57-3 大日本帝國憲法發布ノ詔勅 明治天皇(第百二十二代)

大日本だいにっぽん帝國ていこく憲法けんぽう發布はっぷ詔勅しょうちょく(第三段)(明治二十二年二月十一日)

【謹譯】將來しょうらい憲法けんぽう條章じょうしょう改定かいていスルノ必要ひつようナル時宜じ ぎルニいたラハ、ちんおよちん繼統けいとう子孫しそん發議はつぎけんリ、これ議會ぎかいシ、議會ぎかい憲法けんぽうさだメタル要件ようけんこれ議決ぎけつスルノほかちん子孫しそんおよ臣民しんみんあえこれ紛更ふんこうこころミルコトヲサルヘシ。ちん在廷ざいてい大臣だいじんハ、ちんため憲法けんぽう施行しこうスルノせめにんスヘク、ちん現在げんざいおよ將來しょうらい臣民しんみん憲法けんぽうたいシ、永遠えいえん從順じゅうじゅん義務ぎ むフヘシ。

【字句謹解】◯必要ナル時宜 改定するのに適當てきとうな場合 ◯朕カ繼統ノ子孫 ちんのち皇位こういいだちんの子孫の意 ◯發議ノ權ヲ執リ 天皇御發意ごはついあそばされた形式でこれを議會ぎかいにはかること ◯紛更 議論を混亂こんらんさせつ改めかへる ◯在廷ノ大臣 當時とうじの內閣閣僚のこと。〔註一〕參照 ◯從順 おとなしくしたがふこと。

〔註一〕在廷ノ大臣 當時とうじの內閣組織は黑田くろだ淸隆きよたか(首相)・山縣やまがた有朋ありとも(內相)・大隈おおくま重信しげのぶ(外相)・松方まつかた正義まさよし(藏相)・大山おおやまいわお陸相)・西郷さいごう從道つぐみち(海相)・山田やまだ顯義あきよし(法相)・もり有禮ゆうれい(文相)・井上いのうえかおる(農商務相)・榎本えのもと武揚ぶよう(逓相)であつた。それから詔勅ほんしょうちょく發布はっぷの翌日、黑田くろだ首相は各地方長官を鹿鳴館ろくめいかんに招き、政府の施政しせい方針として左の訓示くんじをなした。

今般こんぱん憲法發布はっぷ式を擧行きょこうありて、大日本だいにっぽん帝國ていこく憲法けんぽう及びこれ附隨ふずいする諸法令を公布せられたり。つつしんでおもふに、明治十四年十月みことのりくだして、二十三年を國會こっかいを開くむねを宣言せられ、爾來じらい政府は孜々し しとして立憲りっけん設備の事を務め、昨年四月樞密院すうみついん設立ののちは、ただち憲法及び諸法令を同院に下され、會議かいぎごと聖上せいじょう臨御りんぎょましまし、深く宸慮しんりょつくし、親しく裁定さいていあらせられたり。叡旨えいしする所を要するに、益々ますます我が國體こくたい本源ほんげんもとづき、祖宗そそう遺訓いくんしたがひ、永遠の基業きぎょうを定めてのり後昆こうこんれ、國本こくほん鞏固きょうこにして衆庶しゅうしょ福祉ふくしを共にするにあり。よっ將來しょうらいぱんの行政は、科條かじょう準據じゅんきょして進路にはんことを務むるは、行政のせめあたる者の職任しょくにんにして、よろしく日夜黽勉びんべんし、以て從事じゅうじすべきなり。

 帝國ていこく議會ぎかい明年みょうねんを以て開設せらるべし。およそ我が臣民しんみんたる者、誰か公權こうけん優重ゆうちょうせられ、公議こうぎ伸暢しんちょうせらるる聖上せいじょう無窮むきゅう恩德おんとく欽仰きんこうせざらんや。議會ぎかい開設の時に至り、議員のせんあたる者は、おのおの忠實ちゅうじつまことつくして國事こくじ參與さんよし、上下和融わゆうの美を成し、以て慈仁じにんむね奉答ほうとうせんことを今より切に望む所なり。奔競ほんきょう浮躁ふそういたずら紛擾ふんじょうこととし、議會ぎかい體面たいめんを損し、みずかの信用を公衆に失ふが如きことあらば、遂に立憲りっけん盛意せいいむなしくするに至らん。地方牧民ぼくみんせめあた各員かくいん、意を加へて誘導ゆうどう啓發けいはつあらんことを欲するなり。

 憲法あえ臣民しんみんの一るる所にあらざるは勿論もちろんなり。施政上しせいじょうの意見は人々所說しょせつことにし、の合同する者あいとうじて團結だんけつをなし、所謂いわゆる政黨せいとうなる者の社會しゃかい存立そんりつするはまた情勢じょうせいまぬがれざる所なり。しかれども政府は常に一定の方向を取り、超然ちょうぜんとして政黨せいとうそとに立ち、至正しせいの道にらざるべからず。各員かくいんく意をこことどめ、不偏ふへん不黨ふとうの心を以て人民に臨み、撫馭ぶぎょよろしきを、以て國家こっか隆盛りゅうせいを助けんことを勉むべきなり。

 政府は從來じゅうらい經費けいひの節減をはかり、民力みんりょくの休養を勉むといえども、外來がいらい事變じへん常に豫期よ きほかで、必需ひつじゅようきょうせざるを得ず。去る十八年官制かんせい改革以來いらい銳意えいい冗員じょういんし、繁文はんぶんはぶき、浮費ふ ひを減ずることに從事じゅうじするも、更に將來しょうらいむかって、不急用ふきゅうようせっして、國力こくりょく充實じゅうじつすることを務めんとす。そもそぼん百の事業は進歩と整理とに平行して、始て結果をおさむるは普通の道理なり。ゆえに進歩のうちに整理をかえりみ、順序をおうて運動し、堅忍けんにん不拔ふばつ、一貫徹かんてつこう淺近せんきんに求めずして事を永遠におもんばかり、浮華ふ か虛飾きょしょくへいめ、勤儉きんけんふうを養成し、つ、民治上みんじじょうつとめ煩苛はんかしつを除き、政務の機關きかんをして活動せしめんことを期待するなり。

 以上陳述する所は、今囘こんかい國家こっか大典たいてん發布はっぷしゅくすると共に、將來しょうらい聖旨せいし遵行じゅんこうして、國家こっかつくす所の趣旨しゅし伸明しんめいするにほかならず。各員かくいん體諒たいりょうせられんことを冀望きぼうす。」

この黑田くろだ首相の超然ちょうぜん主義は、憲法起草きそうの責任者である伊藤博文が同十五日に官邸に於いておこなつた所信しょしんの告白と內容上ほとんど等しく、一は當時とうじ要路ようろ大官たいかん憲法の本質にかん如何い かに考へてゐたかを示し、一はその翌年に開催された帝國ていこく議會ぎかい第一かいに於ける政府の意を知ることが出來る。

【大意謹述】今後、まん一、この憲法る部分を改正する必要がある時がたとすれば、その際はちん、又はちん後繼こうけいとして皇位こういにあるちんの子孫は、天皇の名のもとに於いて議會ぎかいにその改正案を提出するけんを持つ。議會ぎかい今囘こんかい憲法が決定した要件にしたがつてこれを議決する以外、ちんの子孫及び國民一般は、ことさらに議論を紛糾ふんきゅうに導くことを許さないのである。

 現在、ちんの朝廷に奉仕し、內閣を組織してゐる諸大臣は、ちんが日本國家のためにこの憲法實施じっしする上に生ずるあらゆる責任を持ち、現在、將來しょうらい臣民しんみんは、この憲法の定めたままに、永久に從順じゅうじゅんしたがふ義務を負はなければならない。

【備考】明治天皇は、つと立憲りっけん政治に大御心おおみこころを注がれ、明治三年から八年迄、侍讀じどくとして加藤かとう弘之ひろゆきし、國法學こくほうがく立憲政治の沿革えんかく發達はったつについて聽講ちょうこうあらせられ、西村にしむら茂樹しげき西にしまことらをして、えいどくふつ各國かっこく立憲制の知識を修得しゅうとく遊ばされたのである。それから明治十二年、米國べいこく前大統領グラントが來朝らいちょうすると、矢張やはり立憲政治についてグラントの意見をちょうされたことがあつた。

 その後、明治十八年、墺土利オオストリヤこくのスタイン博士の憲法がくについても御研究になつた。いで明治二十一年五月樞密院すうみついんを開かれ、皇室こうしつ典範てんぱん及び憲法の案を附議ふ ぎせられ、明治天皇におかせられては、每囘まいかい必ず親臨しんりんせられたのである。會議かいぎは明治二十一年五月八日から始り、その年十二月十七日に至る迄の間に每週まいしゅうかい、または隔週一かい、開かれ、皇室典範その他、憲法・議院法・衆議院選擧せんきょ法・貴族院令を議了ぎりょうした。その間に於ける明治天皇御精勵ごせいれいには、一同、恐懼きょうく感激したところであるが、陛下には、ただかい、十月十二日午前中の會議かいぎだけ、御病氣ごびょうきのため缺席けっせきされたにとどまる。それも午後には、やまいを忍んで、臨御りんぎょなされた。

 當時とうじの事について、金子かねこ堅太郞けんたろうはくは、「十箇月かげつの討議中、陛下は一日も御休おやすみあそばされた事がなく、して中途に入御にゅうぎょあそばされたこともない。始終しじゅう、議長・大臣・顧問官らの議論に御耳おんみみかたむけさせたまひ、一げんも、決していやしくもあそばされなかつた。陛下の御椅子おんいすは、肘掛ひじかけ椅子であつたが、嚴然げんぜん御座ぎょざましまし、御背おんせを椅子にらせたまふ事なく、御頭おんかしらを傾け、あるい御身體ごしんたいを左右に動かしたまふことなく、御姿勢ごしせいの正しかつたことは、じつ恐懼きょうくへぬ次第であつた」と語つてゐる。

 ぎに、明治天皇は、憲法會議かいぎの內容について、始終しじゅう十分な御研究を積まれた。憲法草案そうあんは、伊藤議長から御手許おてもと捧呈ほうていし、會議かいぎのあるごとに、その草案を侍從じじゅうの手を下附か ふされた。陛下は、以上の草案を綿密に御覽ごらんになり、少しでも、不審ふしんてんがあると、すぐに伊藤議長を宮中きゅうちゅうされ、そのてんを問ひただされたのである。伊藤博文の談話によると、陛下は、「常に自由進歩の思想に傾きたまひ」と述べてゐる。以上の如く、明治天皇は、事實じじつ上、憲法制定の偉業いぎょうみずか總裁そうさいなされたのであつた。以上の如くにして、國民は、憲法發布はっぷの日を迎へたのである。今日こんにち、その恩惠おんけいよくするものは、明治天皇御精勵ごせいれいのほどを深く銘記めいきしなければならぬ。

 かくて明治二十二年二月十一日の東京は國旗こっき球燈きゅうとう綠門アーチとを以て滿艦飾まんかんしょくほどこされ、花火は七さいの虹のやうに夜の空に輝き、はなやかな山車だ しは、街上がいじょう歡喜かんき空氣くうきみなぎらせて、ここに一大樂園らくえん現出げんしゅつしたやうに見えた。この喜びの東京、光の東京を見たのは、當日とうじつ明治天皇建國けんこく以來いらい二千五百四十九年目の紀元節きげんせつあたつて、帝國ていこく憲法けんぽう發布はっぷ大典たいてん擧行きょこうせられたからである。

 憲法發布はっぷは、明治政史せいしに於て、最も意義ある出來事だつた。過去十年間、民選みんせん議院ぎいん設立の建白けんぱくがあつてから、この紀元節きげんせつに至るまで、官權かんけんたい民衆の爭鬪そうとうや、それからおこつたさまざまの悲劇は、ことごとくこの憲法發布はっぷの日に一日も早くはうとしために演出されたのである。そしてこの憲法發布はっぷによつて、君民くんみんの政治が象徵しょうちょうされたのみならず、官權かんけんたいする民權みんけん伸張しんちょうをも意味した。したがつて士民しみんの政治運動に於ける努力は、ある程度迄、むくはれたとへる。

 それと共に、考へねばならぬのは、伊藤らの憲法編纂へんさんについての苦心だ。それに先立つて、順序上、認めねばならないことは、明治九年九月、國憲こっけん取調とりしらべ委員が出來て、柳原やなぎはら前光さきみつ福羽ふくば美靜びせい中島なかじま信行のぶゆき細川ほそかわ潤次郞じゅんじろうらが相當そうとう力を注いだ。その人々は、十三年の暮迄くれまでに、イギリス・フランス・アメリカ・プロシヤ・バワリヤ・ベルギイ・ポルトガル・スペイン・オランダ等の憲法飜譯ほんやくし、大體だいたい要旨ようしを明白にして、國憲こっけん草案そうあんとして、主上しゅじょうたてまつつたのである。それにたいし、民間でも、憲法起草きそうかいが設けられ、矢野や の文雄ふみお中上川なかがみがわ彥次郞ひこじろう犬養いぬかいたけし尾崎おざき行雄ゆきお牛場うしば卓造たくぞうらの人々がその起草きそうあたり、私擬し ぎ憲法けんぽうしょうして、時の首相黑田くろだ淸隆きよたかのもとへさし出した。その他、共存きょうぞん同衆どうしゅう嚶鳴社おうめいしゃの人々もやはりこの方面に熱誠ねっせいを傾けたのである。

 時に伊藤博文は、憲法起草きそう大命たいめいはいした關係かんけい上、明治十五年三月、歐米おうべいおもむき、みずか憲法調査にあたつた。れは主として、ドイツ・オオストリヤ等の地にとどまり、グナイスト及びスタインにつき、憲法を研究すると共に、プロシヤ・バワリヤの憲法、フランスの憲法などをも取調べ、十六年に歸朝きちょうした。

 伊藤が憲法起草きそう從事じゅうじし始めたのは、十七年三月からである。それに參加さんかしたのは、伊東いとう巳代治み よ じ金子かねこ堅太郞けんたろう井上いのうえこわしの三人であつたが、顧問として、外人ロエスレル及びビゴツトも力を添へた。當時とうじ、伊藤がどんな方針を以て、憲法起草きそうあたつたかといへば、日本の國體こくたい及び國史こくしを第一基礎として、憲法運用の大方針を定め、すべてにわたつての大本たいほんを示すにとどめ、こまかいことは時におうじて、法律又は勅令ちょくれいにより補つてゆかうとした。この方針のもと歐米おうべいに於ける學說がくせつ又は運用法を參酌さんしゃくし、それらを活用することは、差支さしつかへないとしたのである。

 ぎに起草きそうすべき方面については分擔ぶんたんを定めた。井上いのうえこわし憲法皇室こうしつ典範てんぱんを、金子かねこ堅太郞けんたろう衆議院議員選擧せんきょ法と貴族院令を、伊東いとう巳代治み よ じは議院法を擔當たんとうした。それらによると、井上いのうえこわしが一番、重要な方面にあたつたことがわかる。かうして明治十九、二十の二年間は、伊藤を中心として、以上の分擔ぶんたん者が、閑靜かんせい夏島なつしまおもむき、相互そうご腹藏ふくぞうなく、意見を交換し、時には激論をたたかはした。その結果、二十一年春、草案そうあんが出來上つて、主上しゅじょうたてまつつた。

 當時とうじ、伊藤が憲法起草きそうするについての、苦心は一面に於て、極端な保守主義者にどうぜず、一面に於て極端な急進主義者に雷同らいどうしないで、中庸ちゅうようかうとしたてんにあつた。これについて、伊藤は「かえりみれば一方には、前代の遺老いろうにして、天皇神權しんけんの思想をいだき、いやしく天皇大權たいけんを制限せんとするが如きは、其罪そのつみ叛逆はんぎゃくひとしと信ずるものあり。他方に於ては、マンチエスタア派の敎育きょういくを受け、極端なる自由思想を懷抱かいほうせる有力なる多數たすう少壯者しょうそうしゃあり。つとに政府の官僚かんりょうの反動時代に於ける獨逸ドイツ學者がくしゃ學說がくせつに耳をかたむくるに反し、民間の政治家は、いま實際じっさい政治の責任をかいせずして、いたずらにモンテスキユウ・ルソオ等、佛蘭西フランス學者がくしゃの痛快の學說がくせつ奇警きけいの言論に心醉しんすいして揚々ようようたるものあり。(中略)又わが國民こくみんの知識は、議論の主義にりて、政府に反對はんたいする事と、國家旣定きていの秩序を紊亂ぶんらんする反逆との間に、截然せつぜんたる區別くべつあることを知了ちりょうするの程度に達せざりしなり」と辯解べんかいした。

 それから伊藤の第二苦心は、わが固有の道德どうとく・風習情義じょうぎの上にも酌量しゃくりょうを加へて、これと矛盾することを避け、いろいろ鹽梅あんばいしたところにある。第三の苦心は、大權たいけんの威力を擁護ようごし、皇位こういを一種の虛飾物きょしょくぶつたらしめぬやう努むると同時に、人民の名譽めいよ・自由・生命・財產ざいさん安固あんこを保護しようとした上にある。要するに、伊藤は、以上の苦心により何處ご こまでも、西洋鵜呑うのみ式を避け、調和的・中庸ちゅうよう的な日本獨自どくじの色彩ある憲法を作らうとした。ここに伊藤の功勞こうろう著大ちょだいなものがある。