36 江戸ヲ東京ト改稱スルノ勅語 明治天皇(第百二十二代)

江戸え ど東京とうきょう改稱かいしょうスルノ勅語ちょくご明治元年七月十八日 太政官日誌)

【謹譯】ちんいま萬機ばんき親裁しんさいシ、億兆おくちょう綏撫すいぶス。江戸え ど東國とうごくだい一ノ大鎭だいちん四方しほう輻湊ふくそうよろシク親臨しんりんもっまつりごとルヘシ。よっ自今じこん江戸え どしょうシテ東京とうきょうトセン。これちん海內かいだい東西とうざい同視どうしスル所以ゆえんナリ。衆庶しゅうしょたいセヨ。

【字句謹解】◯東京 京都を西京さいきょうしょうしたにたいして、江戸を東京と改稱かいしょうせられた。〔註一〕參照 ◯萬機ヲ親裁シ 一切の政治を天皇みずか處理しょりあそばされる意。王政おうせい復古ふっこじつを示したもうたのである ◯億兆ヲ綏撫ス 億兆おくちょうは日本國民一般の事、綏撫すいぶは愛し治める意。すなわち國民全體ぜんたいを統治されることになる ◯大鎭 大都會だいとかいの意 ◯四方輻湊ノ地 四方から船舶せんぱく出入しゅつにゅうする土地のことで、この場合經濟けいざい・交通上の中心地の意。今東京遷都せんとつて更に政治上の中心地となつたのである ◯海內一家 天下中をすべ一家て、國民が家族の一員として天皇奉戴ほうたいする ◯東西同視 東西の人々を同一にの間に區別くべつを立てない意 ◯衆庶 國民全部を指された御詞おことばである ◯此ノ意ヲ體セヨ ちんがかくする理由を十分に理解してほしい。

〔註一〕東京 東京遷都せんとと決定する以前に、明治元年正月、時の參與さんよ大久保おおくぼ利通としみちは大阪遷都せんと議奏ぎそうしたが一たん嘉納かのうせられたけれども行はれなかつた。大久保は中古ちゅうこ以來いらい天皇が皇居にのみこもつてられて、士民しみんとの接觸せっしょくから遠ざかり、上下隔絕かくぜつした弊風へいふうを一せんすべく、萬事ばんじ簡便かんべんむねをして君道くんどうを行ひ、天下の耳目じもくを一新されるやう希望した。この見地から遷都せんとを唱へ、の地を大阪とした。それは海陸かいりく要衝ようしょうあたり、交通便利だからであつた。やがて德川とくがわ慶喜よしのぶの江戸開城かいじょうに及び、明治元年七月に江戸を東京と改め、九月に車駕しゃがは京都をはっし、翌十月に東京に著御ちゃくぎょされ、江戸城を皇居と改めて京城とうきょうじょうしょうせられた。十二月に一度京都に還幸こうこうあり、明治二年三月、再び東京に行幸ぎょうこうされて永くこの地にとどまられたのである。桓武かんむ天皇が平安遷都せんと以來いらい、一千七十ねんであつた。江戸城を皇居とすべきことを唱へたものに仙臺藩せんだいはん家老かろう遠藤えんどうぶんろうがある。

【大意謹述】ちんは現在、王政おうせい復古ふっこじつを致して、一切の國政こくせいみずかり、國民を統治してゐる。かえりみるに江戸は東國とうごくに於ける最大の都會とかいであり、四方の車駕しゃが絕間たえまなく出入しゅつにゅうする經濟けいざい・交通の中心地で、ちんしたしく臨みて國政こくせいる上に、これ以上好都合の土地はない。右の理由から今後江戸を東京と改稱かいしょうする。ちんは天下を一家したしむつみ合ひ、東西を共に等しく撫愛ぶあいする心から、かくしたので、國民のすべてはちんの意をよく了解してほしい。

【備考】當時とうじ公卿く げ堂上どうじょうを始め、京都市民は江戸へ遷都せんとさるる事に極力反對はんたいした。けれども日本の民心みんしんを統一し、東北方面に皇威こういを及ぼすためには、江戸へ都をうつすことの必要が差迫さしせまつたのである。そこで、一切の反對はんたいを押切つて江戸へ都をうつして、東京と改稱かいしょうされ、明治四年、京都の留守居る す いかん廢止はいしせられた。ここに至つて、東京は正確に帝都ていととなつたのである。

 ついで大久保おおくぼ利通としみちの『遷都論せんとろん』について一げんする。れは明治元年正月二十五日、遷都せんとたてまつつたが、それに先立ち、總裁そうさい總裁そうさい熾仁たるひと親王しんのうにその要旨ようしを申上げた。それによると、「車駕しゃがまさすみやかに八幡やはたみゆきし、ひつを大阪に移され、そこを行在所あんざいしょとして、外國の交際・海陸かいりくの軍備を統裁とうさいされるがよろしいかとぞんじます」といふにあつた。その重要てんの如くである。

(前略)更始こうししん王政おうせい復古ふっこ今日こんにちあたり、本朝ほんちょう聖時せいじのっとらせ、外國の良政りょうせいあっすべき基本を開くは遷都せんと大英斷だいえいだんるべし。すなわこれを一新の機會きかいとして、萬事ばんじ簡易かんい輕便けいべんもととし、數種すうしゅ大弊たいへいき、民の父母たる天職てんしょく君道くんどう履行りこうせられ、命令一たびくだり、天下悚動しょうどうするの大基礎を確立し、皇威こうい海外かいがいかがやかし、萬國ばんこく對峙たいじせられんこと、じつに急務中の最も急務なり。遷都せんとの地は浪華なにわくものなし。しばら行在あんざいを定められ、治安のたいを一ゑ、おおいに成すことあるべし。外國交際の道、富國ふこく强兵きょうへいすべ攻守こうしゅ大權たいけんを取ること、海陸かいりくぐんおこす事に於て、地形最も適當てきとうなるべし。(下略)

 要するに、大久保は、大阪が海陸かいりく要衝ようしょうあたり、舊來きゅうらい帝都ていとに近いところから、大阪遷都せんとたてまつつたと思はれる。當時とうじこれに賛成したものは、決してすくなくない。が、結局、江戸遷都せんととなつたには、むを得ない事情があつた。『大隈おおくまはく昔日譚むかしものがたり』はこの消息しょうそくれ、「當時とうじの政府は、國庫こっこはなは缺乏けつぼうし、幕府より沒收ぼっしゅうせし八百萬石まんごくも、種々しゅじゅ費途ひ とこれを用ひざるべからず。特に幕府麾下き かにして順にしたる者には其中そのうちよりこれきゅうする所なかるべからず。したがつてのこる所はわずかに百萬石まんごくに過ぎず。これを以て皇居をいとなみ、文武ぶんぶ官衙かんがを構へ、百かん邸宅ていたくを設け、學校がっこう・倉庫建立こんりゅうして、遷都せんとじつげんこと、到底とうていべきにあらざるなり。しかるに、さいわひなるかな江戸城は幕府の末路に連れてすこぶ衰頽すいたいし、牙城がじょう祝融しゅくゆうさいにかかりしといえども、二のまるの如きは嚴然げんぜんとして存在し、諸侯しょこう邸宅ていたく麾下き か住屋じゅうおく及び兵營へいえい學校がっこう・倉庫等、別に經營けいえいなげうたずして、ただちにりて以てもちゆべきなり。特に幕府の存在によって生活せし江戸百まん民人みんじんが一ちょう幕府の亡滅ぼうめつと共に生活のみちを失ひ、二百すう十年らい繁榮はんえいきわめし都府と ふが、革新の變動へんどうにつれてむなしく零落れいらくおちいるを見れば、人となく、われとなく、惻隱そくいんねんおこりて忍ぶべからざるものあり。是等これらの事情、あい湊合そうごうして、當時とうじ人心じんしん刺戟しげきし、(中略)都を江戸にうつす事となれり」と述べてゐる。これによつて江戸遷都せんとの理由が明白である。