八、百五十、ぼう三十六あつて、その總戸數そうこすうは三まん六千とも三まん八千ともはれたのである。

 宮城きゅうじょうは都の中央にあつた。建築は壯麗そうれいを極め、始めて碧色へきしょく施釉瓦しちゅうがわらを用ひ、その周圍しゅういには、唐風からぶりの(支那式)羅城らじょうめぐらした。羅城らじょうといふのは、羅郭城らかくじょうのことで、大陸に於ける都市防禦線ぼうぎょせん外郭がいかくだつた。當時とうじの皇居に於ける羅城らじょうは厚さ六しゃく、高さ一じょうばかりの瓦垣かわらがきで、四しゅうかこみ、その外に一じょうの溝があつて、更に溝の外に二じょう餘地よ ちを取つてあつた。それから皇居の四方に十四の門が建ち、宮城きゅうじょう正門を朱雀門すぜくもんしょうしたのである。宮城きゅうじょうを入つてゆくと、正面に應天門おうてんもんがあつて、その北に八省院しょういん區域くいきがあつた。八省院しょういんたん朝堂ちょうどうともひ、大極殿だいごくでん以下の建物がならんでゐた。宮城きゅうじょうの正面の位置には內裏だいりを置かれたが、特に天皇大極殿だいごくでんを重んじたまひ、そこで政務を總攬そうらんされ、國家こっか皇室の大典たいてんげられた。かうして平安京は、桓武かんむ天皇善政ぜんせいと共に次第ににぎはひ、そのさかえをしたのである。