34 故德川齊昭に從二位大納言を贈るの宣命 孝明天皇(第百二十一代)

徳川とくがわ齊昭なりあきじゅ大納言だいなごんおくるの宣命せんみょう文久二年九月 孝明天皇紀)

天皇詔旨良萬止、故權中納言從三位源齊昭朝臣倍止勅命聞⻝。素與利文事、常武威、身殆危、力治道、神州將汚、百姓欲患、叡念不安、忠心精誠。其志旦夕緩怠留古止、其謀寤寐停廢留古登。才智衆、英雄世。可久正直良臣奈禮波皇朝輔佐奈利度有禮志多能母志保之鬥鬥大坐坐間、此國彼國罷退。歳時積往麻爾麻爾憂傷彌添、日月累行麻爾麻爾、悲歎數益。猶明淨叡感給、功勞褒賞給。故是以、權大納言官從二位昇賜贈賜天皇勅命、遠聞⻝宣。

【謹譯】天皇すめら詔旨みことらまと、中納言ごんちゅうなごんじゅ源齊昭みなもとのなりあき朝臣あそみたまへとのたまおおみこときこさへとのたまふ。もとより文事ぶんじおさめ、つね武威ぶ いふるひ、殆危あやうきせ、ちから治道ちどうつくし、神州みくにけがれんとするをおそれ、百せいうれひをおもふをくやみ、叡念えいねん不安ふあんかなしみ、忠心ちゅうしん精誠まこといたす。こころざし旦夕たんせき緩怠おこたることなく、はかりごと寤寐ご び停廢すたるることなし。才智さいちもろもろにすぐれ、英雄えいゆうあらわる。かく正直な お良臣りょうしんなれば、皇朝すめらみかど輔佐たすけなりとうれしみたのもしみおもほしつつ大坐いましますに、くにはなれて、くにまか退しりぞきぬ。歳時としときくまにまにうれいたむこといよいよひ、日月じつげつかさなくまにまに、かなしなげくことしばしばくわわる。なおあかきよこころ叡感か んたまひ、功勞こうろうこと褒賞ほうしょうたまふ。ここごん大納言だいなごんつかさじゅくらいのぼたまおくたま天皇すめら勅命おおみことを、とおきこさへとる。

【字句謹解】◯中納言 中納言ちゅうなごん太宰府だざいふ總管そうかんを兼ねた役 ◯源齊昭 水戸み と烈公れっこうのこと。その生涯及び思想に就いては〔註一〕參照 ◯文事を修め 『大日本史だいにほんし』の完成に努力したこと ◯武威を振ひ 攘夷じょうい論の急先鋒きゅうせんぽうとして活躍したこと ◯身を殆危に寄せ 國家こっかのため直言ちょくげんして駒込こまごめあるい水戸城みとじょう謹愼きんしんを命ぜられた意である ◯神州の汚れんとするを懼れ 我が神州しんしゅう歐米人おうべいじん蹂躙じゅうりんされようとするのをこの上もなく心配したこと。嘉永かえい六年のペリイ來朝らいちょう最高頂さいこうちょうとして、その前後に於ける內憂ないゆう外患がいかん事實じじつは誰も知つてゐるから略して置く。その一ぱんは『軍事外交篇』『神祇じんぎ佛敎ぶっきょう篇』でれて置いた ◯百姓の患ひを欲ふを悔み 幕末に於いて、一般國民が安堵あんどいたのを殘念ざんねんに思ふこと ◯叡念の不安を酸み 以上のてん聖慮せいりょなやましたもうたことを恐れ多く思ふ ◯旦夕に緩怠ることなく 一ちょうせきこころざしへんじて今日こんにちあした國防こくぼううれひ夕方にはそれを忘れるといつたことがなく、非常に確固しっかりとした決心で事にあたる意 ◯寤寐も停廢ることなし とこいても目覺め ざめても國難こくなん救濟きゅうさいのみを考へてゐた ◯英雄世に顯る 節操せっそう堅固けんご勇氣ゆうきあることが世上せじょうに知れわたる ◯うれしみ 滿足まんぞくされること ◯此の國を離れて くにはこの世、くに黄泉こうせんの意。烈公れっこう萬延まんえん元年にこうぜられたのをかくおおせられたのである ◯明く淨き情 私心ししんなく忠義ちゅうぎな心 ◯叡感じ給ひ 孝明こうめい天皇叡感えいかんあらせられたこと。

〔註一〕水戸烈公の生涯及びその思想に就て 拙著せっちょ水戸學みとがく全集』第四かん解說かいせつしたのがある。今それを引用する。

 水戸み と烈公れっこう德川とくがわ齊昭なりあきといひ、あざな子信ししん景山けいざん潜龍閣せんりゅうかくなどのごうがあつた。寬政かんせい二十年三月、江戸小石川こいしかわ藩邸はんてい出生しゅっしょう文政ぶんせい十二年、兄齊修なりのぶの遺言により家をいだ。その際、じゅ左中將さちゅうじょうとなり、翌年參議さんぎに任ぜられたのである。

 烈公れっこうが活動した時代は、すでに述べたやうに內外多難を極めてゐた。この非常時に善處ぜんしょすべく、れは、藤田ふじた東湖とうこ戸田と だ蓬軒ほうけんらを參謀さんぼうとして、第一に藩政はんせい改革の上に、相當そうとう思ひ切つたことを斷行だんこうした。それらの事蹟じせきは、東湖とうこの『常陸ひたちおび』に詳述しょうじゅつせられてゐる。それを概括がいかつしてふと、(一)有司ゆうし能否のうひせい不正ふせいを察してこれを交迭こうてつし、(二)田畠でんばたの境界を正し、(三)租稅そぜい輕減けいげんすると共に奢侈しゃしおさへ、(四)文武ぶんぶふう奬勵しょうれいすると同時に言路げんろを開いた。

 烈公れっこうの文武一致主義は、弘道館こうどうかんの創立と追鳥狩おいとりがり及び兵制改革―巨砲きょほうを作り、銃砲隊じゅうほうたいを組織した事などの上に具體ぐたい化された。更にその日本中心主義の思想はすでに述べたやうに、尊王そんのう攘夷じょうい運動となつてあらはれた。嘉永かえい六年、アメリカのペリイが浦賀うらがて、通商つうしょうを求めたとき、國內すこぶ動搖どうようし、種々しゅじゅの議論を生じたが、當時とうじ老中ろうじゅう阿部あ べ正弘まさひろは、烈公れっこうを起用して、幕議ばくぎ參與さんよせしめ、その意見を尊重した。その際烈公れっこうは、十じょう・五を論じて當局とうきょくていし、大砲たいほう七十五もんけんじたのである。

 その十じょう・五とは、(第一)せん廟算びょうさんを定むる事、(第二)切支丹キリシタン禁制の事、(第三)我が有用な金銀・銅てつを以て、れの無用な物品と交易こうえきするの不可なる事、(第四)アメリカに交易こうえきを許す時は他國たこくにも許可せねばまなくなる事、(第五)支那し な鴉片あへんらんかんがみる事、(第六)わずかに數隻すうせき船艦せんかん威嚇いかくされて交易こうえきを許すの不可なる事、(第七)夷賊いぞく內海ないかいを測量するも、諸藩しょはん警衞兵けいえいへいに向ひ打拂うちはらいを禁ずるは、人心じんしん懈怠かいたいうれひある事、(第八)長崎海防かいぼう黑田くろだ鍋島なべしま兩家りょうけに命じ置きながら、浦賀うらが外夷がいい願書がんしょを受取るは兩家りょうけ面目上めんもくじょう面白おもしろからぬ事、(第九)打拂うちはらい決定せず、寬宥かんゆう仁柔にんじゅう處置しょちのみでは、奸民かんみん、幕府の威光いこうを恐れず、異心いしんを生ずる事、(第十)夷賊いぞく打拂うちはらい祖宗そそう遺制いせいである以上、これを決行すれば士氣し き百倍、武備ぶ びおのずから整ふ事。以上、十じょうの內容である。

 五は、(第一)廟議びょうぎたたかいに決する以上、くに大名だいみょう始め全國津々つ つ浦々うらうらに向ひ、大號令だいごうれいはっし、擧國きょこくして外敵にあたるべき事、(第二)槍劍そうけんは日本の長所ゆゑ、一般に練磨れんませしむる事、(第三)當秋とうしゅう出帆しゅっぱんのオランダ人に命じ、軍艦・蒸氣船じょうきせんならびに船大工・按針役あんしんやく周旋しゅうせんせしめ、大小銃砲じゅうほう獻上けんじょうせしむる事、(第四)銃砲じゅうほうの事精々せいぜい研究し銃數じゅうすうし、火藥かやく彈丸だんがんなどを十分備ふる事、(第五)御領ごりょう私領しりょう海岸かいがん要所ようしょ屯戍とんじゅを設け、漁師等をも取り交ぜて、守兵しゅへいを置く事などである。

 以上、十じょう・五については、更に烈公れっこうの胸中を披瀝ひれきして、結局の決意に言及し、「過日かじつ御話おはなし申候もうしそうろうごとく、太平たいへい打續うちつづそうらへば、とう世態せたいにては、たたかいがたく、やすそうらどもたたかいには決しあいり、天下一とうたたかい覺悟かくご致上いたしあげそうろうにて、あいそうらへば、ほどの事はなく、しゅとしてまん一、一せん相成あいなりそうらへば、當時とうじ有樣ありさにては如何いかんともあそばされかたこれなし」と當局とうきょくの反省・果斷かだんうながしたのである。

 從來じゅうらい烈公れっこうは、每日幕閣ばっかくれっし、重要問題について意見を陳述ちんじゅつしたが、そのふところ、强硬きょうこう攘夷じょうい主戰しゅせんの論であつため、幕閣ばっかくの人々にはれられなかつた。そののちれの意見に反して、安政あんせい元年、神奈川かながわ條約じょうやく締結ていけつされるに及び、到頭とうとう登城とじょうすることをやめ、幕閣ばっかくたいして多大の不滿ふまんいだいた。

 その際、聰明そうめい阿倍あ べ正弘まさひろは、れを幕閣ばっかくの外に置くことを不利とし、あらためて軍制改革のことを烈公れっこうに委任した。ところが、正弘は卒去そっきょして、堀田ほった正睦まさよしがこれに代るに及び、軍制委任の職を解いた。爾來じらい烈公れっこうの立場は次第に不利になつたが、れの左右の腕とたのんだ藤田・戸田の二人が安政あんせい二年、江戸大地震のために不慮ふりょの死につたことは、一そうはげしい打撃だげきだつた。

 のみならず、安政あんせい五年、井伊い い直弼なおすけ大老たいろうになると、事每ことごと國策こくさく烈公れっこうの意にそむくことが多かつた。烈公れっこう直弼なおすけ勅許ちょっきょを得ないにもかかわらず、アメリカと通商つうしょう條約じょうやくを結んだことをいきどおり、その子、慶篤よしあつ尾張おわり慶恕よしひろ松平まつだいら春嶽しゅんがくらと共に不時ふ じ登城とじょうして、直弼なおすけ詰責きっせきしたが、要領を得なかつた。直弼なおすけにらまれた烈公れっこうは、京都入說にゅうせつの件によつて幕府から處罰しょばつされ、安政あんせい五年、駒込こまごめやしき屛居へいきょ、同年八月水戸城みとじょう謹愼きんしんすることを命ぜられたのである。當時とうじ烈公れっこうは恐らく悲憤ひふん憂欝ゆううつとに心を滿みたされたであらう。かうして萬延まんえん元年八月薨去こうきょした。時にとし六十一。その著書には『告志こくし篇』『弘道館こうどうかん學則がくそく』のほかに、『明君めいくんぱんしょう』『景山けいざん詩文集しぶんしゅう』『景山けいざん詠草えいそう』『太極論たいきょくろん』などがある。その他、前代修史しゅうしのあとを受けて未成みせい列傳れつでん校刻こうこくし、十(神祇志その他)を修むることに力を注ぎ、その在世中、六草稿そうこうぼ成つた。

〔注意〕孝明こうめい天皇御宇ぎょう二十年間に、國難こくなん安定のために諸神しょじん祈禱きとうされた詔勅しょうちょくは、『神祇じんぎ佛敎ぶっきょう篇』参照の事。

【大意謹述】天皇大御言おおみことを確かにごん中納言ちゅうなごんじゅ源齊昭みなもとのなりあき朝臣あそんに達するやうにとおおせられるむねを、よくきこされるやうに改めてここに申す。德川とくがわ齊昭なりあきは以前から引續ひきつづいて修史しゅうし事業その文事ぶんじに力を入れ、常に武士としての本質である武勇ぶゆう發揚はつようし、一身の危險きけんをもかえりみず、我が國を安定する方法に就いて心をくだいた。すなわ異國いこくじんの手に我が神聖しんせいな日本國をけがされん事を心痛しんつうし、國民が一般に不安に沈む現狀げんじょう殘念ざんねんに思つて、聖上せいじょうの時局にたいする御惱おんなやみを恐れ多いことに考へ、誠心せいしんを以て朝廷に奉仕した。その國難こくなん救濟きゅうさいこころざしは一刻もやすむ時がない程固く、てもめてもその手段を忘れない。その上しゅうすぐれた才智さいちがあり、剛勇ごうゆう氣象きしょうは世間に著名でもある。これ程に純な心を持つた忠臣ちゅうしんであつたから、聖上せいじょうに於かせられても、この上もない奉仕者として滿足まんぞく思召おぼしめされ、今後もたよりとされてゐられた所、遂にこの世を去り、黄泉あのよおもむいた。當時とうじ勿論もちろんとしを積み時をるにしたがつて、その薨去こうきょを悲しみなげ心持こころもちがますます深く、日がかさなり月が進むにつれて、世にありし姿をしのんで嘆息たんそくする場合が往々おうおうある。さうした時には常に私心ししんなく忠義ちゅうぎに厚かつた心を深く感じ、生前の功勞こうろうを思ひ出した。ゆえ今囘こんかいごん大納言だいなごんかんのぼじゅの位をおくる。以上、おおせられる天皇御言葉おことばを、遠く上天じょうてん齊昭なりあきれいきこされるやうつたへる次第である。

【備考】水戸み と烈公れっこうが幕末の政治界に活躍したについては、その背後に藤田ふじた虎之助とらのすけ(東湖)及び戸田と だ銀次郞ぎんじろうらの俊傑しゅんけつがゐて、これを助けたのによる所が少くない。勿論もちろん烈公れっこうは非凡の人物で、その勤王心きんのうしんに厚かつたことは、義公ぎこうゆずらぬ。確かに大義たいぎ名分めいぶん精神せいしんいだいて、これが實現じつげんに努力した。この意味で、れは、勤王派きんのうは泰斗たいとだつたとへる。ただ政治家としては、義公ぎこうほどに輪廓りんかくが大きくないので、藤田・戸田の沒後ぼつごは、大分だいぶ行詰ゆきづまつてしまつた。すなわ時勢じせいの動きに適應てきおうしてゆく敏活びんかつさをいだ。けれども彼の攘夷說じょういせつが、幕末の志士し し刺戟しげきして奮起ふんきせしめ、それが、明治維新の開幕をうながすべき一つの原動力となつたことはいなめない。これ贈位ぞうい恩命おんめいに接した所以ゆえんである。