53-1 國會開設ノ勅語 明治天皇(第百二十二代)

國會こっかい開設かいせつ勅語ちょくご(第一段)(明治十四年十月十二日 三條實美公年譜)

【謹譯】ちん祖宗そそう二千五百ゆうねん鴻緒こうちょキ、中古ちゅうこひもクノ乾綱けんこう振張しんちょうシ、大政たいせいとう一ヲ總攬そうらんシ、またつと立憲りっけん政體せいたいテ、後世こうせい子孫しそんクヘキノぎょうサンコトヲス。さき明治めいじねん元老院げんろういんもうケ、十一ねん府縣ふけんかいひらカシム。みな漸次ぜんじもといはじメ、じょしたがっすすムルノみちルニあらざルハシ。なんじ有衆ゆうしゅうまたちんこころりょうトセン。

【字句謹解】◯二千五百有餘年 明治十四年は皇紀こうき二千五百四十一年にあたる ◯鴻緒ヲ嗣キ 天皇系譜けいふうけたまわぐ意。すなわ皇位こういき我が日本を統治あそばされる意である ◯紐ヲ解クノ乾綱 非常にゆるんだ國政こくせいのことで賴朝よりとも以來いらい武家政治のため、皇室のふるはなかつた事實じじつを指す ◯振張 緩んだものを緊張させる意からてんじて事物をおおいに盛大にすることになる ◯大政ノ統一ヲ總攬シ 天下の大政たいせいを皇室で統一し、天皇御自身が御裁定ごさいていあること ◯明治八年ニ元老院ヲ設ケ このことは本篇に前述した『元老院げんろういん大審院たいしんいんヲ設置シ地方官ヲ召集しょうしゅうスルノ勅語ちょくご』(明治八年四月十四日、太政官日誌)を參照さんしょうの事 ◯十一年ニ府縣會ヲ開カシム 明治十一年七月に太政官だじょうかん布告ふこく發布はっぷ實施じっしされた所謂いわゆる「三新法しんぽう」のこと。〔註一〕參照 ◯基ヲ創メ 基礎を確立することからはじめる ◯序ニ循テ歩ヲ進ムル 順序にしたがつて一歩づつ堅實けんじに進み、飛躍しない意。〔註二〕參照 ◯有衆 國民全部を指されたのである ◯朕カ心ヲ諒トセン ちんのかくする氣持きもちを了解するであらうと、おそれ多くも國民に問はれた御詞おことばである。

〔註一〕府縣會 府縣會ふけんかい明治維新前後の地方自治制度の一劃期かっきをなしたもので、木戸・大久保の考案になり、特に後者の勞苦ろうくつて明治十一年六月の第二かい地方官會議かいぎ元老院ごんろういん審議しんぎて、同年七月、「郡區ぐんく町村ちょうそん編成法」「府縣會ふけんかい規則」「地方ぜい規定」の名稱めいしょうもと太政官布告ふこく實施じっしされたのである。

〔註二〕序ニ循テ歩ヲ進ムル 大久保・木戸・板垣の所謂いわゆる「大阪會議かいぎ」後にのち二者は又も挂冠けいかんし、大久保は十一年に暗殺され、木戸も西南役せいなんのえきちゅうぼっしたので、政府は長閥ちょうばつ伊藤博文及び佐賀出身で當時とうじ藩閥はんばつ圏外けんがいに立つてゐた大隈おおくま重信しげのぶ對立たいりつの姿となり、在野ざいやの板垣がひとり「愛國社あいこくしゃ」及びその改稱かいしょう國會こっかい期成きせい同盟會どうめいかい」につて所謂いわゆる自由民權みんけん思想を天下に鼓吹こすいし、政府の彈壓だんあつもと雄々お おしくたたかつた。伊藤・大隈は共に保守主義者ではなく、立憲政體せいたい早晩そうばん實現じつげんされるべき運命にあることは知つてゐたが、時機の如何いかんを考へてゐたのである。又、當時とうじ民權派みんけんはがややともすると不穩ふおんな行動にで、矯激きょうげきな思想をく傾向があつたのを物足らなく思つた。そのうち大隈重信が時機きたつたと見て伊藤らにはからずして、提出した私擬し ぎ憲法(明治十五年に議員を召集し、十六年に國會を開く獻策)はひどく伊藤らを刺戟しげきし、十四年十月長派ちょうはは結束して薩派さっぱと結び、大隈及びその一を政府から一そうした。その直後、本勅ほんちょく渙發かんぱつされたのである。

【大意謹述】ちんは、神武じんむ天皇以來いらい二千五百餘年よねん連綿れんめんとした天位てんいぎ、中古ちゅうこ以後非常にゆるんでゐた國政こくせいを緊張させ、天下の大政たいせいを統一して、みずかすべてを裁定さいていする一方、早くから立憲りっけん代議だいぎ政體せいたいを確立し、後世ちんの子孫代々にがせるだけの仕事を行はうと考慮してゐた。先般せんぱん明治八年に元老院げんろういんを設立し、十一年に府會ふかい縣會けんかいを開かせたのも、づその基礎の確立から始め、順序にしたがつて一歩づつ堅固けんごに進んでゆかうとするめにほかならない。爾等なんじら國民こくみん一般も、かく漸次ぜんじ中正ちゅうせいの態度で進むちん精神せいしんを了解した事であらうと信ずる。

【備考】明治天皇におかせられては、何事にも、中正ちゅうせいの道を歩まれ、「じょしたがっすすムル」といふ、漸進ぜんしん的な態度をられた。明治の偉業いぎょう實現じつげんせられたのは、主としてこれるものと拜察はいさつする。士民しみんのうちには極端な思想、過激な精神せいしんを海外から得て、しきりに宣傳せんでんしたものがあり、急進にへんし、突飛とっぴとらはれたものもあつた。けれども明治天皇は、それらを正しく指導して、極端をせいし、過激をやわらげ、急進、突飛をいましめ、かくして、政治上、中正ちゅうせいの道を徹底し、漸進ぜんしんの態度で、すべての改革を具合よく、實現じつげんされたのである。