17 蓄錢を奬勵するの詔 元明天皇(第四十三代)

蓄錢ちくせん奬勵しょうれいするのみことのり和銅四年十月 續日本紀

夫錢之爲用、所以通財貨易有无也。當今百姓、尙迷習俗、未解其理。僅雖賣買、猶無蓄錢者。隨其多少、節級授位。其從六位以下、蓄錢有一十貫以上者、進位一階叙。二十貫以上進二階叙。初位以下、每有五貫進一階叙。大初位上若初位、進入從八位下、以一十貫爲入限。其五位以上及正六位、有十貫以上者、臨時聽勅、或借他錢、而斯爲官者、其錢沒官、身徒一年。與者同罪。夫申蓄錢狀者、今年十二月內錄狀幷錢申送訖。太政官議奏、令出蓄錢。

【謹譯】ぜにようたる、財貨ざいかつう有无う むふる所以ゆえんなり。當今とうこんせい習俗しゅうぞくまよひ、いまかいせず。わずか賣買ばいばいすといえども、ぜにたくわふるものなし。多少たしょうしたがひ、節級せっきゅうしてくらいさずけん。じゅ以下い かぜにたくわふること一十かん以上いじょうあるものは、くらいかいすすめてじょす。二十かん以上いじょうは二かいすすめてじょす。初位しょい以下い かは、五かんゆうするごとに一かいすすめてじょす。たい初位しょい以上いじょうもしくは初位しょいは、すすみてじゅ位下い げる。一十かんもっ入限にゅうげんとなす。の五以上いじょうおよしょうにて、十かん以上いじょうゆうするもの臨時りんじみことのりき、あるいぜにし、あざむきてかんをなすものは、ぜにかみぼっし、は一ねんす。あたふるもの同罪どうざいなり。ぜにたくわふるのありさもうものは、今年ことし十二がつないありさならびぜにしるしてもうおくおわれ。太政官だじょうかん議奏ぎそうして、蓄錢ちくせんいださしめむ。

【字句謹解】◯ 和銅わどう年間にぜにの事。〔註一〕參照 ◯財貨を通じ ぜに媒介ばいかいとして物品を交換する意 ◯有无を易ふる と同じ、自己のあまつたものと不足なものとを交換する ◯百姓 一般國民のこと ◯習俗に迷ひ 一般の風習からだっし切らない意。一般の風習とは主として物々交換を意味するので、經濟けいざい上で物品貨幣としょうせられる。更に言へば當時とうじ稻米とうまい布帛ふはくるいを貨幣とし、一部では支那し な・朝鮮から銀塊ぎんかいが使用されてゐた ◯其の理 貨幣の利用法のこと ◯僅に賣買すと雖も 和銅わどうの貨幣を使用して經濟けいざい上の生活をする者が少しはあるがの意 ◯節級して 等級を定める ◯初位 八位の下にあり、大小に分かれてゐた地位のしょう ◯入限 せんる限度は十かん以上を標準とす ◯臨時に勅を聽き この時のみことのりを聞いての意 ◯借し 普通は借りる意だが、かりにはかしの義もある。ここでは貸す意であらう。じゅ以下が問題となるので、しょう以上及びしょうの人々が、自己の知人そのじゅ以下の人々にぜにを貸し、又はあたへて、その地位をのぼさせることを禁じたもの ◯官をなす 地位を進めさせる ◯一年を徒す 一年間の徒罪とざいとする。とは左遷させんすること ◯太政官 現在の內閣ないかくあたる制度で、八しょう總管そうかんし、大政たいせい統理とうりするもの。

〔註一〕貨幣の鑄造 我が國に於いて文獻ぶんけんに見えたぜにの起源は『顯宗紀けんそうき』二年にあるとされるが明瞭めいりょうではない。その後『天武紀てんむき』には銀錢ぎんせん銅錢どうせんのことが見え、元明げんめい天皇元年に武藏國むさしのくにから和銅わどうけんじたのでげん和銅わどうと改め、和銅わどう開珎かいほうとして知られる銀錢ぎんせん銅錢どうせんた。文獻ぶんけんにはこれ以前、持統じとう文武もんむ兩朝りょうちょう鑄錢司ちゅうせんしを置くことが見えるが、天武朝てんむちょうの時のものと共に、果して事實じじつ鑄錢ちゅうせんしたかどうか、疑はれてゐる。その後、淳仁じゅんにん天皇ちょう金錢きんせん(開基勝寶)・銀錢ぎんせん(太平元寶)・銅錢どうせん(萬年通寶)を鑄造ちゅうぞうした。

 更に以後には、稱德しょうとく天皇神功じんごう開寶かいほう桓武かんむ天皇隆平りゅうへい永寶えいほう嵯峨さ が天皇富壽ふじゅ神寶しんぽう仁明にんみょう天皇承和しょうわ昌寶しょうほう長年ちょうねん大寶たいほう淸和せいわ天皇饒益ぎょうえき神寶しんぽう貞觀じょうがん永寶えいほう宇多う だ天皇寬平かんぴょう大寶たいほう醍醐だいご天皇延喜えんぎ通寶つうほう村上むらかみ天皇乾元けんげん大寶たいほうが行はれ、この間に鉛錢なまりせん鑄造ちゅうぞうした。鑄造所ちゅうぞうじょ河內かわち近江おうみ山城やましろ筑紫つくし長門ながと周防すおうとうで原料は備中びっちゅう長門ながと豐前ぶぜんなどから手に入れた。やがて後醍醐ごだいご天皇の時に至つて、紙幣を發兌はつだされたのである。鑄錢ちゅうせんとその流通とは當時とうじおのずから別問題の如き現𧰼げんしょうを示した。和銅わどう開珎かいほう銅錢どうせんであるが、金銀は我が國の產出さんしゅつであると渡來物とらいぶつであるとにかんせず、主として佛寺ぶつじその裝飾用そうしょくように使用され、一般貨幣としては銅が選ばれた。本來ほんらい、貨幣の必要は人民の要求から生じ、それにさきつて經濟けいざい上のる程度の發達はったつを要し、交通の便も相當そうとうによくならねばならぬ。しかるにこの和銅わどう開珎かいほうの場合は以上の條件じょうけんと一致せず、主として支那し なの制度を模倣もほうしたに過ぎぬので、一般取引にまで活用させる事が出來ない。すなわ我國わがくに經濟けいざい未發展みはってん狀態じょうたいにあつたため、その普及は容易でなかつた。朝廷が如何い かにその流通を奬勵しょうれいされ、私錢しせんを禁ぜられたかは、本詔ほんしょうの上にも拜察はいさつすることが出來る。すなわち、蓄錢者ちくせんしゃには位階いかいあたへ、あるいは旅行者にぜに携帶けいたいさせ、諸國の路傍ろぼう米賣場こめうりばを設けて、旅人りょじんをしてこれ購求こうきゅうせしめ、諸國から納める調庸ちょうようぜにを以てすることにし、地方官に任ずる者の資格中に蓄錢額ちくせんがくを定め、田を賣買ばいばいするにあたつてぜに媒介ばいかいとさせた。ぜにの目的は流通にある。しかるに右の結果は朝廷の豫期よ きたがひ、少數しょうすう者の手にぜに死藏しぞうせしめるやうな事になつた。

〔注意〕錢貨せんかについての詔勅しょうちょく奉掲ほうけいする。

(一)私鑄錢しちゅうせんを禁ずるのみことのり元明天皇和銅二年正月、續日本紀)(二)用錢ようせんせい和銅二年三月、續日本紀)(三)蓄錢ちくせんの詔(和銅四年十月、續日本紀)(四)蓄錢ちくせん奬勵しょうれいするの詔(和銅四年十月、續日本紀)(五)私鑄錢しちゅうせんを禁ずるのみことのり和銅四年十月、續日本紀)(六)蓄錢ちくせん奬勵しょうれいするの詔(和銅六年三月、續日本紀)(七)ぜにを用ふるの詔(和銅六年三月、續日本紀)(八)擇錢たくせんを禁ずるの制(和銅七年九月、續日本紀

【大意謹述】一たいぜにが日常生活の必要品である理由は、それを媒介ばいかいとして諸物品を交換し、自己の不足なものを買ひ整へるからである。しかるに現在一般國民の大部分は、古い物々交換あるいは物品貨幣で滿足まんぞくしてゐて、正しくぜにの利用法を理解してゐない。ゆえにそれを使用するわずかな人々は居るが、ぜにたくわへる者は皆無かいむといつてもよい有樣ありさである。ちんはこの傾向を憂ひ、今囘こんかいぜにを蓄へる多少の額におうじて、各自の地位を適當てきとうのぼせ、このふう奬勵しょうれいすることにした。じゅ以下の人々で、十かん以上のぜにを蓄へた者には、くらいを一階進めることにする。二十貫以上は二階を進める。初位しょい以下は、五かんぜにを蓄へるごとに一階を進める。大初位上たいしょいじょう或は初位しょいに居る者はじゅ位下い げ進階しんかいさせる。ただしこの場合は十かんを以て一つの標準とする。ただし現在五以上及びしょうにあつて、十貫以上のぜにを蓄へた者が今囘こんかいみことのりうけたまわり、じゅ以下の人々にぜにを貸し、かみあざむいて地位を進めさせた者があるとすれば、そのぜには朝廷に於いて取り上げ、その身は一年間左遷させんさせられることを覺悟かくごしなければならない。又、あたへた者も同じ罪にしょする。共に今囘こんかいちんの意志と全然はんするからである。ぜにたくわへてゐることを進告しんこくする者は、本年十二月以內にその詳細及び蓄へた錢高ぜにだかを記して申し出ることにせよ。太政官だじょうかんはこのよし天皇奏上そうじょうし、前文の如く取りはからふであらう。

【備考】貨幣は、最初、物品貨幣から始まるのを常とする。それから少しく進歩すると、塊狀かいじょうまま貴金屬ききんぞくが貨幣の代用とされ、更にもう一歩進むと、一定の形をし、極印ごくいんした鑄貨ちょうかとなる。これが、どの國でも同じ順序を踏んでゐる。日本では、最初、物品貨幣として、稻米とうまい布帛ふはくを始め、奴婢ぬ ひ牛馬ぎゅうば・農具・裝飾そうしょく品(鏡・玉)・武具ぶ ぐ(弓・矢・刀・楯)・獸皮じゅうひなどが用ひられた。それは需要も多く、したがつて流通する範圍はんいひろいからだつた。そのうちでも、稻米とうまいが第一位を占め、これに次いだのは布帛ふはくである。奈良時代に⻝料品・器具・奴婢ぬ ひ・土地などを評價ひょうかする時、いね何束なんぞくといふ風につたのは、これをしょうしてゐる。また當時とうじいね出擧すいこ(農業上の金融)について、利子の算用に稻何束いねなんぞくを以てしたのも同樣どうようの事情による。それから布帛ふはく綿わたなども評價ひょうかの標準として用ひられたことが度々ある。庸調ようちょう布帛ふはくを以て計算されたのも偶然でない。

 それから貴金屬ききんぞくが貨幣の代用として用ひられたのはいつ頃か。前述の『顯宗紀けんそうき』に「稻斛ひとさか銀錢ぎんせんもんであつた」といふ字句があるので、これを貨幣の始めと見るものがあるけれども、恐らくそれは銀塊ぎんかいであつたらう。そして當時とうじは、貴金屬ききんぞくがまだ日本にっぽんになく、おおむこれ韓國かんこく(朝鮮)から輸入ゆにゅうしたものらしく、韓國を呼ぶのに、「金銀こがねしろがねくにつたのも、これを證明しょうめいしてゐる。また朝鮮・支那し ななどから同國の貨幣が日本へ流入したことも有りべき事と考へる。勿論もちろんそれは、日本の通貨となつたやうな場合はほとんどなかつたとつてよい。それと同時に、第一、早く流通したのは銀塊ぎんかいで、ぎは銅塊どうかいであつたらしく、金は大抵貯藏ちょぞうされてゐたらしい。かうした關係かんけい上、銀貨が出來て後、銅錢どうせん鑄造ちゅうぞうに及んだ。そして日本にっぽんで、金銀・銅が採掘されたのは、天武てんむ天皇以後のことである。

 さて錢貨せんかの使用は、最初これ支那し なまなんだのであつて、ぜにといふ言葉も、純粹じゅんすい日本語にっぽんごではない。セン(錢)といふ漢字かんじおん轉訛てんかしたものだ。それから銅錢どうせん鑄造ちゅうぞうの事も支那し なからまなんだのである。和銅わどう元年に鑄造ちゅうぞう發行はっこうせられた銅錢どうせん和銅開珎)は支那し な唐代とうだい開元かいげん通寶錢つうほうせんしたものだつた。その後、淳仁じゅんにん天皇の時代から平安末期に至る迄、銅錢どうせん鑄造ちゅうぞうは十二種にのぼつてゐる。そのうち、最初の五種は、品質・量目りょうもく左程さほど懸隔けんかくはなかつたが、後の諸錢しょせんは形が小さく、量がかるく、品位も下つてゐた。當時とうじ續々ぞくぞく錢貨せんか改鑄かいちゅうをしたのは、政府當局とうきょく財利ざいりすことを目的としたものの如くである。したがつて、政府は改鑄かいちゅうごとに、おおむ新錢しんせん一を以て舊錢きゅうせん十にて、新錢しんせんもん舊錢きゅうせんもん相當そうとうするむね嚴令げんれいした。けれども事實じじつ新舊しんきゅう錢貨せんかの間には、事實じじつ上、左程さほどの優劣を見なかつたのみならず、のちのは新錢しんせんの方が品質低下した。しかも政府はそれに頓著とんちゃくせず、新錢しんせん價格かかく實價じっかの十倍としたので、その效果こうかいきおひ一時的にとどまるのが常であつた。

 それらの日、銅錢どうせんは、どんな範圍はんいに行はれたかを見ると、最初、和銅わどう年中に銅錢どうせん發行はっこうしたとき、政府は、その通用を奬勵しょうれいするため、また需要を多からしめんがため、いろいろの規定を設け、ぜにたくわへるものには、位階いかいさずけることとした。爾後じ ご錢貨せんかは、近畿地方相應そうおうに流通するに至り、賣買ばいばい貸借たいしゃく及び賃銀ちんぎん支拂しはらいにも、これを用ひた。かうした流通上の效果こうかおさめたが、地方に於ける豪族ごうぞくは、多額の錢貨せんかを蓄へて、爵位しゃくいを求め、おおいにこれをほこるのふうを生じた結果、近畿では通貨の缺乏けつぼうを招く有樣ありさとなつた。したがつて政府は民間で錢貨せんかを蓄へて爵位しゃくいを求めることを禁ずるのやむなきに立至たちいたつたので流通上、一頓挫とんざを生じたのである。