18 浮浪民の王臣に仕ふるを禁ずるの詔 元正天皇(第四十四代)

浮浪民ふろうみん王臣おうしんつかふるをきんずるのみことのり養老元年五月 續日本紀

率土百姓、浮浪四方、規避課役、遂仕王臣、或望資人、或求得度。王臣、不經本屬、私自駈使、嘱請國郡、遂成其志。因茲流宕天下、不歸郷里。若有斯輩、輙私容止者、撥狀科罪、竝如律令

【謹譯】率土そっとの百せい、四ほう浮浪ふろうし、課役かえき規避き ひして、つい王臣おうしんつかへ、あるい資人しじんのぞみ、あるい得度とくどもとむ。王臣おうしん本屬ほんぞくずして、ひそかみずか駈使く しし、國郡こくぐん嘱請しょくせいして、ついこころざしす。これつて、天下てんか流宕りゅうとうし、郷里きょうりかえらず。やからゆうし、すなわひそか容止ようしするものは、ありさあばつみすること、ならび律令りつりょうごとくせむ。

【字句謹解】◯率土の百姓 各國の自由民(庶民)の意 ◯四方に浮浪し 諸處しょしょに放浪すること。〔註一〕參照 ◯課役を規避し 一定の義務・勞役ろうえきしたがはないで、出來るだけそれを避ける ◯王臣 朝臣あそみの意 ◯資人に望み 資產家しさんかすなわ當時とうじ豪農ごうのうもと農奴のうどあるいは奴隷となること ◯得度を求む 僧籍そうせきに身を入れること、なぜ當時とうじの人々が王臣おおうしんつかへ、庄園しょうえんり、僧籍そうせきるのを望んだかは〔註一〕參照の事 ◯本屬を經ず 本籍に紹介しないで ◯駈使 私用に遠慮なく使ふこと ◯國郡に嘱請して 自己の國司こくし郡領ぐんりょうに願つて ◯流宕 とうとうで、度を越える意、したがつて非常にかずの多いことをいふ ◯私に容止する者 自分の一ぞんとどめて使ふ者 ◯狀を撥き 事實じじつ狀態じょうたいしたがつて、例へばそのかずとか年限ねんげんとかにおうじて律令りつりょうの示す通りにばっすること。

〔註一〕四方に浮浪し 當時とうじ公民こうみん班田はんでん制度につて、男は二たん、女子は、その三分の二の土地を附與ふ よせられてゐた。右の二たんの田からはいねそくを作り、田租でんそとして一たんつきそく(一束は白米五升、當時の升は五合八勺)をおさめる規定だつた。したがつて左程さほど負擔ふたんでないやうだが、調租ちょうそ及びようたてまつらねばならぬ。國司こくしが必要におうじて一年ごとに一人六十日づつの勞役ろうえき公民こうみんする事は雜傜ぞうようとして認められてゐたかららくではない。また出擧すいこしょうする農民金融が政府及び富農ふのうの手で行はれたが、の利率が高い。自己の郷里きょうりに居ての勤勞きんろうは驚くべき勞働ろうどう時間の延長を以てしても却々なかなか苦しい。そのめ公民は、むなく脫稅だつぜいし放浪した。本詔ほんしょうに「王臣おうしんつかふ」とあるのは、脫稅だつぜい手段のためで、當時とうじの公民は戸籍こせき計帳けいちょういつわり、あるい免稅めんぜい特權とっけんある舍人とねり兵衞ひょうえ家人けにん奴婢ぬ ひ僧尼そうになどの身分を詐稱さしょうし、又は調庸ちょうよう布帛ふはく粗惡そあくにした。本詔ほんしょうに「資人しじんのぞみ」とあるのは、本籍をだっした公民が、課役かえきその他の負擔ふたんを嫌つて寺社じしゃあるい豪農ごうのう庄園しょうえんに投入したものに他ならない。この浪人の處置しょちは、當時とうじの重大な社會しゃかい問題であつた。

〔注意〕公民こうみん脫稅だつぜい及び浪人で國庫こっこ收入しゅうにゅうは減ずる一方であつたから、朝廷ではそれにたいして、(一)一般に兩者りょうしゃを禁ずるれいはっし、(二)國司こくしの横暴を禁じ、(三)民に恩赦おんしゃをほどこした。この三手段は當時とうじ詔勅しょうちょくによく反映されてゐる。本詔ほんしょうは、その(一)にぞくするものであり、本詔ほんしょう以外に(一)浮浪ふろう調庸ちょうよう輸いたせしむるのみことのり聖武天皇天平八年二月、類聚國史)がある。前々しょうの〔注意〕にげた(二)容隱よういん逃亡とうぼうを禁ずるのせい和銅二年十月、續日本紀)(三)造都ぞうと役民えきみん奔亡ほんぼうかんし下し給へるみことのり和銅四年九月、續日本紀)もこの部にぞくし、(二)の例としては、元明げんめいてい御世み よに(一)國司こくしに下し給へるみことのり和銅五年四月、續日本紀)(二) 國郡司こくぐんじおさむるを禁ずるの詔(和銅五年五月、續日本紀)(三)非違ひ い糺正きゅうせいするの詔(和銅五年五月、續日本紀)があり、聖武しょうむていには、(四)國司こくし遷替せんたいせい天平五年四月、續日本紀)(五)國司こくしに下し給へるみことのり天平七年閏十一月、續日本紀)などがある。(三)の例としては、その他の原因も加はつて、(一)調租ちょうそめんずるのみことのり元明天皇和銅二年十月、續日本紀)(二)民をあわれむの詔(和銅四年十一月、續日本紀)(三)役民えきみん賑恤しんじゅつするの詔(和銅五年正月、續日本紀)(四)恩赦おんしゃの詔(和銅五年九月、續日本紀)(五)恩赦おんしゃの詔(元正天皇養老二年十二月、續日本紀)(六)調役ちょうえきめんずるの勅(養老五年三月、續日本紀)(七)田租でんそめんずるの詔(養老六年八月、續日本紀)などがあり、聖武しょうむ天皇の時に至つては大規模な建造物が續出ぞくしゅつするので、更に浪人ろうにんが多くなつてゐる。脫稅だつぜい及び浪人問題と直接の關係かんけいはないが、國庫こっこ減收げんしゅうを憂へた朝廷ではこの際おおい農事のうじ奬勵しょうれいした。一歩進めて考へると、これも全然無關係むかんけいとはいへないので、一二の例をげておく。

(一)あしぎぬいと綿布めんぷたくわふるのみことのり元明天皇和銅七年二月、續日本紀)(二)麥禾ばくかうるの詔(元正天皇靈龜元年十月、續日本紀)(三)勸農かんのうの詔(養老六年七月、續日本紀)(四)農蠶のうさんすすむるの詔(養老七年二月、續日本紀)(五)農業をつとむるの詔(聖武天皇天平九年九月、續日本紀

【大意謹述】近頃は、各國の農民が諸方に四さんし、故郷を捨てて、義務勞役ろうえきを嫌ひ、あるい朝臣あそみ臣屬しんぞくし、豪農ごうのう庄園しょうえんに投入し、又は僧籍そうせきることを希望して、脫稅だつぜいしようと考へてゐる。朝臣あそみはその者共ものどもついて郷里に照會しょうかいすることなく、勝手に使用し、國郡司こくぐんじに願つて自己の所有物とするから、放浪した目的は十分に達せられ、一度故郷を出たらかえる者はなくなり、天下じゅうに浪人が非常に多數たすうとなつた。この傾向は明らかに國庫こっこ收入しゅうにゅう減損げんそんさせるので、しこの種の者共ものどもを私有し、意のままにとどめ置く者があれば、事情にしたがつて、律令りつりょうの命ずるままに處分しょぶんすることをあらかじめここに告げ知らせる。

【備考】公民こうみん脫稅だつぜい及び流浪るろうこころざしたことは、わるいにちがひないが、地方官吏かんりなどの搾取さくしゅあまりにはげしかつたことが彼等をなやまし、苦しまぎれに逃亡したものが少くない。このてんの解決は却々なかなか、むづかしかつた。社會しゃかい問題として、當時とうじ重要せられたのは、當然とうぜんである。

 けだし以上の如く、むべき社會しゃかい問題を發生はっせいしたについては、相應そうおうの事情があつた。天智てんじ天皇及び天武てんむ天皇の時代には、功臣こうしん重用じゅうようせられたが、みずか萬機ばんきべられ、彼等に重權じゅうけんあたへられなかつた。ところが、文武もんむ元明げんめい元正げんしょう天皇の時代になると、藤原氏權力けんりょくを握つて、佞佛ねいぶつ政治を行ひ、ただ增稅ぞうぜいつづけて民衆を苦しめる策をつた。したがつて大化たいか改新かいしん主旨しゅしは、これがためにはいせられ、王臣おうしん豪族ごうぞくらの押領おうりょうするところが擴大かくだいせられてゆく一方となつた。ことに地方の豪族は軟弱な藤原政治をあなどり、少しもその命令をほうじない。かうなると一番困るのは農民だ。どちら向いても、彼等は救はれない。ただ加はりるのは苟稅かぜいのみである。彼等は苦しさのあまわるいとは知りながらも四方に逃れて山林の間に餓死し、あるい王臣おうしんつかへ、あるいは寺院に身を託し、あるいは奴隷となつた。これ皆藤原氏が陛下の聰明そうめいおおたてまつり、佞佛ねいぶつ政治と利己政治とに沒頭ぼっとうした結果にほかならないと思ふ。

 ついで浪人ろうにんについて一げんする。歷史學れきしがく上、當時とうじの浪人は、江戸時代の浪人と全く區別くべつされてゐる。當時とうじ(中古時代)の浪人は、本籍地を離れて、他地方たちほうに浪人した身であつて之を浮浪人ふろうにん浮宕ふとう(浮逃)・浪人ともつた。『日本書紀にほんしょき』には、「うかれひと」とくんじてゐる。彼等の行爲こういは、一つの罪とせられ、十日の浮浪ふろうをすれば十、重いのはじょう一百といふことになつてをり、これ默認もくにんしたものもばっせらるるのである。

 その原因は、すでに述べたが、何とつても、皇族・貴族その他課役かえきめんぜらるるものがあまりに多く、そのおぎなひをひて農民らに求めることが一因となつた。他の一因は、これも前述の如く、出擧すいこであつて、これを貸稻いらしいねともいふ。出擧すいこは農民を三等(上・中・下)に分け、ちゅう以下に貸付けた。これに公私の二種があつて、官物かんぶつ官稻かんとうを貸付けることを公出擧こうすいこ、私物・私稻しとうを貸付けることを私出擧しすいこしょうした。大體だいたい公出擧こうすいこは、寬大かんだいなるべきはずだが、當時とうじ地方財政の一手段としてゐたので、それからくる收益しゅうえきを目あてにするといふ有樣ありさだつたから、借りた方はあとで相當そうとう苦しかつた。その利子の割合は、公出擧こうすいこが年五割、私出擧しすいこが年十割といふ事になり、いろいろの規程きていが出來てゐた。中には、地方財政を支へる一方法として、國司こくしによると、ひて農民に貸付けを行はうとしたものもある。そして私出擧しすいこでは、却々なかなか囘收かいしゅうがやかましく、期限が來て返濟へんさいせぬとなると、抵當物ていとうぶつ(家宅・財產)を差出させ、ほ不足すると、勞働ろうどうを以てつぐなはしめた。こんな目につた農民は、いきおひ浪人とならねばならない。公出擧こうすいこの方では以上のてんに考へ及んで、いくらか寬典かんてんを以て臨んだものの、本來ほんらいが、收益しゅうえき目あてであつたから、效果こうかが乏しく、結局、聖武しょうむ天皇の時、私稻しとう出擧すいこを禁ぜられた。(『思想社會篇』參照)が、左樣そ うすると、農民金融のみちがなくなるので、桓武かんむ天皇の時、これを復活されたのであるが、宇多う だ天皇の時には、又禁ぜられてしまつた。