67 大逆事件ニ際シ閣臣ヲ留任セシムルノ勅語 明治天皇(第百二十二代)

大逆たいぎゃく事件じけんさい閣臣かくしん留任りゅうにんセシムルノ勅語ちょくご(明治四十四年一月十八日 官報

【謹譯】今囘こんかい事件じけんハ、世間せけん變遷へんせんともなっおこ餘弊よへいニシテ、內閣ないかく施政しせい因由いんゆシテ發生はっせいシタルモノニアラス。いま國事こくじ多事た じさい卿等けいらしょく退しりぞクヲゆるサス。將來しょうらい益々ますます施政しせいつとメ、かくごと不祥ふしょうことカラシメンコトヲ。

【字句謹解】◯大逆 臣下しんかの身分で謀叛むほんくわだてる事 ◯今囘ノ事件 幸德こうとく傳次郞でんじろう(秋水)一味の大逆たいぎゃく事件。〔註一〕參照 ◯世間ノ變遷 世相せそうの移りかわり ◯餘弊 弊害へいがいの一たん ◯內閣 當時とうじの內閣は第二次かつら內閣だつた ◯施政 政治の方針 ◯因由 原因する ◯不祥ノ事 目出度め で たくないこと。

〔註一〕今囘ノ事件 幸德こうとく事件は、日露にちろ戰爭せんそう以後、我國わがくにに於ける無政府主義者の一が、皇室の尊嚴そんげん冒瀆ぼうとくし、直接行動によっ國體こくたい破壞はかい遂行すいこうしようとくわだてたことである。明治四十三年五月、信州の山中で一味のものが爆彈ばくだん密造みつぞう中に發覺はっかくし、いで幸德こうとくの同志が同年六月、神田かんだで「無政府共產主義」の赤旗せっきひるがえし、デモストレエシヨンをおこなつたとき、警官と衝突し、十數名すうめい處罰しょばつされた。ここに至つて彼等の正體しょうたいが一そうあきらかになり、審理しんりの結果、四十四年一月、幸德こうとくら十二名の死刑、十二名の無期懲役ちょうえき者を出して終結した。上下しょうかの一大警鐘であつた本事件にたいし、首相桂太郞かつらたろう內相ないしょう平田東助とうすけ農相のうしょう大浦兼武かねたけなどは閣僚を代表して罪を闕下けっかつたのは言ふまでもない。當時とうじ聖上せいじょうに於かせられては、本勅ほんちょく下賜か しあらせられて慰留いりゅうせられ、いで內帑金ないどきん百五十萬圓まんえんを以て、窮民きゅうみん醫療いりょうてしめられた。

【大意謹述】今日こんにちから考へると、この事件は、日本を赤化せっかしようとした最初のくわだてだといふ事が出來る。當時とうじは、左翼思想の分野がまだはつきりしなかつたが、アナキズム標榜ひょうぼうした幸德こうとくらが、一方において、マルクシズムにも傾倒けいとうしてゐたことは、おおがた事實じじつである。『平民へいみん新聞』では、マルクス讃美の語を繰返したこともある。したがつて、幸德こうとくは、純粹じゅんすいアナキストではない。マルクシズムにもかぶれてゐた。れは、最初、中江なかえ兆民ちょうみんの門につて、過激なフランス共和政治思潮しちょう感化かんかを受け、最初から非日本的な考へを多く持つてゐた。それが肺疾はいしつによつて、性格の上に矯激きょうげきの度を加へると、次第に革命的になり、クロパトキンのアナキズムマルクス唯物ゆいぶつ史観しかんに心を傾け、無政府共產主義によつて、社會しゃかい變革へんかくさうとしたのである。

 れには、日本の傳統でんとうについての知識がほとんどない。國體こくたい國性こくせい民性みんせいについてもまた何ら研究するところがない。漢學かんがく素養そようは少しあつたが、早くからフランス・イギリスなどの語學ごがく・思想にもっぱしたしんだ。ここに思想上の缺陷けっかんがある。日本と歐米おうべいとを十分に比較・研究しないで、ただフランス共和思想に共鳴し、日本國體こくたいと全くあいれぬ考へを主としていだいたのだ。かうした人物が、到頭とうとう時勢じせいの波にまれて、矯激きょうげきな行動に出たのは、當然とうぜん歸結きけつであつたらう。

 以上の出來事は、勿論もちろん、全くかつら內閣の責任とのみはへぬ。一部の責任は、かつららにもあるが、そのよっきたるところはなりに遠く深い。さかのぼつていへば、田中不二磨ふじまろが明治初期から中期のはじめにかけて、アメリカ主義の敎育きょういくおこなひ、共和政體せいたい讃美の文章を讀お本中どくほんちゅうにれて、平然、自省じせいしなかつたこともその一因をしてゐる。更にのちには、國家こっか主義に改宗かいしゅうしたが、一、アメリカ心醉しんすい使徒し となつたもり有禮ゆうれいらの言論も、やはり、よくなかつた。それは、非日本的思想の釀造じょうぞうあずかつて力があつた。それから伊藤博文・井上かおるらの歐化おうか政策もまた日本精神せいしんの本質を破壞はかいし、これに追隨ついずいする官吏かんり及び官學かんがく歐米おうべい盲拜もうはいおちいつて、日本の國體こくたいあいれない言論をしきりにもてあそんだこともまた幸德こうとくらを生み出すべき一因となつてゐる。

 現に幸德こうとくらの頭にも、ヨオロツパ崇拜すうはいの考へと唯物ゆいぶつ哲學てつがく隨喜ずいきの思想とが充滿じゅうまんしてゐたのも、つまり、歐化おうか政策の流れを追うたからにほかならない。勿論もちろん社會しゃかい主義の思想を參酌さんしゃくして、その所長をり、これを日本化して、活用することは、差支さしつかへないけれども、幸德こうとくに至つては、ただちにこれ鵜呑う のみにして、全面の眞理しんりとし、無政府共產主義を提唱したのだ。たんアナキズムだけでも、日本の國性こくせいあいれぬ上に、更に共產主義を加へたに至つては、愈々いよいよ日本の國體こくたい兩立りゅうりつせぬ。

 忠實ちゅうじつに、く日本の傳統でんとうにふさはしい社會しゃかい改革をさんとならば、第一に日本精神せいしんの本質について深く考へねばならぬ。ぎに、日本文化の特徵とくちょうについても、十分に認識するところがなければならない。更に日本の國民性こくみんせいをも、研究して、これを突ききはめるべき必要がある。ところが、幸德こうとくはかうした肝腎かんじんてんについて、何ら注意をはらはなかつた。ここれの最大缺點けってんがある。

 當時とうじ幸德こうとくらの大逆たいぎゃく事件について、眞實しんじつに反省したならば、第一に敎育きょういく方針をへる必要があつた。何となれば、當時とうじの敎育は、全く歐米おうべい的で、そこに日本精神せいしんの本質をくことなく、倫理りんり修身しゅうしんの課目はあつても、その講義は、皆西洋流の內容を備へたものであつたからだ。今日こんにちから考へると、じつに不思議であるが、こうずるものも、くものも、西洋流の倫理りんり修身しゅうしんを中心とするのを當然とうぜんとするほど、歐米おうべい的な心持こころもちになり切つてゐた。よし、當時とうじ少數しょうすう識者しきしゃが、全力をあげ、こえを大きくして、日本流の倫理りんり修身しゅうしんくとも、おそらく陳腐ちんぷとしてかえりみなかつたであらう。そのに、一般の日本精神せいしんは麻痺し切つてゐたのである。

 けれどもすで大逆たいぎゃく事件の發生はっせいを見た以上、兎角とかく、思想的にあやまられやす靑年せいねん學徒がくとをして、中正ちゅうせい公明こうめいの道を歩ませるために、當然とうぜん倫理りんり修身しゅうしんの內容を改め、日本精神せいしんを基本として、くべき必要があつた。大逆たいぎゃく事件について政治家もまた反省しなければならぬのは勿論もちろんであるが、敎育家は、思想運動の上に直接、關係かんけいを有するので、一そう、深く反省しなければならなかつた。ところが、當時とうじの敎育家は、これを對岸たいがんの火災し、一の小事件の如く思惟し いして、みずから進んで、十分の反省をしなかつた。そこに一般の敎育家の手落ちがある。勿論もちろん、その大半は、西洋中毒の徒であつたから、あるいは反省の仕樣しようもなかつたかも知れぬ。いな、反省の必要なしとして、かえって政府の處置しょちを、妥當性だとうせいくものと見たものがあるかも知れない。

 要するに、當時とうじすでに日本精神せいしんの目ざめ、心の故郷としての日本魂やまとだましい立還たちかえるべき必要があつたのだ。政治も敎育も、この方針で進まなくてはならぬ必然のいきおいにあつたとへる。しかここ覺醒かくせいするものが極めて少數しょうすうであつたがめに、禍根かこん昭和今日こんにちのこす結果となつた。

 聖上せいじょうにおかせられては、極めて寬大かんだいの態度を以て、閣臣かくしんに臨ませたまひ、「世間ノ變遷へんせんともなっテ起ル餘弊よへいニシテ、內閣ノ施政しせい因由いんゆシテ發生はっせいシタルモノニアラス」とおおせられたが、これがめ、閣臣かくしんは決して安心すべきではなかつた。聖上せいじょうは、後來こうらいいましめられ、「將來しょうらい益々ますます施政しせいつとメ、かくごと不祥ふしょうことナカラシメンコトヲ」とのたもうたところに、春風しゅんぷうゆるやかなおもむきと共にげんとして秋霜しゅうそう烈日れつじつの如きところがある。じつに政治上のき方一つで、以上の如き不祥事ふしょうじ發生はっせいを防ぐことは可能であつた。また聖上せいじょう御思召おんおぼしめしうかがつた以上、恐懼きょうくして罪を闕下けっかしゃし、更生こうせいの心で政治上の一大刷新さっしんさねばならなかつた。ことに敎育上の革新をただちに斷行だんこうしなければならぬ時機にあつたにかかわらず、かつら內閣は、何らすところがなかつた。これ聖上せいじょう御宏量ごこうりょうむくたてまつるべき所以ゆえんであつたらうか。要するに、當時とうじ閣臣かくしん至誠しせいなく、眞劍味しんけんみいたことは、後來こうらいわざわいのこした所以ゆえんだとだんじて差支さしつかへない。

 勿論もちろん在野ざいや政黨せいとうにしても、政府とうにしても、思想問題について、深く考へるところがなかつたのは事實じじつだ。政權せいけん爭奪そうだつには非常に熱心であつても、思想問題について、まるで盲目的なのが彼等の通弊つうへいであつた。彼等は、クロパトキン・マルクスらの思想については何ら見究みきわめず、それが日本精神せいしん如何い かあいれぬところが多いかといふことをも突きめず、よい加減にこの問題を取扱つた氣味き みがあつた。このてんに於て、當時とうじ政黨せいとうまた誠實せいじつき、眞劍味しんけんみいたとだんじてよい。

 要するに、すべての方面に於いて、切實せつじつな國民的反省をき、大逆たいぎゃく事件の根柢こんていくつがえし、赤化せっか思想の種子や根を未然に刈り取つてしまはなかつたことは、非常な手落ちだつたとはねばならぬ。ただ極少數ごくしょうすう識者しきしゃのみが忠告のこえをあげただけとどまつたことは更に遺憾いかんである。

 それについて、いつも我等のふことだが、文相ぶんしょうを首相と同格の人物とし、敎育問題のみならず、思想問題についても、日本精神せいしんの上から十分に正しい解釋かいしゃくべきげることが、何としても必要だ。由來ゆらい文相ぶんしょうといへば、「伴⻝ばんしょく大臣」の綽名あだながあつて、閣僚のうちでも、あまり重きをさない人物をゑてゐる。明治初期から今日こんにちに至る迄、文相ぶんしょうとして少しく異彩いさいを放つたのは、井上こわし・森有禮ゆうれい西園寺さいおんじ公望きんもち諸公しょこうにすぎない。その他は、大抵伴⻝ばんしょくに近い。でなければ、政府と政黨せいとうとの聯絡係れんらくがかりとして、この地位にゐるとつたやうな人物が過半かはんを占めてた。ここに大きい弊害へいがいがある。ゆえ文相ぶんしょうを首相と同格の人たらしめ、敎育・思想方面に精通せいつうして、しかも日本精神せいしん確實かくじつに把握した士であるべきことを要する。この事を實現じつげんしなくては、思想國難こくなんの解決が益々ますます困難である。

 ぎに大學だいがく總長そうちょうについても一こうを要する。現在では、官立かんりつにおいては、日本精神せいしん自覺じかくし、日本精神せいしんを理解しなくとも、事務的才能のある人物が總長そうちょうの地位にゐるやうだ。私立でも、經營けいえいの才、事務の手腕あるものが、總長そうちょうの椅子を占めてゐるのがむしろ多からう。ここに一つの缺陷けっかんがある。私立には、いろいろの經濟けいざい上の事情があつて、一がいへぬかも知れぬが、官立かんりつ大學だいがく總長そうちょうは、文相ぶんしょうの指導方針により、日本精神せいしんを正確に把持は じし、その原理本質に精通せいつうした總長そうちょうを置くことは、必ずしも困難でない。これ斷行だんこうすると同時に、各學部長がくぶちょうにも及ぼすべきが至當しとうである。ところが、現在では、官立大學總長・各學部長には、歐米おうべい追隨ついずい學者がくしゃあまりに多い。私立でも二三の學校がっこうを除くと、おおむね西洋崇拜すうはいの傾向をびてゐる。し有力な文相ぶんしょうが出現するならば、かうしたへいを一掃することは難事なんじであるまい。特に一こうを要する問題である。本勅ほんちょく拜誦はいしょうする人々は、深く以上のてんについて考へ、聖旨せいしむくいまゐらすところがなくてはならぬ。

 更に他の一面から考察すると、大逆たいぎゃく事件の發生はっせいは、丁度ちょうど濁水だくすいからバチルスを生ずる如く、(一)政治あく、(二)敎育惡きょういくあく、(三)社會惡しゃかいあくからかもし出されたものとへる。ひとり、幸德こうとくらの一派が思想的に邪道じゃどうおちいつたのではないといふ事を考へなくてはならない。淸水せいすいくところには、バチルスが生れるやうな場合が絕無ぜつむだが、濁水だくすい停滯ていたいするところには、續々ぞくぞく、バチルスがく。無政府共產主義は、左樣そ うした思想のバチルスだつた。

 それには、政治あく濁水だくすいが以前からある。明治の政治は、薩長さっちょう藩閥はんばつのために、はなはだしくにごされた。それをきよめるために生れた政黨せいとうもやはり、にごつてしまつた。これに加ふるに、日淸にっしん戰爭せんそう後、ようやとみ不平均ふへいきんを生じ、日露にちろ戰爭せんそうて、一そうこれ增大ぞうだいした。しかめるものは、社會しゃかい事業に冷淡なものが多く、貧しいものは益々ますますくるしむやうになつた。ここ社會しゃかい濁水だくすいみなぎつてたのである。のみならず、旣述きじゅつした如く、敎育界も、その中正ちゅうせいを保ち得ない上に、敎科書事件の如きものを發生はっせnし、これまた濁水だくすいおかすところとなつた。かうして各種の濁水だくすいが日本を包圍ほういする以上、思想あく―無政府共產主義などのバチルスのくのは、避け難いいきおいだつた。したがつて、これ幸德こうとくらの罪のみにするところが出來ないといふ所以ゆえんである。

 現在、赤化せっか思想は、深刻な潜行せんこう運動時代に入つてゐるやうだが、この潜行せんこう運動を絕滅ぜつめつするには、昭和の今日こんにち依然いぜんとしてのこつてゐる諸種しょしゅの政治あく社會惡しゃかいあく敎育惡きょういくあく濁水だくすいづ一掃してかかる必要があらう。かうした濁水を一掃しないで、ただ法律上から赤化せっか潜行せんこう運動をおさへても、それは一時的で、絕滅ぜつめつし難い。このてんについてもまた深い反省を要する。