57-1 大日本帝國憲法發布ノ詔勅 明治天皇(第百二十二代)

大日本だいにっぽん帝國ていこく憲法けんぽう發布はっぷ詔勅しょうちょく(第一段)(明治二十二年二月十一日 官報

【謹譯】ちん祖宗そそう遺烈いれつケ、萬世ばんせいけい帝位ていいミ、ちん親愛しんあいスルところ臣民しんみんすなわちん祖宗そそう惠撫けいぶ滋養じようシタマヒシところ臣民しんみんナルヲおもヒ、康福こうふく增進ぞうしんシ、懿德いとく良能りょうのう發達はったつセシメムコトヲねがヒ、また翼賛よくさんリ、ともとも國家こっか進運しんうん扶持ふ じセムコトヲのぞミ、すなわ明治めいじ十四ねんがつ十二にち詔命しょうめい履踐りせんシ、ここ大憲たいけん制定せいていシ、ちん率由そつゆうスルところしめシ、ちん後嗣こうしおよ臣民しんみん子孫しそんタルものヲシテ、永遠えいえん循行じゅんこうスルところラシム。

【字句謹解】◯祖宗ノ遺烈 御祖先ごそせんのこたもうた御功業ごこうぎょう ◯朕カ親愛スル所ノ臣民 ちんが親しく愛する臣民しんみんの意 ◯惠撫滋養 恩德おんとくほどこして統治される意 ◯康福 幸福こうふくのこと ◯懿德 うるはしいとく ◯翼賛 國民こくみんが皇室の御方針をたすたてまつること ◯明治十四年十月十二日ノ詔命 これは前述した『國會こっかい開設ノ勅語ちょくご』を指されたので、その內に、「明治二十三年ヲシ、議員ヲ國會こっかいひらキ」とおおせられた大命たいめいを意味する。その目的のもと帝國ていこく憲法けんぽう發布はっぷされた ◯履踐シ 實行じっこうする ◯大憲 國是こくぜの根本となる憲法のこと。〔註一〕參照 ◯率由 したがふこと ◯循行 守り行ふ意。

〔註一〕大憲 伊藤樞密院すうみついん議長は御命ぎょめいほう皇室こうしつ典範てんぱんの制定と共に憲法及び附屬ふぞく法典を審議しんぎすべく、樞密院すうみついん會議かいぎを明治二十一年五月八日から開き、同年十二月十七日に全部を終了した。この間、恐れ多くも明治天皇は終始親臨しんりんあらせられ、會議かいぎ中、皇子おうじ薨去こうきょの事があつた時も、議事ぎ じを中止せられなかつたとつたへられる。この會議かいぎに於いて、五月八日から六月十五日まで皇室こうしつ典範てんぱん審議しんぎし、同十八日から七月十三日まで憲法の調査をおこなつた。議員法は九月十七日から十月三十一日まで、衆議院議員選擧せんきょ法は十一月五日から十二日まで、貴族院令は十二月十三日から十七日までであつて、議員法は伊東いとう(巳代治)書記官、選擧せんきょ法及び貴族院きぞくいんれい金子かねこ(堅太郞)書記官が說明せつめいの任にあたつた。くして諸般しょはんの準備を整へ、二十二年紀元節きげんせつ佳辰かしんぼくし、宮中で莊嚴そうごん憲法發布はっぷ式が行はれ、文武ぶんぶかん・各府縣ふけんかい議長・外國がいこく使臣ししんされて、詔勅しょうちょく降下こうかの事があつた。

【大意謹述】ちん御先祖ごせんぞのこされた御功業ごこうぎょうを受けぎ、萬世ばんせいけい皇位こういいた。それに就てちんは親しみ愛してゐる臣民しんみんが、ちん御祖先ごそせん恩德おんとくのもとに統治された者の子孫にほかならないことを考へ、その幸福こうふくし、その德行とっこう才能を發達はったつさせたいと常に願つてゐる。更に臣民しんみんらが皇室の事業をたすけることにつて、皇室と臣民しんみんとが一致協力し、同じやうに國家こっか發達はったつ上に努力するのを望む。ここにちんは明治十四年十月十二日のみことのりの內容を實行じっこうし、國會こっかい開設の第一歩として憲法を定め、ちんしたがひよるところを明示めいじし、ちん後繼者こうけいしゃ及び臣民しんみんの子孫が永久にこれを守りしたがふ道を知らしめる。