19 吉備內親王及び長屋王を葬るの勅 聖武天皇(第四十五代)

吉備內親王きびのないしんのうおよ長屋王ながやおうほうむるのみことのり天平元年二月 續日本紀

吉備內親王者無罪。宜准例送葬、唯停鼓吹。其家令帳內等、竝從放免。長屋王者、依犯伏誅。雖准罪人、莫醜其葬矣。

【謹譯】吉備內親王きびのないしんのうつみなし。よろしくれいじゅんじて送葬そうそうし、鼓吹こすいとどむべし。家令かれい帳內ちょうだいたちは、ならび放免ほうめんしたがふ。長屋王ながやおうは、つみつてちゅうふくす。罪人ざいにんじゅんずるといえども、そうみにくうすることなかれ。

【字句謹解】◯吉備內親王 長屋王ながやおうしつ文武もんむ天皇御妹君おんいもうとぎみあたられる、長屋王ながやおうと共に縊死いっしされた ◯送葬 葬式を規定の如くに行ふこと ◯鼓吹 太鼓を打ち笛を吹く意で、貴人きじん葬送そうそうに使用されたもの ◯家令 後世の執事しつじあたる者 ◯帳內 親王ないしんのう雜用ざつように使ふ女召使おんなめしつかいのこと ◯放免に從ふ じゅうは意志に干渉かんしょうしない意で、自由に放免ほうめんするとのこと ◯長屋王 天武てんむ天皇の第二皇子おうじにまします高市たけち皇子おうじ長子ちょうしで、謀叛むほんしてちゅうせられた。〔註一〕參照 ◯誅に伏す 謀叛むほんじん皇軍こうぐんのために生命を失ふこと。

〔註一〕長屋王 長屋王ながやおう慶雲けいうん年中ねんちゅうしょう位上いじょうじょし、和銅わどう二年にじゅ宮內卿くないきょうとなり、養老ようろう五年にじゅ右大臣となつて、元明げんめい天皇から後事こうじを託せられ、神龜しんき元年にはしょうに進み左大臣となつた。しかるに天平てんぴょう元年二月に至つて左京さきょう漆部造うるしべのみやつこ君足きみたりなどが、「左大臣長屋王ながやおう國法こくほうに禁じてある怪しげな道をまなんで、國家こっかを傾けようとしてります」と密告したため、ただちに朝廷では三かんを固め、式部卿しきぶきょう藤原宇合ふじわらのうまかい衞門佐えもんのすけ佐味忠麿さみのただまろなどに命じて長屋王ながやおうたくかこませ、遂に王を自盡じじんせしめた。王妃吉備內親王きびのないしんのう及びその四王子おうじもその場で縊死いっしの三王子おうじじょは後に死をめんぜられ、長屋王ながやおう交友こうゆう七人は流刑るけいしょせられた。けだ長屋王ながやおうへん讒言ざんげんといふことに一致してゐる。この事が藤原ふじわら夫人ふじん光明皇后)の生みたもうた皇太子の薨後こうごただちに起つたことからも、藤原氏關係かんけいを考慮されなければならない。『藤原ふじわら皇后こうごうを立つるの宣命せんみょう』(天平元年八月、續日本紀)が、長屋王ながやおうの死後約半年にしてみことのりされたのは、この事實じじつを反映し、『萬葉集まんようしゅうかん三の「左大臣長屋王ながやおうに死をたまひしのち倉橋部女王くらはしべのじょおうの作れるうたしゅ」として、「おおきみのみことかしこみおほあらきのときにはあらねどくもがくります」とあり、その次に膳部王かしわでのおう悲傷ひしょうするうたしゅ」として「なかむなしきものとあらむとぞこのつき滿ちかけしける」とあるのからも、王にたいする時人じじんの同情の深かつたことを知りる。

〔注意〕なほ、長屋王ながやおうかんしては、本勅ほんちょく以外に、(一)長屋王ながやおう滅後めつご國司こくしに下すのみことのり天平元年二月、續日本紀)(二)長屋王ながやおう緣坐えんざの者をゆるすのみことのり天平元年二月、續日本紀)がある。

【大意謹述】今、長屋王ながやおうしつである吉備內親王きびのないしんのうほうむるにあたり、じょには、何の罪もないから、規定にしたがつて相當そうとう式を行ひ、鳴物なりものだけをとどめればよからう。その執事しつじ及び召使めしつかいの者は自由に勝手なところかせることを許す。長屋王ながやおう自身は、謀叛むほんの罪を犯し、皇軍こうぐんのために一命を失つたのであるから、當然とうぜん葬式は罪人の例にしたがはせるわけであるが、といつてあまりに粗末に取扱つてもいけぬ。適宜てきぎはからへ。