1 聖德太子の病を問ふの勅 推古天皇(第三十三代)

聖德太子しょうとくたいしやまいふのみことのり(二十九年二月 扶桑略記)

朕聞、太子寢病、將以遷化他界。每加慰問、言與涕並。痛乎哀哉。其難再遇。若有所願、朕將隨之。

【謹譯】ちんく、太子たいしやまいし、まさもっ他界たかい遷化せんかせんとす。つね慰問いもんくわふれば、げんていともならぶ。いたましいかな、あわれなるかな。ふたたがたし。ねがところあらば、ちんまさこれしたがはんとす。

【字句謹解】◯聖德太子 用明ようめい天皇の第二皇子おうじで、初め廐戸皇子うまやどのおうじしょうせられた。〔註一〕參照さんしょう ◯病に寢し 病氣びょうきとこすこと ◯他界に遷化せんとす この世を去らうとする意、遷化せんかとは死のことで、高僧こうそうの死には「せんげ」とくんじて使用する ◯慰問 なぐさめの御使おつかいの意 ◯言、涕と與に並ぶ 皇恩こうおんを感謝しながらなみだを流すこと ◯再び遇ひ難し もう二度と丈夫な身體からだになつてちん對面たいめんすることは出來で きないであらうとの意、太子たいしやまいの重きをしまれたのである ◯之に隨はんとす その願ひ通りにするであらう。

〔註一〕聖德太子 聖德太子が、御母君おんははぎみ御懷妊ごかいにん中に禁中きんちゅう巡行じゅんこうして廐戸うまやどあたつて御誕生あらせられたことや、幼時から聖智せいちを持たれて、一度に十人のうったえを聞きわけられたことは史上有名である。太子は後、推古朝すいこちょう攝政せっしょうとなられ、官位かんい十二階に制定・曆日れきじつの採用・憲法十七じょうの制作・朝禮ちょうれいの制定・國史こくし編纂へんざん攝津せっつの四天王寺てんのうじ大和やまと法隆寺ほうりゅうじ建立こんりゅうなどに力をつくし、政治改革上に及ぼされた御功績ごこうせきは偉大であり、佛敎ぶっきょう史上からも忘れられない御方おんかたである。

〔注意〕太子の薨去こうきょに就いては、二十九年二月五日とするせつと二十二日とするせつとがあつて一定しない。御壽おんとしは四十九さいであられた。『扶桑ふそう略記りゃっき』にしたがへば、太子の御病おんやまいが重くなつた時、天皇の命によつて田村皇子たむらのみこ慰問いもんされ、本勅ほんちょくたまはつたのである。太子はこの優渥ゆうあくみことのりに接して感淚かんるい極まりなく、ただ一つのねがいがあるといつて大安寺だいあんじ建立こんりゅうを切望された事が記されてゐる。

推古紀すいこき』二十九年には、太子の薨後こうご國民こくみん悲嘆ひたんじょうじょして、「の時、諸王しょおう諸臣しょしん・及び天下の百せいこと長老おさな愛兒あいじを失ふが如く、鹽酢之味あ じ わ いくちれどもめず。少幼者わ か きめる父母をうしなふが如くて、いさつるこえ行路み ち滿てり。すなわ耕夫たがやすものすきめ、舂女つきめきおとせず。みないわく、日月じつげつひかりを失ひて天地あめつちすでくずれぬべし。今より以後、誰をたのまむや」とある。

【大意謹述】聞くところによれば、皇太子はやまいとこに就き、今や死にひんしてゐるとか。ちんはこれを知つて以來いらい、度々なぐさめの使者を派遣したが、その度每たびごとに感謝のことばなみだとが交互にはっせられるとつたへられてゐる。何といふ痛ましいことであらう。何といふあわれなことであらう。すでに朕は再び丈夫な太子とふことが出來ぬかも知れない。この時に及んで、し太子に何か願ひ事があるならば、朕は早速それをきとどけるであらう。

【備考】推古すいこ天皇が、聖德太子の御病氣ごびょうき憂慮ゆうりょせられたことは、太子の功勳こうくん多きのみならず、ほ今後、朝政ちょうせい翼賛よくさんについて、期待せらるるところが多かつたからであることは、申す迄もない。太子が日本文化に貢獻こうけんされた事績じせきじつに目ざましく輝かしい。それだけに、何とかして太子の壽命じゅみょうばしたいといふことは、上下しょうか朝野ちょうやの切望したところであつたらう。しかも太子がそのこうほこたまふことなく、恭謙きょうけんであらせられたことは本勅ほんちょくの上にもよく現はれてゐる。