30 渡舟を增加し浮橋・布施屋を造るの勅 仁明天皇(第五十四代)

渡舟としゅう增加ぞうか浮橋うきはし布施屋ふ せ やつくるのみことのり(承和二年六月 河海抄)

如聞、東海東山兩道河津之處、或渡舟數少、或橋梁不備。由是貢調擔夫、來集河邊、累日經旬、不得利渉。宜每河加增渡舟二艘。其價直者須用正稅。又造浮橋、令得通行、及建布施屋。備橋造作料者、用救急稻云々。

【謹譯】くがごとくんば、東海とうかい東山とうさん兩道りょうどう河津かしんところあるい渡舟としゅうかずすくなく、あるい橋梁きょうりょうそなはらず。これり、貢調こうちょう擔夫たんぷ河邊かへん來集らいしゅうし、かさじゅんて、利渉りしょうず。よろしく河每かわごと渡舟としゅうそう加增かぞうし、價直あたいすべから正稅せいぜいもちふべし。また浮橋うきはしつくり、通行つうこうせしめ、およ布施屋ふ せ やてよ。はしそなふる造作料ぞうさりょうは、急稻きゅうとうもちゐてすく云々うんぬん

【字句謹解】◯浮橋 水上にいかだを組み合せて人を渡すもので、時には船をならべて橋のようをさせるものをいふ ◯布施屋 政府が驛路えきろに設けた旅人りょじんの無料宿泊所しゅくはくじょ。これを最初に作つたのはそう行基ぎょうきである。ぎに東大寺でも、布施屋ふ せ やを作り、承和じょうわ三年には木曾川きそがわ兩岸りょうがんにも出來た。場合により、行路こうろ病者びょうしゃ收容しゅうようし、貧民ひんみんおさめた事もある ◯東海 京都を中心として東海とうかいに沿つた道のしょうで、現在の東海道とうかいどうと同じ。伊賀い が伊勢い せ志摩し ま尾張おわり三河みかわ遠江とおとうみ駿河するが甲斐か い伊豆い ず相模さがみ武藏むさし安房あ わ上總かずさ下總しもふさ常陸ひたちの十五こくをいふ ◯東山 京都を中心として東方の山道やまみちのこと。近江おうみ美濃み の飛驒ひ だ信濃しなの上野こうずけ下野しもつけ磐城いわき岩代いわしろ陸前りくぜん陸中りくちゅう陸奥む つ羽前うぜん羽後う ごの十三こくをいふ ◯河津 渡し場 ◯橋梁備はらず 橋の用意がない ◯貢調の擔夫 租稅そぜいを京に持つてる人 ◯日を累ね旬を經て 每日まいにち々々まいにち待ち暮して十日以上をる ◯利渉 河を渡ること ◯急稻 非常な時に使用するためにたくわへて置いたいね

【大意謹述】噂によれば、東海道とうかいどう東山道とうさんどう方面に於ける渡し場には、渡し舟の少ない場所・橋の用意のない部分が多い。ゆえ租稅そぜいを運搬する者共ものどもが河の附近ふきんまでても、數日すうじつあるいは十數日すうじつて、未だ渡れない様子ようすであると。ちんはここに於いて、各かわの渡し場に二そう渡船わたしぶね增加ぞうかし、費用を本稅ほんぜいうちから支出することを命ずる。又、いかだを組んで人々を通行させ、官費かんぴ宿泊所しゅくはくじょを設け、橋を造らせることも急がなければならない。その費用は臨時の用にたくわへてあるいねてるがよからう。

【備考】當時とうじの交通が非常に不便であつたことは、本勅ほんちょく拜讀はいどくしても、おのづから推想すいそうせられる。紀貫之きのつらゆきにん滿ちて土佐と さから京都へ歸著きちゃくするまで、五十五日を要し、淀川よどがわの河口から京都にく迄さへ十三日間をついやした。今日こんにちからいふとまるでうそのやうな有樣ありさだつた。更に常陸ひたちのすけ菅原孝標すがわらのたかすえ常陸ひたち國府こくふから京都へかえるについて、百日間にちかんを要したことが『更科さらしな日記にっき』に出てゐる。またこの日記には、旅中りょちゅう處々しょしょ草蘆そうろを結んでし、中には、むもの、懷胎者かいたいしゃなどもあり、重病人をうちてて去つたとある。かん使つかいでさへも、以上の如く、なりに不便に苦しんだ。しかし彼等は驛馬えきば(急使の乘るもの)・傳馬てんま(普通の使者の乘るもの)を利用すべき權利けんりがあり、えき止宿ししゅくすることが出來た。ところが一般民衆は、大部分、そのめぐみによくすることが出來なかつたから、不便の程度は更にはなはだしかつた。以上は陸上の交通であるが、海路かいろは一そう困難で、三善みよし淸行きよつら封事ふうじによると、中國ちゅうごくすじ航海こうかいには年々百そう以上の船が沈沒ちんぼつし、死者一千人にのぼつたとある。したがつて租稅そぜいはこぶことにも、却々なかなか骨が折れた。將門まさかどらんがあつた頃は山賊さんぞく海賊かいぞくが到るところ出沒しゅつぼつし、稅物ぜいぶつを奪ひ去る事が珍しくなかつたのである。本勅ほんちょくはっせられたのは偶然でない。