53-3 國會開設ノ勅語 明治天皇(第百二十二代)

國會こっかい開設かいせつ勅語ちょくご(第三段)(明治十四年十月十二日 三條實美公年譜)

【謹譯】ちんおもフニ、人心じんしんすすムニへんシテ、時會じかいすみやかナルヲきそフ。浮言ふげんあいうごカシ、つい大計たいけいわすル。よろシクいまおよん謨訓ぼくん明徵めいちょうシ、もっ朝野ちょうや臣民しんみん公示こうじスヘシ。ことラニ躁急そうきゅうあらそヒ、事變じへんせんシ、國安こくあんがいスルものアラハ、しょスルニ國典こくてんもっテスヘシ。とくここ言明げんめいシ、なんじ有衆ゆうしゅう諭さとス。

【字句謹解】◯時會 國會こっかい開設の時期 ◯浮言 根據こんきょのないせつ ◯大計ヲ遺ル 國家こっかの根本方針を忘るること ◯謨訓ヲ明徵シ 皇室の一定不變ふへんな方針を人々に知らしめる意 ◯故サラニ躁急ヲ爭ヒ 理由もなくたんに感情に支配されて國會こっかい開設のの早さを云々うんぬんする ◯事變ヲ煽シ 煽動せんどうして事故を起させる ◯國安ヲ害スル者 國家の平安をみだす者 ◯國典 國法こくほうのこと ◯有衆 國民こくみん一般。

〔注意〕本勅ほんちょく關係かんけいを持つものとして、

(一)大臣・參議さんぎ・各省卿しょうきょうニ下シ給ヘル勅語ちょくご(明治十四年十月十三日)(二)各地方官ニ下シ給ヘル勅語(明治十四年十二月八日)(三)立憲りっけん制度調査ノ伊藤いとう博文ひろぶみ歐洲おうしゅうニ派遣シ給フ勅語(明治十五年三月三日、法規分類大全)がある。

【大意謹述】現在の世相をかえりみるに、一部の國民こくみんは政治上の進歩のみにを奪はれ、一刻も早く國會こっかいの開かれん事を切望し、根據こんきょのない理論のため妄動もうどうして國家こっかの根本となる大方針を忘れてゐるやうに見える。ゆえにこの際朝廷の方針を明らかにして、朝野ちょうや臣民しんみんつげ知らせる必要がある。が、ほ故意に騒ぎ立てて事をいそぎ、事を起すやう煽動せんどうし、國家こっかの安定を害する者があれば、國法こくほうの命ずるがままに處分しょぶんするであらう。特にこのよしをここに言明げんめいし、爾等なんじら國民に敎諭きょうゆする。

【備考】國會こっかい開設運動が起つた時、政府當局とうきょくこれ對策たいさくに熱中した。が、內部にいろいろの意見があつて一致せぬ。保守・漸進ぜんしん・急進の考へが、もつれ合つた。岩倉いわくら右大臣うだいじん(具視)の如きは三じょう太政大臣だじょうだいじん(實美)と計つて、明治十二年の末に欽定きんてい憲法の調査を必要とする上書じょうしょした。その翌年、有栖川宮ありすがわのみや熾仁たるひと親王しんのう奏上そうじょうにより、諸參議さんぎの意見をちょうせられると、黑田くろだ淸隆きよたかの如きは、國會こっかい開設に反對はんたいし、「國論こくろん沸騰ふっとうを制するには、不平士族しぞく授產じゅさんすればよろしい」とふやうな見當けんとうちがひのせつした。勿論もちろん黑田くろだとても、全く立憲りっけん政治を否定してはゐないが、保守主義精神せいしんから反對はんたいした。山縣やまがた有朋ありともは、として、立憲りっけん政治を認めるが、政府の權力けんりょくを支持してゆく上から、これ反對はんたいした。かうふ風に、保守思想をいだくものが、政府の內部にゐたのである。

 ところが、伊藤いとう博文ひろぶみ井上いのうえかおるになると、漸進ぜんしん的な考へをいだいた。この二人は當時とうじ政弊せいへい遺憾いかんとし、國會こっかい開設により、民心みんしんの要求する所を滿たしめる必要あることを力說りきせつした。ただその順序として、井上は「元老院げんろういんをやめ、別に上議院じょうぎいんを設け、民法みんぽうを編成してから、憲法編成に及びたい」と主張した。同時に、れは上議員じょうぎいん百名を華士族かしぞくうちから選任すべき必要をいた。伊藤の考へも大體だいたい同樣どうようで、ただ財政の正確を保持するため、公選こうせん會計かいけい檢査官けんさかんを置く必要をとなへたてんが、すこしくことなるのみである。

 かうして各人かくじんの意見を發表はっぴょうした當時とうじ、固く沈默ちんもくしたのは大隈おおくま重信しげのぶである。けだ大隈おおくまは急進的にちかく、その胸中きょうちゅう國會こっかいそく開設を持して、暗默あんもくうちに、伊藤・井上らと氣脈きみゃくを通ずるところがないではなかつた。ただれの意見を正直に上奏じょうそうすると、たちまち保守派たる薩派さっぱからにらまれ、自己の地位を失はねばならぬ危險きけんがある。そこで大隈おおくまは十四年三月有栖川宮ありすがわのみやむねにより、岩倉から建議書けんぎしょ(國會開設について)の提出をうながさるるまでは固く沈默ちんもくしたのである。

 當時とうじ熱海あたみ會議かいぎなるものが行はれたが、その中心は、大隈・伊藤・井上であつた。けだし大隈は、國會こっかい開設問題について伊藤・井上と意見交換し、自分の身方みかたへ引入れることに努めたが、同時に言論のゆう福澤ふくざわ諭吉ゆきちをも味方にしようとして、明治十三年冬、伊藤・井上と共に福澤ふくざわ會見かいけんした。當時とうじ、大隈らは、國會こっかい開設の準備として、新聞紙を發行はっこうしようといふことを話し、福澤ふくざわも賛成した。翌十四年にも、熱海あたみで伊藤・大隈・井上・福澤らが會合かいごうして、意見交換をした。この熱海あたみ會議かいぎのことが、世間にれると、伊藤・井上以外に於ける諸參議さんぎは、疑惑のまなこでこれを注視ちゅうしした。大隈が建議書けんぎしょを提出したのはこの時で、薩長さっちょう藩閥はんばつへいあきたらず、局面打破に熱中した大隈は伊藤・井上に計ることなく、ただ在來ざいらいの大まかな諒解りょうかいがあるといふだけ甘心かんしんし、急進的な意見をたてまつつたのである。

 その要旨ようしは、「明治十五年の末に議員を選擧せんきょし、十六年初春、國會こっかいを開きたい」といふにある。それと共に大隈は矢野や の文雄ふみおに命じて書かせた私擬し ぎ憲法けんぽう及び國會こっかい開設要目ようもく有栖川宮ありすがわのみやたてまつつた。この急進せつは、保守主義に近い岩倉を驚かし、岩倉は伊藤を呼んで叱り付けるとつた有樣ありさだつた。その事あつて以來いらい、伊藤・大隈の關係かんけいは一時決裂してしまつた。そのの諸參議さんぎになると、大隈のせつに極力反對はんたいした。その結果薩長さっちょう政治家の結束が成り、大隈を孤立せしめて、政府から追ひ出したのである。それが、「明治十四年の政變せいへん」だつた。この事については、多くを語るべき必要がないから、これだけに留めよう。

 要するに、當時とうじ士民しみんは、王政おうせい復古ふっこによつて、武斷ぶだん專制せんせい政治の幕府を打倒したものの、ぎに意外な薩長さっちょうばつの政治上にはびこる事について、少からぬ不滿ふまんを感じた。薩長さっちょう派のうちにも公平な政治家は、をらぬのではないが、大體だいたいにおいて、少からぬ我儘わがままを働き、自派じ は擁護ようごに熱中した。そのため、政治上の革新も、往々おうおう障碍しょうげたす有樣ありさで、浮ばれぬのは大衆であり、國民こくみんである。公平な士民しみんは、このてんについて、非常にいきどおり、その激昂げっこうした感情を國會こっかいの上で一吐露と ろしなければやまぬといふ、すさまじいいきおいを示した。この時にあたり、明治天皇が、國會こっかい開設のを告示せられ、國民の輕擧けいきょ妄動もうどういさめられたので、國民も始めて、一光明こうみょうあお心持こころもちしたのである。