39 公議所ヲ開イテ國家治安ノ基ヲ建ツルノ勅語 明治天皇(第百二十二代)

公議所こうぎしょひらイテ國家こっか治安ちあんもといツルノ勅語ちょくご(明治二年二月二十五日 太政官日誌)

【謹譯】ちんまさ東臨とうりん公卿こうけい群牧ぐんぼく會合かいごうシ、ひろ衆議しゅうぎ諮詢しじゅんシ、國家こっか治安ちあん大基たいきたてントス。そもそ制度せいど律令りつりょうハ、政治せいじもと億兆おくちょうたよルトコロ、もっかるがるシクさだムヘカラス。いま公議所こうぎしょ法則ほうそくほぼすでさだマルトそうス。よろシクすみやか開局かいきょくシ、局中きょくちゅう禮法れいほうとうとヒ、協和きょうわむねトシ、こころ公平こうへいそんシ、精確せいかくシ、もっぱ皇祖こうそ遺典いてんもとづキ、人情にんじょう時勢じせいよろしきてきシ、先後せんご緩急かんきゅうぶんつまびらかニシ、順次じゅんじ細議さいぎもっぶんセヨ。ちんしたシクこれ裁決さいけつセン。

【字句謹解】◯公議所 諸藩しょはん及び各學校がっこうから有能の士を選拔せんばつし、政府委員と共に國政こくせいせしめた役所で、現在の議會ぎかいの前身ともへる組織であつた。〔註一〕參照 ◯群牧 諸侯しょこうのこと。當時とうじは未だ江戸時代からつづいた諸侯しょこうが存在した ◯諮詢 論議して決定する ◯大基 根本の意 ◯億兆 國民一般のこと ◯協和ヲ旨トシ 出來る限り相互に議論の一致を目的とすること ◯議ヲ精確ニ期シ 論議の問題を微細なてんまで論じ合つて正しくする ◯皇祖ノ遺典ニ基キ 過去に於ける皇室の御先祖ごせんぞのこされた法制を根本とする ◯人情時勢ノ宜ニ適シ 時勢じせいの進展、人情の變化へんかなどを考慮して最も中和を得た方法を採用すること ◯先後緩急ノ分ヲ審ニシ 事の性質上、どうしてもただちに著手ちゃくしゅしなければならないものと、それ程にしなくともいいものとを細かく區別くべつして間違はないやうにする ◯順次ニ細議シ 決定するであらう。最後の決定けんかみにんにあるのを明らかにされたのである。

〔註一〕公議所 きに明治元年三月、五箇條かじょう御誓文ごせいもんがあり、いで同年うるう四月政體書せいたいしょ發布はっぷして政權せいけんを議制・行政・司法の三けんわかち、太政官だじょうかんをしてこれ統轄とうかつさせた。更に十月、藩政はんせい職制しょくせい發布はっぷし、地方官を執政しっせい參政さんせい・公議人の三者に分ち、執政しっせい朝旨ちょうしほうじて、藩主はんしゅ輔佐ほ さし、參政さんせいはそのもとにゐて、一切の政務をつかさどり、公議人は朝命ちょうめい奉承ほうしょうし、中央政府に向つて一ぱんを代表した。この制度のもとに政府は十二月公議所を開き、各藩の執政・參政のうちから一人づつの公議人を選擧せんきょする制を定めた。彼等は政府委員と協力し、國政こくせいに就て發言權はつげんけんを有する事を許された。明治二年三月七日に二百二十七人の公議人を集めて議事を開いたのが公議所の最初で同所の決議は天皇みずか御裁決ごさいけつになつた。當時とうじ論ぜられた議案は切腹せっぷくの禁止・帶刀たいとうの禁止・差別的賤稱せんしょう廢止はいし・人身賣買ばいばいの禁止などであつたが、文明開化派と保守派とが相互に對立たいりつしてゆずらず、政府の改革案は多數たすうの同意をるに至らないので、大久保利通の如きは公議所廢止はいし論を提唱するに至つた。公議所は組織形體けいたいからいつても一部の人士じんしに限定された氣味き みがあり、民間憂國ゆうこくの熱情を上達され難い傾きもあつた。その人々が次第に不穩ふおんな動きを示すやうになつたので、政府は同年三月十八日に待招局たいしょうきょくを設け、一般大衆の建白けんぱくを受けれることにしたのである。思ふに、明治政府の輿論よろん尊重は各種の形態であらはれ、その制度は目まぐるしい程變化へんかした。政府は太政官だじょうかんを復興させると共に英才徵貢ちょうこうの制度を設け、徵士ちょうしあるい貢士こうしとし、のちには公議所待招局たいしょうきょくを新設した。更に太政官內に議政官ぎせいかんを設け、そのもとに上下二局を置き、議定ぎじょう參與さんよ上局じょうきょく議員に貢士こうし下局かきょく議員にしたこともあり、二年七月には新たに集議院しゅうぎいんおこして待招局たいしょうきょく(或は待詔局)と合はせ、府藩縣ふはんけん大參事だいさんじ中から議員を選んだ。四月七日には左院さいんが成立し、集議院しゅうぎいん左院さいんに合併されたかと思ふと、六年六月には廢止はいしされてしまつた。こののち國會こっかい開設に至るまで議政ぎせいしばらく國民の手を離れたのである。なほ本勅ほんちょくに就いて『政治はじめニ下シたまヘル勅語ちょくご』(明治二年正月四日、太政官日誌)を參照さんしょうされたい。

【大意謹述】ちんは今、東京遷都せんとを終へ、ここに公卿く げ諸侯しょこうがっして各方面からの意見を論じ合ひこれ裁決さいけつし、それを中心に我が國家平定・人心安堵あんどの根本策を建てようと考へる。ただし制度・法律は實際じっさい政治の運用の基本であり、國民一般が信賴しんらいする性質を持つてゐるから、輕々かるがるしい態度でこれを決定してはならない。今囘こんかい公議所こうぎしょかんする規定が大體だいたい完成したむねそうしてた。この規定におうじた方法で一刻も早く開會かいかいし、會期中かいきちゅうは特に禮儀れいを重んじ、論旨ろんしの一致を主とし、萬事ばんじ公平に、議論は精確せいかくに、建てる法規は我が祖先そせんのこされた律令りつりょうに重要てんを置き、しかも現在の人情にんじょう時勢じせいとにがっして中和ちゅうわを得て、急場にしなければならないものといなとの區別くべつをよくり、一定の順序で細大さいだいらさず論議したい。その結果をまとめてちんそうするやうとりはからふがからう。ちんはそれにたいしてみずから最後の斷案だんあんを下すであらう。

【備考】公議所こうぎしょの設置は、五箇條かじょう御誓文ごせいもん中にある如く、「上下しょうかこころを一にしてさかん經綸けいりんおこなふべし」とある精神せいしんを基本とし、天地の公道こうどうにより、「ひろ會議かいぎおこし、萬機ばんき公論こうろんけっすべし」といふことを實現じつげんされようとしたものと思はれる。そこに淸新せいしん興國こうこく氣象きしょう欝勃うつぼつたる維新いしん精神せいしんが動いてゐる。確かに一代の盛事せいじだ。幕府の時には武斷ぶだん專制せんせい的で、上下しょうかこころを一にすることなく、ひろ會議かいぎおこすこともなかつた。したがつて、天地の公道こうどうによらず、一切の政治を公論こうろんによつて決するところまでゆかなかつたのである。のみならず、人材拔擢ばってきといふことも、却々なかなかむづかしく、いろいろの格式・法令・因習いんしゅうなどのために、たとひ、人材があつてもめしされることがほとんどない。幕末多難たなんの時、少數しょうすうの人物を擢用てきようしたくらいにすぎない。しかもそれにたいして、左程さほど、よき地位をあたへてをらぬ。ここ沈滯ちんたいがあり、陰欝いんうつ空氣くうきがあつた。

 左樣そ うした行詰ゆきづまりを打破したのは、明治維新だ。公議所の設置により、四方から人材を集め、さかんに經綸けいりん吐露と ろせしめる。しかもそれは、或程度あるていどまでは身分・格式などに拘泥こうでいしないのであるから、幕末政治の不愉快極まる空氣くうきなか消散しょうさんしたとへよう。そこに淸新せいしん潑剌はつらつおもむきあふれてゐた。勿論もちろん當時とうじは、何事も理想的・空想的に傾き、實地じっちとの調和をく傾向が多かつたから、公議所の如きも豫定よていしただけ效果こうかおさめ得なかつた。

 それに公議所おさめられた人材には、ほ限りがあつて、十分、公平といふわけにかぬ。そのために、民間不平のを生じ、待詔局たいしょうきょくを設けて、やつと不平のをなだめるとつたやうな具合だつた。よし、左樣そ うであらうとも、公議所の設置は確かに天下の耳目じもくを一新したにちがひない。昭和の今日こんにちは、公議所の設置もなく、有力な人材は、多くにゐる。これ昭和政治の行詰ゆきづまれる一大原因だ。

 今日こんにち、英雄待望のこえが高く、人材拂底ふっていかんがあるのは、何故なにゆえか。要するに、社會しゃかい機構が固定し、法制があまりに完備して、草澤そうたくの英雄が起ちあがるべき機會きかいほとんどないからだ。昭和時代に英雄がをらぬのではない。人材が乏しいのではない。雄邦ゆうほう日本にっぽんの飛躍を要し、一大改革を要する今、無名の英雄が到るところにゐる。世に知られない人材が滿滿ちてゐる。けれども社會しゃかい機構があまりにつて、出るに出られぬ束縛があるのだ。また文官ぶんかん任用令にんようれいその他、規則づくめに縛られて頭角とうかくもたげるべき餘地よ ちがないのだ。したがつて英雄なしとは輕々けいけいだんがたい。人物拂底ふっていともひ切れない。しんに各方面の有力な具眼ぐがんが、草澤そうたくの英雄をして崛起くっきせしめるやう、道を開くならば、どしどし出てくるかも知れない。また政府當局とうきょく豁大かつだいな度量で人材拔擢ばってきを思ひ切りおこなふなら、立派な人物が一あらはれよう。今にして公議所の再現を思ふこと、まさに切なるものがある。