46 廢藩置縣斷行ノ勅語 明治天皇(第百二十二代)

廢藩はいはん置縣ちけん斷行だんこう勅語ちょくご(明治四年七月十四日 太政官日誌)

【謹譯】ちんおもフニ、更始こうしときさいシ、うちもっ億兆おくちょう保安ほあんシ、そともっ萬國ばんこく對峙たいじセントほっセハ、よろし名實めいじつあいヒ、政令せいれい一ニセシムヘシ。ちんさき諸藩しょはん版籍はんせき奉還ほうかん聽納ちょうのうシ、あらた知藩事ちはんじめいシ、おのおのしょくほうセシム。しかルニすうねん因襲いんしゅうひさしキ、あるいアリテじつあがラサルものアリ。なにもっ億兆おくちょう保安ほあんシ、萬國ばんこく對峙たいじスルヲンヤ。ちんふかこれがいス。よっいまさらはんはいけんス。これつとめじょうかんキ、有名ゆうめい無實むじつへいのぞキ、政令せいれい多岐た きうれいなかラシメントスなんじ群臣ぐんしんちんたいセヨ。

【字句謹解】◯更始ノ時 舊來きゅうらい弊政へいせいを一して萬事ばんじを始めからやり直す時。すなわち明治の王政おうせい復古ふっこに際しての意 ◯億兆ヲ保安シ 國民一般の生命財產ざいさんを保護する ◯萬國ト對峙ス 諸外國と對等たいとうの交際をする ◯政令一ニ歸セシムヘシ 天下の號令權ごうれいけん中央政府からはっするやうにしなければならない ◯曩ニ 明治二年六月十七日のこと ◯版籍奉還 諸侯しょこうの土地と人民とを朝廷にたてまつること。この經過けいかに就いては〔註一〕參照 ◯知藩事 版籍はんせき奉還ほうかん一時的に置いた官名かんめいで、主として諸侯しょこうきゅう領地の統治をつかさどらしめたもの。現在各けんの知事・各ちょうの長官に相當そうとうする。〔註二〕參照 ◯因襲ノ久キ ふるい習慣がつよい力を持つてゐて、却々なかなか改革の出來で きがたい意 ◯其ノ名 版籍はんせき奉還ほうかんを指す ◯之ヲ慨ス この傾向を遺憾いかんに思ふ ◯冗ヲ去リ 事務上の冗漫を去ること ◯政令多岐ノ憂 多岐た きは多方面の意。國民はこの急激の變化へんかを理解しない者が多く、萬機ばんき天皇つて親政しんせいせられる現狀げんじょうにありながら、今は知藩事ちはんじとなつたきゅう諸侯しょこうの命を絕對ぜったい的なものとしてゐるので、このおおせがあつた。

〔註一〕版籍奉還 德川とくがわ慶喜よしのぶ大政たいせい奉還ほうかん後、維新いしん大業たいぎょうようやちょに就き、きゅう幕府直轄ちょっかつの地及びきゅう幕臣ばくしん知行地ちぎょうちには府縣ふけんが設けられたが、諸侯しょこうの領土では依然いぜんとして藩主はんしゅ實權じけんを握り、王政おうせい復古ふっこじつあがらなかつた。の時にあたつて總裁局そうさいきょく顧問の木戸き ど孝允こういんは諸侯の土地人民を朝廷にかえたてまついだき、議定ぎじょう三條さんじょう實美さねとみ・同岩倉いらくら具視ともみき、又藩主はんしゅ毛利もうり敬親たかちか建言けんげんした。いで孝允こういんせつに賛成した大久保おおくぼ利通としみちはこれも藩主いた。孝允こういんは更に土佐と さ肥前ひぜんいて、遂に明治二年の正月にさつちょうの各藩主、島津しまづ忠義ただよし毛利もうり敬親たかちか山內やまのうち豐範とよのり鍋島なべしま直大なおひろ連署れんしょして土地人民を朝廷に奉還ほうかんすることを奏請そうせいし、他藩たはんこれならふものが多かつた。朝廷に於かせられては六月十七日にそれをゆるたまひ、未だ奏請そうせいしない者に還納かんのうを命じ、公卿く げ諸侯しょこうしょうはいして華族かぞくとし、島津しまづ忠義ただよし以下二百六十にんきゅう諸侯おのおの知藩事ちはんじとならしめた。世にこれを版籍はんせき奉還ほうかんといふ。

〔註二〕知藩事 版籍はんせき奉還ほうかんつて諸侯しょこう封土ほうどは全部朝廷にしたものの、その際に一時の應急おうきゅう策として取つた知藩事ちはんじきゅう諸侯を用ひ、舊領きゅうりょうにをらしめたため、中央集權しゅうけん有名ゆうめい無實むじつ狀態じょうたいとなつた。これを打破しておおいに中央集權しゅうけんじつげたのが廢藩はいはん置縣ちけんで、ここに始めて封建制ほうけんせい名實めいじつ共に崩潰ほうかいした。廢藩はいはん置縣ちけんの事は最初木戸・大久保、特に木戸き ど孝允こういんいたとつたへられてゐる。それにはづ政府に於いて强大きょうだいな內閣を組織し、その力で一きょに行ふ必要があつた。勿論もちろんその中心はさつちょうである。づ四年三月に薩長さっちょうどぱんから歩兵九大隊だいたい砲兵ほうへい中隊ちゅうたい約一まんの兵を東京にちょうして親兵しんぺいとし、同六月に現在參議さんぎ總辭職そうじしょくして、西郷・木戸があらた參議さんぎに任ぜられ、大久保は大藏おおくら大輔たいふとなり、のち肥前ひぜんをも聯盟れんめいうちに加へて、大隈おおくま重信しげのぶ板垣いたがき退助たいすけあらた參議さんぎし、三太政だじょう大臣だいじんもとに新內閣を組織した。明治の三けつとしての西郷威望いぼう木戸明智めいち・大久保の果斷かだんしょうされたのはこの時分からの事であつたらう。

 新內閣はここに一きょ廢藩はいはん置縣ちけん斷行だんこうと決し、七月十四日に天皇知藩事ちはんじ御前ごぜんされて本勅ほんちょくはっせられた。その結果、三七十二けん區劃くかくを定め、に知事を、けん縣令けんれいを置いて地方長官とし、從來じゅうらいぐんちょうそんはいして大小のわかち、世襲せしゅう又は公選こうせん庄屋しょうや名主なぬし年寄としよりに代つて官選かんせん區長くちょう戸長こちょうを置き、同時に藩選はんせん制度の集議員しゅうぎいん事實じじつ廢止はいしとなつた。

〔注意〕本問題に就いては、

(一)廢藩はいはん置縣ちけん毛利もうり元德もとのり島津しまづ忠義ただよし鍋島なべしま直大なおひろ山內やまのうち豐範とよのりニ下シたまヘル勅語ちょくご(明治四年七月十四日、岩倉公實記)(二)廢藩はいはん置縣ちけんニ付キ熊本・名古屋・德島とくしま鳥取ノ四はん知事ニ下シ給ヘル勅語(明治四年七月十四日、太政官日誌)(三)太政だじょう大臣三じょう實美さねとみニ政治ヲ委任スルノ勅語(明治五年五月二十二日、三條實美公年譜)

がある。

【大意謹述】おもふに、あらゆる舊弊きゅうへいを一新して、王政おうせい復古ふっこを見た今日こんにち、國內では國民の生命・財產を保護し、國外の諸國にたいしては平和に平等の交際をしようとすれば、どうしても天皇親政しんせいじつとが全く一致し、天下の號令權ごうれいけんはっする場所を朝廷に限らなければならない。ちんはこの目的のもとかつきゅう諸侯しょこうの土地・人民を奉還ほうかんしたいといふ奏上そうじょう聽許ちょうきょし、諸侯をはいしてあらた知藩事ちはんじを置き舊領きゅうりょうの長官たるべき事を命じた。それにもかかわらず、過去すう百年にわたつた封建制ほうけんせい弊害へいがい根强ねづよい習慣となり、力となつて、大政たいせいはあるも、內容のこれともなはない傾向がある。この狀態じょうたいつづけたならば、決して國民の生命・財產を安全に保護し、諸外國と對等たいとうの交際が出來るものではない。ちんはこの傾向をすこぶ遺憾いかんに思ふ。よって今、ちんは更に現在の制度を改革し、はんはいしてけんを置くことに決定した。これは今までの冗漫じょうまん國政こくせいを簡單なものに改め、王政おうせい復古ふっこが形式だけで內容のなかつた弊害へいがいを除き、號令權ごうれいけんが二重に出る心配のないやう致すためである。汝等なんじら諸臣しょしんは、ちんの意のあるところを了解せよ。

【備考】廃藩はいはん置縣ちけんといふことは、當時とうじ、最も困難な問題とされてゐた。その理由は、(一)政府の無力、(二)各藩主はんしゅうち因習いんしゅう的・保守的な考へをいだくものが多い事、(三)武士階級の始末に多くの障碍しょうがいともなふ事などである。れいせば、王政おうせい復古ふっこについて、最も貢獻こうけんした一人、薩州さっしゅう島津しまづ久光ひさみつの如きは廢藩はいはんの事を最も喜ばない一人だつた。この事は未だうれふるに足らぬとしても、政府の無力は、心腹しんぷくやまい同樣どうようの困難だつた。しか當時とうじさつちょうの結合は種々しゅじゅの事情のもとにゆるんでゐたので、島津久光西郷さいごう隆盛たかもりと共に薩州さっしゅうに引込んで容易に動かない。土佐の板垣いたがき退助たいすけまた東北平定後、土佐にかえつたまま、上京しなかつた。久光ひさみつ心事しんじは、すで分明わ かつてゐたが、西郷・板垣の心事しんじは不明である。のみならず、西郷については、いろいろの噂が續出ぞくしゅつして、「政府の處置しょちただすため、兵を率ゐて上京するかも知れぬ」といふ噂さへあつた。當時とうじ、西郷の人望は、大久保・木戸をしのぎ、その一きょどう時人じじんの注意するところとなつた上に、多數たすうの不平士族しぞくは、主としてのぞみを西郷にしょくしてゐたから、政府もここに考へ及び、何をいても、さつちょう兩侯りょうこう及び西郷を起用して、結合のいきおい鞏固きょうこにせねばならぬとした。それは三條・岩倉・木戸・大久保の協議決定したところである。

 そこで最初、木戸は長州ちょうしゅうへ、大久保は薩州さっしゅうかえつて、切に勸說かんぜいしたが、要領を得ない。今度は、岩倉が勅使ちょくしとなつて、木戸・大久保の二人をしたがへ、薩長さっちょう兩藩りょうはんおもむいて、天下の形勢をき、言葉をつくして、蹶起けっきうながしたのである。これには、も動いた。よっ毛利もうり敬親たかちかは病中といふので、その子、元德もとのりを上京せしめ、久光ひさみつ病氣びょうきで、西郷を東上とうじょうせしめることとなり、西郷の建言けんげんによつて、土佐の板垣を起用することに決定した。それ等の人々があいともなつて、入京にゅうきょうしたのは、明治四年二月の事である。

 當時とうじ、第一に必要なのは兵力であつたから、西郷・板垣等の同意を得て、さつちょうの三ぱんから親兵しんぺい徵集ちょうしゅうし、づ政府の威力を示した。ぎに當時とうじの政府に重きを加へるため、しきりに西郷にすすめて入閣にゅうかくせしめるまとめた。かうして六月から七月にかけて、內閣の更迭こうてつおこなひ、官制かんせい改革をおこなつた。

 この時は、主として木戸の案による事とし、薩・長・土の他に肥前ひぜんを加へ、この四はんから一人ずつ參議さんぎを出すことに決した。

 西郷隆盛(薩州)木戸孝允(長州)板垣退助(土州)大隈重信肥州) 

 この時、大久保はみずか抑遜よくそんして、大藏卿おおくらきょうとなり、參議さんぎうちに加はらなかつた。これによつて、すべてが圓滿えんまんに進行したのである。勿論もちろん、政治家としては、以上の四參議さんぎよりも、大久保が、實力じつりょく上、閱歷えつれき上、當然とうぜんすぐれてゐたけれども、西郷をすために參議さんぎにならなかつた。要するに、廢藩はいはん置縣ちけんの一大事を決行する前にあたり、大久保は、甘んじて、大藏卿おおくらきょうの地位にをることに滿足まんぞくしたのである。そこにれの國家こっか本位ほんい精神せいしんあらはれてゐたとへよう。