43 刑律ヲ改撰セシメ給ヘル時ノ詔 明治天皇(第百二十二代)

刑律けいりつ改撰かいせんセシメたまヘルときみことのり(明治二年九月 法規分類大全)

【謹譯】わが大八洲おおやしま國體こくたい創立そうりつスル、邃古すいこおいろんセス。神武じんむ天皇てんのう以降いこう二千ねん寬恕かんじょまつりごともっしもひきヰ、忠厚ちゅうこうぞくもっかみほうス。大寶たいほうおよンテ唐令とうれい折衷せっちゅうストいえどモ、其律そのりつほどこスニいたっテハつね定律ていりつヨリゆるやかニス。其間そのあいだまつりごと汙隆おりゅうとき治亂ちらんナキニあらサルモ、大率おおむね光被こうびとく外蕃がいばんおよフ。保元ほげん以降いこう乾綱けんこうひもキ、武士ぶ しけんもっぱラニシ、法律ほうりつもっまつりごとシ、刀鋸とうきょもっしもひきユ。寬恕かんじょ忠厚ちゅうこうふうついはらフ。いま大政たいせい更始こうしよろしいにしえかんがへ、いまあきらかニシ、寬恕かんじょまつりごとしたがツテ忠厚ちゅうこうぞくふくシ、萬民ばんみんところ國威こくいはじめふるフヘシ。頃者このごろ刑部ぎょうぶ新律しんりつ撰定せんていスルときよっ茲旨このむねたいシ、八ぎゃく故殺こさつ强盜ごうとう放火ほうかとうほか異常法いじょうほうおかスニあらサルヨリハ、大抵たいてい寬恕かんじょもっ以下い かばつしょセシメントスそもそけい無刑むけいスルニリ。商議しょうぎシテもっ上聞じょうぶんセヨ。

【字句謹解】◯大八洲 日本國にっぽんこくの事 ◯𨗉古 大昔の意、ここでは神代かみよの事 ◯寬恕 心ひろく思ひやる事 ◯忠厚 まめやかに手厚い事 ◯大寶 文武もんむ天皇治世ちせい ◯唐令 とうの法律。〔註一〕參照 ◯ 犯罪者を罰するおきて ◯汙隆 ふるはぬこととおおいふるふこと ◯光被 太陽の光の如く到らぬくまもなき君主の慈仁じにんの及ぶ事 ◯外蕃 異國いこくの人々 ◯保元 後白河ごしらかわ天皇の時代で保元ほげんらんが起つた。〔註二〕參照 ◯乾綱 君主の大權たいけん王綱おうこうといふに同じ ◯刀鋸 とう肉刑にくけいに用ひ、きょあしきる刑に用ふるてんじて刑罰を意味す ◯更始 改めはじめる ◯稽へ くらべ考へる ◯刑部 刑部省ぎょうぶしょうの事 ◯八虐 君父くんぷしいする罪その他八種の大罪だいざい旣述きじゅつしたから省略する ◯故殺 故意に人を殺す事 ◯異常法 常法じょうほうを以てりっすることが出來ぬ重い刑律けいりつ ◯ 流罪るざい ◯無刑 全く刑律けいりつをなくする事 ◯商議 相談する義 ◯上聞 陛下の御耳おみみに達する。

〔註一〕唐令 大寶令たいほうりょう文武もんむ天皇四年に刑部おさかべ親王しんのう藤原ふじわら不比等ふ ひ とらにみことのりして、選定せしめ、大寶たいほう元年に成つた。りつかんりょう十一かんある。それらは支那し な法制を參酌さんしゃくし、日本の考へをも加へて、これ折衷せっちゅうして作つたのであつた。專門家せんもんかせつによると、大寶たいほう律令りつりょうは今つたはらず、元正げんしょう天皇養老ようろう二年に右の律令りつりょうに修正を加へ、おのおのかんとした養老ようろう律令りつりょうつたへられてゐるのだといふ。村田むらた春海はるみの如きは、これを主張する一人である。

〔註二〕保元 本詔ほんしょうに「保元ほげん以降、乾綱けんこうひもキ」云々うんぬんおおせられてゐる。これについて、藤田ふじた東湖とうこは、『弘道館こうどうかん記述義きじゅつぎ』のうちで、「きょう彜倫いりんより大なるはなく、名分めいぶんより先なるはなし。二者あきらかならざれば、變故へんこしゅつ、天下のわざわい言ふべからざるものあり。保元ほげん以降の事以てかんがみるべし。の略を論ぜん。鳥羽帝とばてい崇德帝すとくていに於かせたまへる、藤原ふじわら忠實ただざね忠通ただみちに於ける、みな父子ふ しなり。しかあいかなはず。崇德帝すとくてい後白河帝ごしらかわていに於かせ給へる、忠通ただみち賴長よりながに於ける、みな兄弟けいていなり。しかること仇讐きゅうしゅうの如し。平淸盛たいらのきよもりの如きは、叔父お じ及び從弟じゅうてい四人を殺し、源義朝みなもとよしともの父をしいし、又の弟九人をがいす。殘忍ざんにんすではなはだし。しかも特に朝廷これつみせざるのみならず、すなわれをしてあいそこなはしむ」とたんじた。かうして大義たいぎ名分めいぶんみだれ、人倫じんりん不振ふしんおちいつたことが、やがて武士をして機會きかいじょうぜしめ、政權せいけん掌握しょうあくせしめた原因となつた。保元ほげんらんから平治へいじらんなどに及ぶと、以上の事相じそう歷々ありあり分明わ かる。

【大意謹述】遠い神代じんだいの事はしばらく。わが日本の國體こくたいを打建てた神武じんむ天皇治世ちせい以來いらいここに二千年の間、皇室は心ひろく、思ひやりの深い政治をもととして、國民こくみんに臨み、國民はかみたいして、まめやかに手厚い心でつかへた。文武もんむ天皇の時、法令を整へるについて、支那し な(唐代)の法律・制度を參酌さんしゃくし、そのわれよろしき部分を採つて、彼是かれこれ具合よく折衷せっちゅうしたが、罪人に向つて、刑律けいりつを適用するとなると、定められた法文ほうぶんのそれよりは、はるかに寬大かんだい心持こころもちを加へたのである。

 その間、政治上、さかんなときと、衰へたときがあつて、一らん、常なかつたこともあるが、大體だいたいにおいて、皇化こうかが太陽の如くあまねく、外國人の上にも及んだ。ところが、保元ほげん以來いらい、世の中がみだれ、上流社會しゃかいでも、人倫じんりん破壞はかいするやうなことが度々つづいたので、皇室の威勢いせいはそれと共に衰へた。これに取つて代つたのは武士階級で、彼等の首領しゅりょうは、皇室をしのいで、法律づくめの政治をつづけ、手きびしい刑罰を以て民衆を壓服あっぷくしたのである。かうなると、心ひろく、思ひやりの深い政治は衰へ、まめやかに、手厚くかみつかへる臣民しんみん美風びふうもなくなつた。

 以上の如き、なげかはしい時代が永くつづいたが、今や大政たいせいを一新して、武門ぶもん政治をやめ、再び昔の美風を恢復かいふくすべきときた。よろしく、法制上、昔の有樣ありさ參考さんこうとし、現在の世の有樣ありさあきらかにして、寬大かんだいの政治をほどこすと同時に忠厚ちゅうこうの美風を復興すべきである。

 かくすることにつて、一般民衆は、各自めいめい、心をやすんじ、國威こくいまた始めてふるおこすことが出來る。近頃、聞く所によると、刑部省ぎょうぶしょうで、時勢じせいに適した新しい法律を撰定せんていする事になつてゐるが、それについて、心すべきは、以上のてんにある。かの八種の大罪だいざい故殺こさつ强盜ごうとう・放火などの大きい犯罪にれたものでない限り、大抵たいてい寬大かんだい處置しょちし、流刑るけい以下の罰でませるにしたい。一たい、刑法の目的は、多くの罪人を作つて、これを罰するにあるのではなく、天下の罪人をすつかりなくするため、懲戒ちょうかいの意で、これを行使こうししてるにすぎない。この精神せいしん眼目がんもくだ。當局とうきょくの役人が新しい法律を撰定せんていするについては十分、相談を重ね、ばん遺漏いろうなきを確めたのちこれちんの耳に入れよ。

【備考】明治の法制は、舊來きゅうらいのにくらべて、全く面目めんもくを改めたのである。その最初の徑路けいろについて略述りゃくじゅつすると、明治元年十月、新律しんりつが出來る迄はきゅう幕府の刑法によつて處斷しょだんし、し疑問のてんがある場合には、上裁じょうさいあおがせる事とした。それから本詔ほんしょうおおいだされた趣旨を根本として、刑部省ぎょうぶしょう刑法典けいほうてん編纂へんさんを開始した。それが本詔ほんしょう精神せいしんにふさはしかつたかといへば、必ずしも左樣そ うでない。むし中古ちゅうこの法制を復活せしめた部分が多かつた。當時とうじ、西洋の法律內容を示したものとしては、明治元年に出た『泰西たいせい國法論こくほうろん』(津田眞一郞譯述)があつたばかりだつた。著者はオランダのライデン大學だいがくで、ヒツセリングの講義を聞き、その指導によつた法學ほうがく上の知識を活用して、本書をやくしたのである。その內容はたいようの二つにわかち、たい列國れっこく公法こうほう國法こくほう・刑法・私法しほうようは通信・禮式れいしき有司ゆうし法論ほうろん治罪ちざい法・訴訟そしょう法などである。が、明治二年から著手ちゃくしゅされた刑律けいりつは、復古ふっこ的な分子が多く、新代しんだい時勢じせい適應てきおうしてゆくべき用意におろそかな傾きがあつたのは、當時とうじ萬事ばんじ多忙の際とてむをない事情があまりにも多かつた結果であつたらう。