23 淳仁天皇を廢し給ふの宣命 稱德天皇(第四十八代)

淳仁じゅんにん天皇てんのうはいたまふの宣命せんみょう天平寶字八年十月 續日本紀

末久毛畏朕天先帝御命以、朕之久、天下朕子伊末之授給事乎之、王止毛、奴止毛、汝牟末仁末仁、假令後在人、立乃多米仁無禮之弖不從、奈米乎方許止方不得。又君臣、貞助奉侍牟之、帝己止方。可久在御命、朕又一二豎子等聞⻝在。

然今帝止之天侍人、此年己呂見、其位仁毛不堪。是乃味仁不在、今聞仲麻呂同心之天、竊朕家利。又竊六千等等乃、又七人乃味之天、關牟止毛家利。精兵乎之天之非天壞亂罰滅家利。故是以、帝位乎方退賜親王位賜、淡路國退賜勅御命聞⻝宣。

【謹譯】けまくもかしこあれあめさきみかど御命おおみこともちて、あれりたまはく、あめしたあれいましさずたまことをしはば、おおきみやっことなすとも、やっこおおきみふとも、いましのせむまにまに、假令たといのちみかどちてあるひとい、たちのちいましのためにいやなくしてしたがはず、なめくあらむひとをば、みかどくらいくことはざれ。また君臣きみやっこことわりしたがひて、ただしくきよこころをもちてたすつかまつらむしみかどとあることはむとたまひき。かくある御命おおみことあれまた一人ひとり二人ふたり豎子わらべどもとはべりてきこしめしてあり。

しかるにいまみかどとしてはべひとを、としごろるに、くらいにもへず。これのみにあらず、いまくに仲麻呂なかまろこころかわして、ひそかにあれはらはむとはかりけり。またひそかに六千むちぢいくさおこしととのへ、またにんのみしてせきらむともはかりけり。精兵ときいくさをしてしひてやぶみだりてほろぼさむとひけり。これて、みかどくらいをば退けたまひて、親王み こくらいたまひて、淡路あわじくにきみ退しりぞけたまふとりたまふ大命おおみこときこしめさへとる。

【字句謹解】◯天の先の帝 聖武しょうむ天皇御事おんことを指したてまつつたもの ◯朕が子 孝謙こうけん天皇御事おんこと ◯事をし云はば 何か事が起つたならばの意 ◯王を奴となすとも 天皇臣下しんかの地位に引き下げるともとの意で、やっことはこの場合は臣下しんかの事をいふ ◯後の帝と立ちてある人い のち天皇として卽位そくいされたもうた人。ことばで意味がない。勿論もちろん淳仁じゅんにん天皇御事おんことに就いておおせられたのである ◯なめくあらむ人 無禮ぶれいな人。これも淳仁じゅんにん天皇御行動ごこうどうに就いてはれた ◯君臣の理に從ひて 帝位ていいいてもなんじきみうやまひ、みずからはしんのやうにつかまつる人でなければ、帝位ていいに長く置く必要はないとの意 ◯豎子 少年のこと ◯侍りて 聖武しょうむ天皇御前みまえはべつて ◯帝として侍る人 淳仁じゅんにん天皇御事おんこと ◯其の位にも堪へず 天皇として天下を統治する器量がましまさないこと ◯心を同して 協同して ◯朕を掃はむ ちんを退け除く ◯七人のみして云々 この部分は不明とされてゐる ◯精兵 强兵きょうへいの意 ◯淡路の國の公 支那し な諸侯しょこうきみあたるものではないかといはれてゐる。淡路あわじこくりょうさしめたのであらう。〔註一〕參照。

〔註一〕淡路の國の公 天平てんぴょう寶字ほうじ八年十月九日に、兵部卿ひょうぶきょう和氣王わけおう左兵衞督さひょうえのとく山村王やまむらおう外衞大將がいえのたいしょう百濟王くだらおう敬福けいふくなどが数百の軍兵ぐんぴょうを率ゐて淳仁じゅんにん天皇の宮殿をかこんだ。ていは非常に狼狽あわてられて衣類もかへられる間もないのに、使者はうながし立て、山村王やまむらおうが右の宣命せんみょうみ上げたと、『日本紀しょくにほんぎかん二十五に記してある。ていは遂に淡路でほうぜられた。

〔注意〕淳仁じゅんにん天皇はいせられた理由は宣命ほんせんみょう後文こうぶんおおせられてゐるが、主として仲麻呂なかまろ道鏡どうきょうとの私爭しそうの犠牲となられたのであらう。仲麻呂なかまろらんの平定後わずか一ヶ月で、この宣命せんみょうはっせられたことがすべてを證明しょうめいするやうに思はれる。本詔ほんしょうに直接關係かんけいあるものとしては、

(一)惠美押勝えみのおしかつ官位かんい解免げめんするのみことのり天平寶字八年九月、續日本紀)(二)逆賊ぎゃくぞく剪除せんじょ布告ふこくするの勅(天平寶字八年九月、續日本紀)(三)惠美押勝えみのおしかつ叛亂はんらん平定へいていに際して下し給へる宣命せんみょう天平寶字八年九月、續日本紀)(四)大炊おおい親王しんのう淡路國あわじのくにたまふの勅(天平寶字八年十月、續日本紀)(五)淡路國守あわじのこくしゅ佐伯助さえきのすけに下し給へる勅(天平神護元年二月、續日本紀)(六)天平てんぴょう神護しんご元年三月の宣命(續日本紀)がある。間接に關係かんけいあるものとしては、

(七)親王ふねのしんのう池田親王いけだのしんのうを流し給ふの宣命せんみょう天平寶字八年十月、續日本紀)(八)群臣ぐんしんに下し給へる宣命天平寶字八年十月、續日本紀)(九)群臣ぐんしん奬勵しょうれいするの宣命天平神護元年正月、續日本紀)(一〇)和氣王わけおうに下し給へる宣命天平神護元年八月、續日本紀)(一一)粟田道麻呂あわだのみちまろに下し給へる宣命天平神護元年八月、續日本紀)などがある。

【大意謹述】くちにするのもおそれ多い先帝せんてい聖武しょうむ天皇に於かせられては、かつみずかちんはれた事があつた。「ちんはこの天下をちんの子であるなんじさずける。し何か事が起るやうな場合には、その時の天皇はいして臣下しんかの地位にくだすとも、どうしようとも、なんじの意志の自由にまかせる。まんなんじのち皇位こういいで天皇の地位にある人が、卽位後そくいごに、なんじたいして禮儀れいぎつくさず尊敬の意を致さないとすれば、皇位こういに置く必要は少しもない。又、卽位そくいのちなんじきみうやまひ、みずからはしんのやうにつかへ、常にその忠誠ちゅうせいの心を忘れず、私心ししんのない氣持きもち萬事ばんじなんじを助ける人に限つて皇位こういを保持しるであらう」とおおせられた。この大命おおみことちんのみがうけたまわつたのではなく、先帝せんてい御前みまえちんと共にはべつた一二にんの少年も聞いたのだから、決して疑ふ餘地よ ちはないのである。

 しかるに現在天皇の地位にられる淳仁じゅんにん天皇樣子ようす數年間すうねんかん注意して見るのに、天皇としての器量にけてゐると結論せざるを得ない。それのみではなく最近の噂では、逆臣ぎゃくしん仲麻呂なかまろと協同して、ちん退しりぞのぞかうとの陰謀に加はり、世にして六千の兵をはっする用意をなし、又、七人ばかりで宮中に入らうともはかり、强兵きょうへいを出陣させてひて禁中きんちゅうに討ち入り、國法こくほう無視む しして朕をほろぼさうと公言こうげんしたとのことである。ゆえちんは、先帝せんていみことのりしたがつて淳仁じゅんにん天皇皇位こういを奪ひ、之を宮中から退けて、たん親王しんのうの地位にかしめ、淡路あわじこくりょうしめるにとどめる。以上おおせられる大命おおみこと諸神しょじんも十分に御理解あられるやうにと告げたてまつる。