33 故織田信長に太政大臣を贈るの宣命 正親町天皇(第百六代)

織田お だ信長のぶなが太政大臣だじょうだいじんおくるの宣命せんみょう天正十年十月 古文書類纂)

天皇詔旨良萬止、故右大臣正二位平朝臣信長陪止勅命、衆聞⻝宣。策一人扶翼之功、敷萬邦鎭撫之德。允惟朝重臣、中興良士奈利止志爾、不量天運相極、性命空逝。昨旌旗輝東海、今晏駕馳西雲。爰贈崇號照冥路古止者、先王之令典、歷代之恒規多利。故是以、重太政大臣從一位上給治賜天皇勅命遠聞⻝宣。

【謹譯】天皇すめら詔旨みことらまと、右大臣うだいじんしょう朝臣たいらのあそみ信長のぶながたまへとのたまおおみことを、もろもろきこさへとる。一にん扶翼ふよくこうさくし、萬邦ばんぽう鎭撫ちんぶとくしかす。まことおもふにみかど重臣じゅうしん中興ちゅうこう良士りょうしなりとおもほしめししに、はからずに天運てんうんあいきわまりて、性命せいめいむなしくきぬ。さく旌旗せいき東海とうかいかがやかし、いま晏駕あんが西雲せいうんす。ここ崇號すうごうおくりて冥路めいろらすことは、先王せんのう令典れいてん歷代れきだい恒規こうきたり。ここもって、かさねて太政大臣だじょうだいじんじゅのぼたまおさたま天皇すめら勅命おおみこととおきこさへとる。

【字句謹解】◯故右大臣正二位平朝臣信長 織田お だ信長のぶなが事蹟じせきついては〔註一〕參照。信長のぶなが天正てんしょう五年に右大臣をはいし、六年にしょうに進み、同十年六月二日に京都本能寺ほんのうじに於いてこうじた ◯扶翼の功 皇室をたすおこたてまつつたこう。〔註二〕參照 ◯萬邦鎭撫の德を敷す あさの如くにみだれた諸國しょこくを統一したこと ◯中興の良士 皇室の御勢おんいきおい復興ふっこうさせた忠臣ちゅうしん ◯天運相極まり 天からあたへられた運がきての意。信長が本能寺で暗殺されたことを指された ◯性命 一めいのこと ◯空しく逝きぬ 果敢は かなく死んでしまつた ◯昨は旌旗を東海に輝かし 先程さきほどまでは東海とうかい方面に戰旗せんきを輝して國內こくない統一のために勇ましく奮戰ふんせんしてゐたこと。これは桶狹戰おけはざまのたたかいなどで信長が東海とうかい・近畿方面に勇名ゆうめいを響かせたのを意味する ◯今は晏駕を西雲に馳す 晏駕あんがは天子の崩御ほうぎょをいふのであるが、一てんしてここでは信長のことに用ひた。西雲せいうんすは死者は西方さいほう極樂ごくらく淨土じょうどくとの佛敎ぶっきょう思想からたものだが、この場合は死に就いての修辭しゅうじかいせられる。本能寺でしいされ、現在もうこの世に身はとどめてゐない事。勿論もちろん前句とついになつてゐる ◯崇號 死者を追崇ついそうするためのくらいたまふこと ◯冥路を照らす 冥途めいどを照らす意で、死後の名譽めいよあきらかにすること ◯先王の令典 次句の歷代れきだい恒規こうきと同意。過去に於いて天皇が定められた規定 ◯歷代の恒規 代々の例として定められたもの。

〔註一〕故右大臣正二位平朝臣信長 織田お だ信長のぶなが平重盛たいらのしげもり後裔こうえいで、備後守びんごのかみ信秀のぶひでの二なん天文てんもん三年五月に古渡城ふるわたりじょうで生れた。少時しょうじから大志たいしがあり。父の死後、永祿えいろく三年桶狹間おけはざま今川いまがわ義元よしもとの軍を破つて天下に名を成した。五年十月に正親町おおぎまち天皇からの密使みっしに接して有難き御諚ごじょうたまわり、ここに信長のこころざしは定まつた。十一年に足利あしかが義昭よしあきを助けて三好みよし一派をほろぼし、姉川あねがわの一せん延曆寺えんりゃくじたたかいなどを勇名ゆうめい高く、同時に皇居を造營ぞうえいし、供御くぎょの田をたてまつつた。天正てんしょう元年には將軍しょうぐん義昭よしあき河內かわちに放ち、二年三月じゅじょし、三年入朝にゅうちょうして天盃てんぱいを受け、權大納言ごんだいなごん右近衞大將うこんえのたいしょうを兼ね、四年にはしょう內大臣ないだいじんに、五年には右大臣うだいじんに、六年にはしょうに進んだ。十年正月には伊勢兩いせのりょう大神宮だいじんぐう修築しゅうちくし、すう百年間すたれてゐた舊制きゅうせいふくした。同三月德川とくがわ家康いえやすと共に武田氏たけだしほろぼし、六月に至つて毛利氏もうりしを攻めに行つた秀吉ひでよしからの請援せいえんに接し、明智あけち光秀みつひで先發せんぱつせしめ、みずからその地におもむかうとして京都本能寺ほんのうじ宿しゅくした時、光秀みつひでおそはれ、天野あまの源左衞門げんざえもんに刺された。時に四十九歳であつた。薨後こうご本詔ほんしょうおくられたのである。

〔註二〕扶翼の功 信長のぶなが尊王そんのうの意義について、山陽さんようの意見を次に紹介する。それは公平にちかい論である。

往時おうじ、平安の故老ころう元龜げんきかんの事をるに及ぶありて言ふ。とき宮闕きゅうけつ墮廢だはいし、群兒ぐんじ頽垣たいえんうちり、ちてをなす。織田公おだこうきたるに及びて、始めてるべきりとふと。

 應仁おうにん以還いかん海內かいだい分裂し、輦轂れんこくもとつね兵馬へいば馳逐ちちくにわとなる。右府う ふにあらずして誰か草萊そうらい闢除へきじょして、王室おおうしつ再造さいぞうせんや。朝廷こうむくゆるに及びて、するに征夷せいいはいもってす。すなわして受けず。けだ將家しょうけと王室と、とも衰頽すいたいきわめ、おもじつかろし。所謂いわゆる大將軍だいしょうぐん告身こくしんわずかに一すいあたいする者の如くならざらんや。右府う ふこころざし海宇かいう混同こんどうするにあり。にわか虛名きょめいおかすをほっせざるのみ。これ關東かんとう管領かんりょうりて以て隣國りんごくほこる者にくらぶるに、の器量もとよりあいだあり。

 そもそも朝廷の名器めいき、天下の豪傑ごうけつ輕重けいちょうするに足らざること、かくの如きに至る。これさしはさみて以て天下にれいするも、天下未だ必ずしも聳動しょうどうせざるなり。しかして右府う ふこれめに扶植ふしょく經紀けいきし、懃々きんきんとして置かず、高義こうぎ薺桓せいかんしのぎて晋文しんぶんすとふといえどなり。の時にあたりて、群雄ぐんゆう方隅ほうぐう割據かっきょする者、環視かんし傍觀ぼうかんして、ここづるし。(中略)しかして豐臣氏とよとみし右府う ふ將校しょうこうを以て、成緒せいちょぎ、こころざしせり。しかして王をとうとぶの義、四方を經營けいえいするのりゃくに至りては、一として右府う ふとせざるものなし。すなわ德川氏とくがわしおこるも、またこれらざるあたはず。以て王室・將家しょうけならび今日こんにちせいを見るを致す。大業たいぎょうたすけし、四方に藩屏はんぺいする者は、すで右府う ふの置きし所にかかる。すなわこれ右府う ふの業とふもまた何ぞ不可ならん。これを室を築くにたとふれば、蕪穢ぶわいを治め、高卑こうひけずり、しかして又これめにの材木をあつめ、後人こうじんをしてこれ繩墨じょうぼく斧斤ふきんを加へ、りてこれらしむ。嗚呼あ あろうなんぼっすべけんや。」

【大意謹述】天皇右大臣うだいじんしょう朝臣たいらのあそみ織田お だ信長のぶながれいに告げよとおおせありし大御言おおみことを、一同の諸神しょじんきこされるやうにと、今改めて申し上げる。織田信長當時とうじ誰も朝廷をかえりみない時、ただ人皇室の勢力ごせいりょく恢復かいふくするの方針を立て、みだれた日本全國を統治する意志があつた。じつに朝廷にとつて重要な忠臣ちゅうしんであり、皇威こういを再びおこす上に功勞こうろうすくなくないと賴母たのもしく思召おぼしめされてをられたのに、意外にもこの世の運がき、果敢は かなく不慮ふりょの死につた。昨日までは東海とうかい方面に戰旗せんきひるがえして無雙むそう剛勇ごうゆうを誇つてゐたのに、今日きょうはもう一路西方さいほう淨土じょうどの旅に向ひ返らぬ人となつてしまつた。今ここに彼を追想して位をおくり、亡骸なきがら名譽めいよあたへることは、過去に於ける天皇の定められた規則であり、代々よ よ實行じっこうされてゐる常規じょうきでもある。ゆえに、今再び位をのぼし、太政大臣だじょうだいじんじゅを授ける。みぎ特別な待遇をなされるとおおせられる天皇御言葉みことばを、遠く中天ちゅうてんにある信長のれいも聞くやう、ここに申す次第である。

【備考】戰國せんごく時代に群雄ぐんゆう輩出はいしゅつしたが、大義たいぎ名分めいぶんを理解したものがごくすくない。その中にあつて、率先、勤王きんのうこころざしあきらかにし、帝室を尊崇そんそうしたのは織田お だ信長のぶながだつた。れの勤王きんのうは、まだ不徹底ふてっていにちがひないけれども、當時とうじにあつてはまさ異數いすうとすべきであつた。よし、それが政略から出たにもせよ、大義名分について、幾分いくぶんでも理解したことは推奬すいしょうあたいする。そこに信長のこころざしの大きいこともよくあらはれてゐた。

 當時とうじ信長によつて、帝都ていとの治安は維持せられ、その民政みんせいは公明で簡易だつた。在來ざいらい足利あしかが將軍しょうぐんが京都の市民にした重稅じゅうぜい過重かじゅう賦役ぶえきことごとくこれを取除とりのぞいたのである。れは、皇居を造營ぞうえいしまゐらせ、皇室に獻金けんきんするにあたつて、盜賊とうぞくらがそれを奪ひ去らんことを防ぐため、正金しょうきんを以てせず、京の富豪ふごうに金を貸し、每月まいげつ、その利子を全部、皇室にたてまつつた。ここに至つて皇室は二百年らい、はじめて生活上、後顧こ こうれいなき事となり御安堵ごあんどあらせられた。信長が太政大臣だじょうだいじんの位を追贈ついそうさるる光榮こうえいを得たのは、偶然でない。