38 毛利敬親ヲ徵シ給ヘル勅語 明治天皇(第百二十二代)

毛利もうり敬親たかちかちょうたまヘル勅語ちょくご(明治二年二月 法規分類大全)

【謹譯】天下てんか大義たいぎあきらかニシ、朝廷ちょうてい體裁ていさいただシ、爭亂そうらんはっシテ、せいかえスハ、なんじ先臣せんしんぞうじゅ遺志い しケ、國論こくろんさだ薩藩さっぱんとも積年せきねん勤王きんのういたところこれヨル。自今じこん向後こうご社稷しゃしょく長計ちょうけいまたまさなんじ兩藩りょうはん股肱ここうトシテつとメヘキニアリ。およ國體こくたいただシ、强暴きょうぼうそなヘ、公義こうぎテ、民安みんあんおもんばかリ、獨立どくりつ不羈ふ きもといとう事件じけんこと汝等なんじらフテ、もっほどこサントス。すみやか上京じょうきょうシ、ちんにんたすケテもっなが衆庶しゅうしょとも天祿てんろくたもタシメンことはかレ。よろし此意このい奉體ほうたいセヨ。

【字句謹解】◯大義 君國くんこくたいする臣民しんみん節義せつぎ ◯爭亂ヲ撥シテ正ニ反ス 撥亂はつらん反正はんせいの事、すなわち世のみだれた有樣ありさ取鎭とりしずめて元の正しい平和狀態じょうたいにかへす義 ◯先臣 ぞうじゅ毛利もうり元就もとなりの事。〔註一〕參照 ◯社稷 國家こっかの意 ◯長計 遠大えんだい計策けいさく ◯股肱 最もたよりとする臣下しんか ◯國體 國家成立の狀態じょうたい精神せいしんひらたくいへば、國柄くにがらの事、國體こくたいには、貴族國體こくたい(Aristocracy)・共和國體こくたいもあるが、日本は君主くんしゅ國體こくたいである ◯民安 國民生活の安全 ◯獨立不羈 屈從くつじゅう依附い ふせずして、制御せいぎょされないこと ◯衆庶 一般臣民しんみん ◯天祿 天よりくださいわひ。

〔註一〕先臣贈從三位 毛利もうり元就もとなりの事で、元就もとなりは、明治二年二月、明治天皇から勅語ちょくごたまはり、「ぞうじゅ大江元就おおえのもとなり綱常こうじょう紊亂ぶんらんの世にあたり、ひと名分めいぶんあきらかにし、大義たいぎげ、兇賊きょうぞく討伐とうばつし、貢獻こうけんてんおこなひ、朝儀ちょうぎ闕乏けつぼうたすく。その報國ほうこく勤王きんのうちゅう追感ついかんし、豐榮とよさか神社じんじゃごう宣下せんげす。永世えいせい祭祀さいしすべし」といふ優渥ゆうあくおおせをこうむつた。元就もとなり安藝あ きの人、弘元ひろもとの第三子である。初め尼子あまこぞくして、勇名ゆうめいあらはし、度々、大內おおうち氏の兵を破つた。のち、大內氏と提携、天文てんもん二十年、大內おおうち義隆よしたかが、そのおみすえ晴賢はるかたしいせられたとき、義軍ぎぐんおこし、同二十二年晴賢はるかたちゅうした。爾來じらい、山陽方面に重きをし、王事おうじに努め、永祿えいろく三年、千ごくけんじて、正親町おおぎまち天皇御卽位ごそくいれいした。そのこうにより、朝廷から、大膳大夫だいぜんのたいふさずけられたのである。元龜げんき二年卒去そっきょ

〔注意〕本勅ほんちょくは、明治二年二月十一日、同じく島津しまづ久光ひさみつにもたまわつた、ぼ同文である。すなわち朝廷では毛利もうり島津しまづ藩主はんしゅされたのであつた。これより先、敬親たかちか明治元年六月にも、明治天皇から優渥ゆうあく御諚ごじょうたまわり、その功勞こうろうを表彰せられた。

【大意謹述】在來ざいらい輕視けいしされちだつた天下の臣節しんせつ臣道しんどうあきらかにし、つ幕府政治のため損ぜられてゐた朝廷の體裁ていさいを正しうする事及び世のみだれた姿を取鎭とりしずめて、元の正しい姿にかえすのは、却々なかなかむづかしい事である。なんじ敬親たかちかなんじ祖先そせん毛利もうり元就もとなり勤王きんのうこころざしいで薩藩さっぱんと提携し、紛亂ふんらんした國論こくろんを統一して、右に述べた如き王政おうせい復古ふっこ實現じつげんしたのは、なんじらの努力にる所が多い。今後新政府の國政こくせい上に於ける遠大えんだい計畫けいかくまたちん股肱ここうたるなんじ長薩ちょうさつ兩藩主りょうはんしゅ進言しんげんたねばならないのである。

 そうじて我が國體こくたいの姿を正しく發揚はつようして、勤王きんのう精神せいしんそむ不逞ふていに備へること、また公明こうめいの道をしつかり基礎けて、民衆生活の安全を計り、新政府の態度の上で、何ら外部から束縛されぬやうする事、以上は共に目下もっか必要事ひつようじであるが、それらは、一に汝等なんじらの意見をちょうして、實現じつげんしたいと思ふ。よっすみやかに上京して、ちんを助け、永く國民と共に、天の神々から受けた幸福こうふく保全するやう十分考慮してほしい。なんじらは、以上の旨を奉體ほうたいして、一ばい奉公ほうこうせ。

【備考】當時とうじ明治天皇薩長さっちょう藩主はんしゅを特にされたのは、明治政府創立後、その形體けいたいは出來ても基礎が固らず、國策こくさく經綸けいりんを定むる必要が目睫もくしょうの間に迫つてゐたからである。『明治政史せいし』(指原安三著)には、それらについて略記してゐる。つまり、新政府は、差當さしあたり、相當そうとうの兵力・財力を備へねばならぬから、いきお勤王心きんのうしんに厚くして、相當そうとう實力じつりょくを有した薩長さっちょう二藩主に期待せざるを得ない事情にあつた。『明治政史』に勅使ちょくし下向げこうの事を記して、「二月十一日、勅使ちょくし(萬里小路通房)山口にいたる。毛利もうり敬親たかちか迎謁げいえつす。是日このひ勅書ちょくしょさずく。同十三日、勅使ちょくし柳原前光鹿兒島かごしまちゃくす。島津しまづ久光ひさみつやまいつとめ、港口こうこうに迎へ、島津しまづ忠義ただよし先導して本城ほんじょうたてまつる」とある。兩藩主りょうはんしゅ本勅ほんちょくはいして感激恐懼きょうくし、奉公ほうこう精神せいしんを一ばい發揮はっきしたのは申す迄もない。