45 新律綱領頒布ノ勅語 明治天皇(第百二十二代)

新律しんりつ綱領こうりょう頒布はんぷ勅語ちょくご(明治三年十二月二十日 法規分類大全)

【謹譯】ちん刑部ぎょうぶみことのりシテ律書りっしょ改撰かいせんセシム。すなわ綱領こうりょうかん奏進そうしんス。ちん在廷ざいてい諸臣しょしんシ、もっ頒布はんぷゆるス。內外ないがい有司ゆうしこれ遵守じゅんしゅセヨ。

【字句謹解】◯刑部 刑部省ぎょうぶしょうのこと。當時とうじ太政官だじょうかんもとにあつた ◯律書 法律の書。〔註一〕參照 ◯綱領六卷 所謂いわゆる新律しんりつ綱領こうりょうなるもので、大體だいたいみん律書りっしょならうたものといはれてゐる ◯在廷諸臣 ちょうにある諸大官たいかんの意 ◯頒布ヲ允ス ひろつたへて實施じっしするのを許す ◯遵守 よく守ること。じゅんしたがつてそむかない意。

〔註一〕律書 明治初年の法令は斷片だんぺん的で整はず、三けん(立法・行政・司法)分立といふのは名のみでじつともなふなく、裁判所と行政ちょうとの區別くべつされてをらぬ場合さへあつた、裁判所が設置されても、それがない地方では、地方官が裁判をおこなつた。つ法規も最初は公事方くじがた御定書ごじょうがき應急おうきゅうの修正を加へて當面とうめん糊塗こ とする一方、新律しんりつ編纂へんさん著手ちゃくしゅして、明治三年、本勅ほんちょくにある如く新律しんりつ綱領こうりょうわかつた。六年には改定律例りつれい公布こうふし、十三年には刑法治罪ちざい法を改正し、十五年にこれ實施じっしした。この間にあつて江藤えとう新平しんぺい始終しじゅう、司法けん獨立どくりつ・裁判所の充實じゅうじつ專心せんしんした事は注目にあたいする。

〔注意〕本勅ほんちょく關係かんけいある詔勅しょうちょくとして明治初年に於いては、

(一)刑律けいりつ改撰かいせんスルノみことのり(明治二年九月、法規分類大全)(二)改定律例りつれい頒行はんこう上諭じょうゆ(明治六年五月十七日、歷朝詔勅錄)

などがある。

【大意謹述】ちん先般せんぱん刑部省ぎょうぶしょうみことのりして、我が刑法を改めて編纂へんさんすることを命じて置いた。それが今囘こんかい完成し、刑部省ぎょうぶしょうでは新律しんりつ綱領こうりょうと題し、全六かんにしてたてまつつたのである。ちん在朝ざいちょう諸臣しょしんとその內容を調査し、いよいよと認めたので今囘こんかいその實施じっしを許可することにした。內外百ぱん官吏かんりは、この新律しんりつ綱領こうりょうの內容をよく諒解りょうかいして守らなければならない。

【備考】新律しんりつ綱領こうりょうは、養老律ようろうりつ及び支那し な(唐・明・淸)のりつ・幕府のきゅう刑法などを對照たいしょう參酌さんしゃくして成るべくそのよろしきを採つて出來た。全部百九十二じょうから成り、正閏せいじゅん兩刑りょうけいを定めてゐる。正刑せいけいにははんじょうの五けいを設けた。それから閏刑じゅんけいには謹愼きんしん閉門へいもん禁錮きんこ邊成へんせい自裁じさいの五種があつて、これは官吏かんり華族かぞく士族しぞく僧侶そうりょの犯罪にのみ適用する事に定めてゐた。それから過誤か ご失錯しっさく行爲こういから出た犯罪及び老幼ろうよう婦女ふじょの犯罪については、贖罪しょくざいを許したのである。以前よりは進歩した內容を有したが、ただ條數じょうすうに乏しく、法規も時勢じせいともなはぬところがあつた。

 以上の缺點けってんを補ふために新律しんりつ綱領こうりょういで出たのが、明治六年六月に發布はっぷされた改定律令りつりょうである。これ矢張やはり司法卿しほうきょう江藤えとう新平しんぺいの苦心によつて編纂へんさんせられた。それには、歐米おうべい法制の長所を參酌さんしゃくし、以前定めた士族しぞく閏刑じゅんけいこれ禁錮きんこに改め、梟首さらしくびをやめて斬罪ざんざいとし、絞首こうしゅ終身しゅうしん懲役ちょうえきに改めた。在來ざいらい笞杖ちじょうしょしたものを懲役ちょうえきにかへ、持凶器じきょうき强盜ごうとう・放火犯・殺人罪でなければ死刑にしょしないこととした。それから江藤は、代言だいげん代言人だいげんにん規則・身代限しんだいかぎり處分しょぶん法・監獄則かんごくそくをも作つた。ぎに御雇おやとい佛人ふつじんブスケ・ヂブスケらを顧問として、福岡ふくおか孝弟こうてい玉乃たまの世履せ りを主任とし、民法みんぽう草案そうあん民法證書しょうしょ・訴訟法・治罪ちざい刑法その他の諸規則をへんしたのである。かうした日本法制のあけぼのた。それについて、江藤の功勞こうろうが最も多かつたが、佐賀のらんあたり、みずかした刑律けいりつの最初の犠牲となつたのは同情すべきである。

 江藤の後をいで、法制上につくしたのは、司法卿しほうきょう大木おおき喬任たかとうで、フランス人ボアソナアドを任用して、刑法を起草きそうせしめ、明治十三年、太政官だじょうかん布告ふこく第三十六ごうを以て公布こうふした。それが今日こんにちきゅう刑法と呼ばれるもので、主としてフランスにならつたのである。

 法律專攻せんこうの士のいふところによれば、明治の法律が、舊幕きゅうばく時代のそれとことなるところは、(一)國民こくみんの自由を尊重した事、(二)國民の權利けんりを認識した事にあるとせられる。古來こらい日本では、自由そく放縱ほうじゅうかいし、權利けんりそく利權りけん追求ついきゅうと見なして、いずれもこれしりぞけた。ところが明治時代には、歐米おうべい流の法律を輸入ゆにゅうした結果、權利けんり及び自由も、おのづからこれともなつてきたり、司法當局とおうきょくまた、それを重んずる上に、一つの大きい特色があるとした。明治五年八月の司法省たっしに「聽訟ちょうそは人民の權利けんりべしむるめ」とある。また同年十月の司法省たっしに、「娼妓しょうぎ藝妓げいぎは人身の權利けんりを失ふ者」とある。在來ざいらい勸善かんぜん懲惡ちょうあく流の法律、專制せんせい主義の法律とくらべて、どの程度まで進歩したかは、おのづから判明しよう。いずれにしても、日本の法律は今後、日本獨自どくじの立場から創建されねばなるまい。

 それには、きに、明治天皇おおせられたやうに、寬恕かんじょを以て、法の根本精神せいしんとし、やがては「無刑むけい」の理想に到達すべき用意を必要とするであらう。その適正をるについては、明治天皇御敎示ごきょうじの如く、「いにしえかんがヘ、今ヲあきらかニス」るといふことが、必要である。今をあきらかにするとは、現實げんじつの認識を深めて、在來ざいらいの西洋法律模寫もしゃをやめ、日本の民族性・傳統でんとう性にそくした法制の建設が、當面とうめん切要せつようびてくる。權利けんりとか、自由とかいふことも、武斷ぶだん專制せんせいの法律をいてゐた舊幕きゅうばく時代の法律にたいして、無論革新の上から必要であつたが、かうした西洋流の譯語やくごをもつと日本的な言葉に直すこともまた可能であらねばならない。言ひかへると、過去の法律が明治につて、支那し な法系ほうけいだっした如く、昭和の時代は、日本法律が、西洋法系からだっしなくてはならない。西洋には、寬恕かんじょ精神せいしんが極めて乏しい。これはことに日本人特有の思想・精神せいしんである以上、日本特有の法律が完成されねばならぬはずである。明治天皇おおせをかえりたてまつつて、そぞろに以上の如き感想を浮べたのである。