13 南島に牌を樹つるの勅 孝謙天皇(第四十六代)

南島なんとうはいつるのみことのり天平勝寶六年二月 續日本紀

天平七年、故大貳從四位上小朝臣老遣高橋連牛養於南島樹牌。而其牌經年、今旣朽壞。宜依舊修樹、每牌顯著島名幷泊船處、有水處、及去就國行程、遙見島名、令漂著之船、知所歸向。

【謹譯】さんぬ天平てんぴょうねん大貳だいにじゅじょう小野朝臣おののあそみおゆ高橋連たかはしのむらじ牛養うしかい南島なんとうつかわしてはいつ。しかはいとして、いますで朽壞きゅうかいす。よろしくきゅうりておさめ、牌每はいごと島名とうめいならびふねはくするところみずのあるところおよくに去就きょしゅうするの行程こうていあらわし、はるかに島名とうめいて、漂著ひょうちゃくふね歸向きこうするところらしむべし。

【字句謹解】◯天平七年 聖武しょうむ天皇ぎょ年號ねんごうで、皇紀こうき一三九五年に相當そうとうする ◯大貳 太宰府だざいふ次官じかん ◯南島 琉球りゅうきゅう中心に臺灣たいわん及び九州地方諸島の事。〔註一〕參照 ◯ 文字を記した木の札 ◯今旣に朽壞す 現在はもうくちはててゐる。今とは天平てんぴょう勝寶しょうほう六年(皇紀一四一四年)で、天平てんぴょう七年から約二十年をてゐる ◯水のある處 飮料水いんりょうすいのある場所 ◯國を去就するの行程 日本から何日間で達し、何日間でかえるかの里數りすう ◯漂著の船 風波ふうはにただよつて達した船 ◯歸向する所 かえ海路かいろ

〔註一〕南島 加藤三氏の『琉球りゅうきゅうの研究』によると、南島なんとうについてかう記されてゐる。「古來こらい概稱がいしょうして、南島と呼んだのは今の琉球りゅうきゅう諸島を中心として、西南は臺灣たいわんつらなり、東北は奄美あまみ諸島、薩南さつなん諸島を以て、九州南端に接するところの一たいの列島を指したもので、の列島は約八百海里かいり海上かいじょうおいて、地脈ちみゃく斷續だんぞくしてゆるく遠く、一の弧狀こじょうしてをる」云々うんぬん。『日本にほん書紀しょき』などには、奄美あまみ掖久や く多禰た ね大隅)などが、南島にぞくするものとしてげられてをり、奄美あまみしま琉球りゅうきゅう國祚こくそ肇基ちょうきの地として知られてゐる。掖久島やくじま古史こ し益救や く又は𤥿玖や くとあつて、南島の總稱そうしょうとせられ、これ屋久やくじまとも書く。更に多禰島たねじまは、古史こ し多褹た ねあるい多禰た ねとあつて、時にはそれをも、南島の總稱そうしょうに用ゐる場合がある。『日本紀しょくにほんぎ』には屋久やくじまについて「天平てんぴょう勝寶しょうほう六年、太宰府だざいふそうす、入唐にゅうとう副使ふくし吉備朝臣きびのあそん眞備ま び、去年十二月二十七日を以て、益久島やくじま來著らいちゃくし、これよりのち益久島やくじまより進發しんぱつ漂蕩ひょうとうして紀伊きいのくに牟漏崎むろさきちゃくす」とある。それらによつて考へると、本勅ほんちょくにある南島とは、屋久やくじまのことかも知れない。あるいは、掖久や く奄美あまみ多禰た ねをも含んでゐるのでもあらうか。また琉球りゅうきゅう中心に、臺灣たいわん・九州方面の諸島をも含んで、これを南島としょうしたのでもあらうか。この方面の開拓は、おそらく、文武もんむ天皇の二年に文博勢ふみのはかせに兵を率ゐて南島を探檢たんけんせしめられた頃に始るのであらうと推測される。日本の勢力大隅おおすみ方面のみならず、琉球りゅうきゅう方面にまで伸べようとされた御心持おんこころもちや、意味が、南島にはいてたことにうかがはれるやうに思ふ。すなわちそれは南方への發展はってん・飛躍の一たんである。

【大意謹述】去る天平てんぴょう七年に、當時とうじ太宰府だざいふ次官であつて今は故人となつたじゅ四位じょう小野朝臣おののあそみおゆは、部下の高橋連たかはしのむらじ牛養うしかい琉球りゅうきゅうに派遣して、各島に木札きふだを立てしめた。しかしその木札は年と共にちはてて、今は見るかげもない。それでは非常に不便であるから、早速昔通りの木札を立て、そのおもてには島の名・船著ふなつきに都合のよい場所・飮料水いんりょうすいのあるところ及び日本からの往復距離を明瞭めいりょうに記し、海上かいじょうからその島名の記してある木札を見て、風波ふうはに流された船の到著とうちゃくすべきてん、及びかえ海路かいろの具合を知らせなければならない。

【備考】本勅ほんちょくはいすると、南島なんとうふだてたことは、一方において隼人はやと勢力を抑へ、これを同化する意味をも含んでゐたものであらう。すなわち異民族として南方に割據かっきょする隼人はやと皇化こうかよくせしめるといふことが、當時とうじの大切な仕事の一つだつた。それにたいして、隼人はやとらが自分らの利益りえきを奪はれると思つて反抗し、日本政府から三囘迄かいまで平定へいていのために軍を派遣されたことがある。したがつて、南方への進出の序幕として、隼人はやと平定といふことが先決條件じょうけんとなつたとも見られよう。以上の關係かんけいから考へると、南島にふだてられた意味が、おのづから分明わ かる。