21-1 皇太子を廢するの勅 孝謙天皇(第四十六代)

皇太子こうたいしはいするのみことのり(第一段)(天平寶字元年四月 續日本紀

國以君爲主、以儲爲固。是以先帝遺詔立道祖王、昇爲皇太子。而王諒闇未終、陵草未乾、私通侍童、無恭先帝。居喪之禮、曾不合憂、機密之事、皆漏民間。雖屢敎勅、猶無悔情、好用婦言、稍多狼戻。忽出春宮、夜獨歸舍、云臣爲人拙愚、不堪承重。故朕竊計、廢此立大炊王、躬自乞三寶禱神明、政之善惡、願示徵驗。

【謹譯】くにきみもっしゅとなし、ちょもっかためとなす。これもっ先帝せんてい遺詔いしょうして道祖王ふなどのみこて、のぼして皇太子こうたいしとなしたまふ。しかおう諒闇りょうあんいまおわらず、陵草りょうそういまかわかざるに、ひそか侍童じどうつうじ、先帝せんていうやまふことなし。るのれいかつうれいがっせず、機密きみつことみな民間みんかんる。しばしば敎勅きょうちょくするといえども、悔情かいじょうなく、このんで婦言ふげんもちゐ、ようや狼戻ろうれいおおし。たちま春宮しゅんぐうでて、よるひとやかたかえりて、ふ、しんひととなり拙愚せつぐ承重しょうちょうへずと。ゆえちんひそかにはかり、これはいして大炊王おおいのみこてんとし、みずか三寶さんぽうひ、神明しんめいいのり、まつりごと善惡ぜんあく徵驗ちょうけんしめさんことをねがふ。

【字句謹解】◯ 皇太子こうたいしのこと ◯先帝 聖武しょうむ天皇御事おんこと ◯遺詔 天皇崩御ほうぎょあたつて孝謙こうけんていの皇太子として道祖王ふなどのおうを立てられた意 ◯道祖王 天武てんむ天皇皇子おうじ新田部親王にいたべしんのう御子おんこあた御方おんかた。〔註一〕參照 ◯諒闇 天子てんしにある間のしょう ◯陵草未だ乾かざるに 陵草りょうそう御陵ごりょうゑた草、それが人々の涙で濡れたのが未だ乾かない事、先帝せんていにゐて萬事ばんじつつしむ間の事を意味したもの ◯私に侍童と通じ 勝手に身の世話をする少年を殊寵しゅちょうすること ◯曾て憂に合せず 少しも規定通りにつつしんでゐる樣子ようすを見せない ◯機密の事 下々しもじもの知つてはならない秘事ひ じ ◯敎勅 みことのりしてそのいましめる ◯悔情 後悔こうかいの念 ◯婦言を用ゐ 婦人の言葉を採用する ◯狼戻 人としての道にそむいた行爲こうい ◯春宮 皇太子のられる宮殿をいふ ◯拙愚 才能ととくとのないこと ◯承重 皇位こういいで次代じだい天皇となること ◯大炊王 天武てんむ天皇皇子おうじ舍人とねり親王しんのうの第七あたられ、道祖王ふなどのおうはいしたのちに皇太子となり、のち帝位ていいに就かれたがはいせられた。所謂いわゆる淡路あわじ廢帝はいていのことで、現在は淳仁じゅんにん天皇しょうたてまつる。〔註二〕參照 ◯三寶に乞ひ 三ぽうとは佛法僧ぶっぽうそうの意で、ここではほとけのこと ◯徵驗 人力じんりょく以外の力で人間に示しせること。

〔註一〕道祖王 聖武しょうむ天皇崩後ほうご淳仁じゅんにん天皇卽位そくいに至るまでの經過けいかは、奈良時代に於ける皇位繼承こういけいしょう事變じへんとして歷史れきし著明ちょめいである。けだ道祖王ふなどのおう當時とうじ皇位繼承けいしょう問題の犠牲となられたので、『大日本史だいにほんし』にはこの王の事を記すについて『日本紀しょくにほんぎ』を根據こんきょとし「道祖王ふなどのおうは、天平てんぴょう中、じゅ位上いのじょうじょせられて、散位頭さんいのかみ中務卿なかつかさきょうとなれり。天平てんぴょう勝寶しょうほう八年五月、聖武しょうむてい孝謙こうけんてい遺詔いしょうして、道祖ふなどを以て皇太子となさしめたれども、に居てれいなければ、明年みょうねん三月、はいして王爵おうしゃくたまひ、やかたかえらしめたり。七月、橘奈良麻呂たちばなならまろ廢立はいりつはかり、道祖ふなどはかりごとあずかりしに、こと發覺はっかくしければ、兵をつかわしてこれとらへ、名を麻度比ま ど ひあらため、有司ゆうし拷掠こうりゃくして、杖下じょうかに死せり」(卷八十八)とある。

〔註二〕大炊王 最初聖武しょうむ天皇ほうたまふと、遺詔いしょうして、天武てんむ天皇皇子おうじ新田部にいたべ親王しんのう御子おんこ道祖王ふなどのおうを皇太子とされた。しかるに本勅ほんちょくはいする通り道祖王ふなどのおう諒闇中りょうあんちゅう素行そこうおさまらないために、天平てんぴょう寶字ほうじ元年三月にこれはいして、皇嗣こうし群臣ぐんしんせしめられた。この時に藤原豐成ふじわらのとよなりなどは道祖王ふなどのおうの兄にあた鹽燒王しおやきのおうを立てようとはかり、一方天武てんむ天皇皇子おうじ舍人とねり親王しんのうの子の池田王いけだのおうを立てようとする大伴古麿おおとものこまろなどがあり、ろんは二派に分かれたが、豐成とよなりの弟である藤原仲麿ふじわらのなかまろの意見が勝ち、遂に池田王いけだのおう御兄おんあにあた大炊王おおいおうを皇太子とするの勅命ちょくめいを見るに至つた。大炊王おおいおうきさき仲麿なかまろ亡男ぼうなん寡婦か ふであることに注意すれば、仲麿なかまろ大炊王おおいおうすすめた理由が判明しよう。

 仲麿なかまろは皇太子の決定後、天皇ちょうを得て專横せんおう日に加はり、皇族を除かうとして流言るげんを放ち、自己の兄の豐成とよなりを流し、又橘諸兄たちばなのもろえおとしいれようとした。そこで諸兄もろえの子の奈良麿ならまろ廢太子はいたいし道祖王ふなどのおう及び鹽燒王しおやきおう大伴古麿おおとものこまろなどとはかつて、皇太子と仲麿なかまろとを除いて黄文王きぶみのおうを立てようとした。黄文王きぶみのおうとは天武てんむ天皇皇子おうじ高市たけち皇子おうじ御子み こ山背王やましろおう兄君あにぎみである。これを山背王やましろおう仲麿なかまろに密告したので、道祖王ふなどのおう黄文王きぶみのおう杖死じょうしされ、その他は皆つみせられた。仲麿なかまろの得意はここに至つて極つた。かくして孝謙こうけん天皇御位みくらい大炊王おおいおうゆずたまひ、淳仁じゅんにん天皇卽位そくいされた。しかるに仲麿なかまろの大敵道鏡どうきょうの出現と、その專横せんおう憎にく諸臣しょしんうらみとが同じ方面に働き、天平てんぴょう寶字ほうじ八年十月に及んではんはかつた仲麿なかまろちゅうせられ、淳仁じゅんにん天皇淡路あわじうつされ、孝謙こうけん天皇重祚じゅうそせられて稱德しょうとく天皇しょうたてまつるやうになつたのである。

〔注意〕本勅ほんちょく關係かんけいを持つ詔勅しょうちょくとして、

(一)橘奈良麻呂たちばなのならまろ反狀はんじょう聞⻝きこしめして下し給へる宣命せんみょう天平寶字元年七月、續日本紀)(二)妖源ようげんつのみことのり天平寶字元年七月、續日本紀)(三)逆人ぎゃくにん自首じしゅすすむるのみことのり天平寶字元年七月、續日本紀)(四)右大臣豐成とよなり壓降あっこうするの勅(天平寶字元年七月、續日本紀)(五)諸司しょしならび京畿內けいきないの百せい村長むらおさ以上をつどへて下し給へる宣命天平寶字元年七月、續日本紀)(六)鹽燒王しおやきおうの罪をめんずるの宣命天平寶字元年七月、續日本紀)(七)惠美押勝えみのおしかつ官位かんい解免げめんするの勅(天平寶字八年九月、續日本紀)(八)逆賊ぎゃくぞく剪除せんじょ布告ふこくするの勅(天平寶字八年九月、續日本紀)(九)藤原豐成ふじわらのとよなり官位かんいふくするの勅(天平寶字八年九月、續日本紀)(一〇)淳仁じゅんにん天皇はいたまふの宣命天平寶字八年十月、續日本紀)(一一)親王ふねのしんのう池田親王いけだのしんのうを流し給ふの宣命天平寶字八年十月、續日本紀)がある。

【大意謹述】國は統治者を得て君臣くんしん區別くべつが決定し、皇太子を得て基礎が固くなる。このゆえ先帝せんていみことのりのちの世にのこされ、道祖王ふなどのおうを皇太子と立てられたのであつた。しかるに道祖王ふなどのおうは皇太子の地位にありながら、未だ先帝せんてい御喪おんもが明けず、御陵ごりょうの草に宿る涙が乾かないうちに、すでに勝手に身の𢌞まわりを世話する少年を殊寵しゅちょうし、先帝を追尊ついそんする意志が少しもなく、喪服もふくこそけてはゐるが、心中に悲しさうな色を全然見せない。朝廷としての內部の祕密ひみつは一切民の間にらしてしまつてゐる。ちんは幾度もこれにたいして敎戒きょうかいしたが、一向にい改める樣子ようすを見せず、婦人のげんのみを信じ用ひて、行動には常人じょうにんとして想像すらも出來ない程道にそむいたことが多い。東宮とうぐう御所ごしょを急に脫出だっしゅつしたと思ふと、夜分やぶんになつてひとりでかえつてることもあり、遂にちんに向つて「わたくしは生れ付きとくさいもなく、皇太子として皇位こうい承繼しょうけいするだけの價値か ちがありませぬ」とふ。よって朕は道祖王ふなどのおう太子たいしとしての不適任なるを知り、ねそれをはいして大炊王おおいおうを立てようと考へてゐたが、この際にあたつて、自身でほとけ神々かみがみいのつて、その結果、天下國家がくなるかいなかを示されんことを求めた。