9-5 庶政改新の詔 孝德天皇(第三十六代)

【備考】改新かいしんみことのりは土地私有のきんから、釆女うねめかんしたことで終つてゐる。その他本編で次々に謹述きんじゅつするやうに、地方政治にかんするみことのりも少くないが、最もよく改新の大精神だいせいしんをあらはしてゐるのは本詔ほんしょうである。なほ、明治維新との關係かんけい相似點そうじてん對照たいしょうして略述りゃくじゅつする。

(一)從來じゅうらい弊風へいふうそう―改新以前は蘇我氏そ が しをはじめ氏族しぞく制度の害が大きく、ぎに明治維新以前には江戸幕府專權せんけんが久しく、朝廷の權威けんいは地にちた。それにたいし、前者は蘇我氏討滅とうめつつて弊害へいがいを一そうし、後者は將軍しょうぐん政權せいけん奉還ほうかんによつて、政治上の大弊たいへいを破り、改新の氣運きうんを開くに至つた。

(二)中央集權しゅうけん斷行だんこう大化たいか改新かいしんでは有力者の私有した土地・人民を公收こうしゅうし、明治維新では各藩主はんしゅ領有りょうゆうした封土ほうどを朝廷に納めしめた。

(三)制度の改革―大化たいか改新かいしんでは、從來じゅうらい國造くにのみやつこ縣主あがたぬしなどをめて國司こくし郡司ぐんじを置き、畿內きない區劃くかくして、ぐんの制を定め、よう調ちょうの法を設け、驛馬えきば傳馬てんまを置いた。明治維新の際は德川とくがわ直轄ちょっかつの地にはんけんを置き、諸封土ほうど奉還ほうかんしたのちに、知事ち じ郡長ぐんちょうを配置し、天皇が東京に奠都てんとされて、鐵道てつどう港灣こうわんを設け、交通の便利を計つた。

(四)人材の登用―大化たいか改新かいしんでは才幹さいかんある者はこれを採用して、ひろく人材を選拔せんばつし、明治維新の時は、五箇條かじょう御誓文ごせいもんによつて、ひろく人材を拔擢ばってきされた。それから前者では支那し な隋唐ずいとう時代の制度を參酌さんしゃくして、憲法發布はっぷに及んだ。

 以上、大化たいか革新かくしんについて概觀がいかんすると、それが極めて有意義だつたことは今更、繰返す必要がない。が、大體だいたいにおいて、急進に過ぎてゐたことはおおがたい。人によると、大化の革新は、支那し な模倣もほうに過ぎたとし、貴族的氣臭きしゅうが多いとするが、支那模倣といふことには、語弊ごへいがある。むし支那法制を參酌さんしゃくして、これを日本化にっぽんかしたものとつた方が適切であらう。一たい大化革新は、支那し なから暗示を得たといふよりも、日本にっぽん精神せいしん發動はつどうによるとかいしなければならぬ。上下しょうか協和して、プロレタリアに至る迄、生活苦せいかつくなからしめようとした日本にっぽん精神せいしん大化革新の基調となつてゐる。一くん萬民ばんみんのもとに、臣民しんみん愛撫あいぶせられ、豪族ごうぞくや、特權とっけん階級の我儘わがままおさへ付けてゆくといふのが大化革新の主要目的で、それは、何處ど こまでも、神武じんむ天皇以來いらいの、傳統でんとう精神せいしん發露はつろだつた。

 左樣そ うした主要目的を達成するために、支那し な法制を參酌さんしゃくされたのは事實じじつだが、模倣もほうされたのではない。例へば、班田はんでん收授しゅうじゅの方法についても、日本にっぽんに都合よいやう、大分だいぶん獨自どくじの考へが加味か みせられてゐる。また支那法制を參酌さんしゃくするとしても、あるい佛敎ぶっきょうを保護するにしても、皇室中心主義を第一に重要すべきことを明示めいじし、一切を日本にっぽん精神せいしんにより、運用すべきむねかれてある。以上によつて分明わ かる通り、これを以て、支那し な模倣もほうとして片付けるのは妥當だとうでない。

 けれども大化たいか革新かくしんが、急進に傾いたことはおおがたい。このてんについて、『二千五百年史』(竹越三叉著)の著者は、「大化たいか變革へんかくの長く繼續けいぞくせず、幾多いくた弱點じゃくてんゆうせしは、じつ規畫者きかくしゃたる天智てんち弱點じゃくてんよりきたる。疎野そ やなる朝廷に十三色の冠位かんいを定め、ついこれを十九階のかんに改めたるが如き、佛敎ぶっきょうを保護して國敎こっきょうとなし、僧尼そうにすることかぎりなく、全國寺院の造營ぞうえいを皇室に引受けたるが如き、白雉はくちを得て年號ねんごうを改め、全國に放雉ほうちれいきたるが如き、初めて小墾田おはりだ瓦葺かわらぶきの家を立てんとせるが如き、初めて大化たいかごうを立てしが如き、八しょうかんを設け、整然、燦然さんぜんたる華麗の制度を建つるが如き、むし華美か びぐるのそしりまぬがるるあたはざりき。何となれば、國民の生活は、未だの貴族的勢力によりて下壓げあつきたる文明にふに足らざりしが故也ゆえなり」と直言ちょくげんした。

 更に同著者は、當時とうじの國民生活の實相じっそう言及げんきゅうして、「とみ生產せいさん極めてすくなく、衣⻝いしょく足らざるがゆえに、禮節れいせつを知らざるの民にして、蘇我馬子そがのうまこ大臣おおおみとうときを以て百濟くだら使つかい翹岐ぎょうきを家にきょうするに、らんかぎりの驕奢きょうしゃつくしたる引出物ひきでものは馬一匹と鐵塊てっかい二十ちょうに過ぎず。朝廷、翹岐ぎょうききょうするや、外人がいじんに聞かしむるに足るの音樂おんがくゆうせず、健兒けんじをして裸體らたいならしめて、庭前ていぜんに相撲せしめて、饗應きょうおうとせるほどなり。(中略)天智てんち天皇齊明さいめい太子たいしたりし時、初めて漏刻ろうこくを造りしによりて、初めて時を知りしたみなり天皇すら群臣ぐんしん・百せいかいするに十分なる殿堂でんどうゆうせず。大樹たいじゅもとに於てせるほどの生活なりしなり」と述べた。

 右の如き有樣ありさからせば、庶民の生活が極めて貧弱で、低級であつたことをも察するに難くない。無論、その敎養きょうように至つては皆無に近かつた。かうした時代に於て、大化たいか革新かくしんが行はれたのであるが、その內容と國民大衆の敎養きょうよう及び生活とを對照たいしょうすると、急進に過ぎてゐたことだけは、認めねばならない。それに伴ふ結果が、豫期よ きに反することの多いのもまたむを得ぬことである。例へば、班田はんでん制度の如きも、一時全國的に行はれたことは、

(一)白雉はくち三年、班田はんでんを行ふ。(二)大寶たいほう二年、筑前ちくぜん豐前ぶぜん班田はんでんを行ふ。(三)持統じとう天皇の時、班田はんでん大夫たいふ畿內きないに派遣す。

事實じじつによつてもわかるが、元來がんらい班田はんでんには、いろいろわずらはしい手數てすうを要し、またこれにつて、惡用あくようしたものがあつたところから、漸次ぜんじ、行はれなくなり、五畿內きないにおいてさへ、放置さるるやうになつた。加ふるに、元正げんしょう天皇の時代に及び、私墾田しこんでん開發かいはつ奬勵しょうれいし、あらたに池溝ちこうを作り、開墾かいこんをするものに向つては、當該とうがいの土地を三せいわたつてあたへ、また在來ざいらい池溝ちこうにより、水利すいりを用ひて、田を開くものには、その土地をたまはるといふ制度が創始そうしせられた。聖武しょうむ天皇の時に至り、「墾田こんでんは永く庶民の私有としてよろしい」とせんせられたので、班田はんでん制はいきお等閑とうかんせられ、有名ゆうめい無實むじつの存在となつたのである。すなわとみの分配の不公平を一ぱいし、土地を國家の手におさめて、班田はんでん制のもとに、庶民を窮地きゅうちから救ひ出さうとした精神せいしんは、ここに至つて、破毀は きせられた形となつた。

 かうてんから見れば、大化たいか革新かくしんは失敗である。けれども他方から見ると、當時とうじ國勢こくせいは中央集權しゅうけん制により、國礎こくそを固め、國威こくい宣揚せんようしなければならない必要に直面してゐた。『二千五百年史』の著者は、「外國の勢力の日本に迫り、邊境へんきょうの民の騒動するは、古來こらいときとしてあらざるはなしといえども、國民の存在をあやううせんとすること、の時よりはなはだしきはなかりしなりけだ神武じんむ創業以後、征服者の威武い ぶも、人種的勢力も東は遠江とおとうみ駿河するがに及び、北は越前えちぜんに及ぶにとどまり、其他そのたことごとえびす驕凌きょうりょうするままに一任し、崇神すじんの時、四どう將軍しょうぐんでて、足跡そくせき會津あいづに及びたりしも、これただけんを横行するのみにして、政治的征服のじつあらず。景行けいこう日本武やまとたけるの遠征あり、景行けいこう諸子しょし關東かんとうに分布せらるるありて、蝦夷え ぞ一たび服從ふくじゅうしたりといえども、爾來じらい中原ちゅうげん多事た じ、力を東北に用ゆるあたはざりしがため漸次ぜんじ驕凌きょうりょうし、仁德にんとくの時に田道たみちこれつて上總かずさ夷隅いずみ戰死せんしし、敏達びたつの時、蝦夷え ぞすこしくふくせしも、舒明じょめいの時、久しく威名いめいありし上毛野形名かみつけののかたなすら、一たび蝦夷え ぞめに破られたり。これがため大化たいか前後に至りては、大和朝廷の人種的勢力の達せざりし奥羽おううは、また王化おうかのもとにあらずなりしかば、大化たいか五年には越後えちご磐船いわふねさくを治めて蝦夷え ぞ侵叛しんぱんに備へ、越後えちご信濃しなのの民をえらびて、その守卒しゅそつとして屯田とんでんせしむるに至れり」と述べ、以上の如き內憂ないゆうのほかに三かん(朝鮮)また動搖どうようし、內外ないがい多事た じであつたから、中央集權しゅうけんといふことは、當時とうじ日本にっぽんを守る上から、必要くべからざる事であつたといふことをあきらかにしてゐる。勿論天智てんち天皇の時、支那し な(唐)の勢力が三かんに伸びて、めに日本にっぽんは、すつかり同方面の領土を失つたが、一方では、國の內部を固めてゆくといふ上で、一段の力を集中するの利があつた。このてんにおいて、大化たいか革新かくしんによる中央集權しゅうけん制は效果こうか多かつたとへる。

 更に大化たいか革新かくしんが後世に及ぼした感化かんか・影響は、却々なかなか深く、つ大きい。昭和維新こえが高い今日こんにち大化たいか革新かくしんのことが屢々しばしばいたるところにかれ、そこからまなぶべきものがあることをも高調こうちょうせられてゐる。日本にっぽん精神せいしん中樞ちゅうすうとしての革新は、大化たいか時代からおしへらるることが決して少くはない。

 例へば、中大兄皇子なかのおおえのおうじが、大化たいか改新かいしんの中心人物をして、その計畫けいかく、組織にあたらるると同時に、土地國有こくゆう斷行だんこうするに際して、みずからそのはんを示され、その所有の田莊でんそう、百八十一箇所かしょを皇室に奉還ほうかんされたことは、の容易にがたきことをされたとはねばならぬ。農業本位の時代には、土地が有力な財產ざいさんであつたから、それにたいする各人かくじん慾望よくぼう熾烈しれつで、「國縣こっけん山海さんかい林野りんや池田ちでんき、以ておのれの財とし、爭戰そうせんまず」とある如く、大氏おおうじは土地兼併けんぺいに熱中して、そこから種々しゅじゅ弊害へいがいかもし出した。かうした場合、土地國有こくゆう斷行だんこうするがため、中大兄皇子なかのおおえのおうじみずか廣大こうだいな私有地を皇室に奉還ほうかんされた事は、大氏おおうじをして、それにならはしむべき一大動機となつたことを疑はぬ。いかに立派な計畫けいかくでも、かみにおいてこれ實行じっこうするの精神せいしんを明白にしなければ進行しない。中大兄皇子なかのおおえのおうじの立派な御行動ごこうどうは、後人こうじんたいして敎訓きょうくんとなるてんが最も多い。

 更に今一歩を進めていふと、およ國政こくせいを一しんする場合に、漸進ぜんしんといふことは却々なかなかむづかしい。これを明治維新に見るも、一度は復古ふっこ的に萬事ばんじを行はうとされたけれども、それはしばらくの間で、のちには、急進的に一切を處理しょりして進んだ。勿論もちろん、そこに弊害へいがいともなつたのはふ迄もないが、とつて左視さ し右顧う こしてゐたら、あれだけの飛躍をすことが出來なかつたにちがひない。大化たいか革新かくしんに於ても、中大兄皇子なかのおおえのおうじが、思ひ切つた改革を思ひ立たれ、周圍しゅういの批評などをにかけないで、ぐんぐん急進されためにあれだけの事が出來たと思ふ。よし、事實じじつ、それが理想とかけ離れた結果をともなつたとしても、思想上、よい影響をのこし、よい暗示をあたへたところが少くない。ゆえに大化革新が急進にしっしたとしても、これを非難するのは妥當だとうでない。むし急進きゅうしん直往ちょくおうして、とみ不平均ふへいきんを打破り、國民大衆のすべてに幸福こうふくあたへようとされた理想を讃歎さんたんせねばならぬ。

 由來ゆらい左翼さよく赤化せっかは、日本の皇室がプロレタリアに向ひ、冷淡であるかのやうに考へてゐるが、決して左樣そ うでない。その一例は、大化たいか革新かくしん精神せいしんに考へてもわかる。すなわちプロレタリアの生活苦せいかつくを救ふとふことが、革新の主眼點しゅがんてんとなり、同時に富豪ふごう跋扈ばっこを極力おさへられたのである。ここ中正ちゅうせい公明こうめい日本にっぽん精神せいしんの表現を明白に看取かんしゅるではないか。

 ただかうした日本にっぽん精神せいしんの表現を政治上・社會しゃかい上に於てさまたげたのは、藤原政治であり、武門ぶもん政治だつた。藤原政治は、いくらか文藝ぶんげい趣味の上に貢獻こうけんしたにとどまり、その政治方針は一もん利益りえき權力けんりょく伸張しんちょうするにあつた。これを極端にしたのは藤原ふじわら道長みちながである。かうした立場から政治を行ふ以上、利己的享樂きょうらくとらはれて、眼中がんちゅう日本にっぽん精神せいしんなく、國民大衆なく、あるものは政權慾せいけんよくか、利益りえき追求心だけだ。

 これにくらべると、武門ぶもん政治は、いくらかいところがあり、北條氏ほうじょうしの如き、德川氏とくがわしの如き、一善政ぜんせいほどこしたこともある。が、結局、一を重んじ、一もん郞黨ろうとう本位に動く以上、これ又國民大衆の幸福こうふくを計るについて、左程さほど熱心でないのはふをたぬ。德川氏のたい農民策の如きは、表面、農民を重んじながら、事實じじつ、農民から搾取さくしゅするに餘念よねんがなかつた。

 こんな具合で、皇室におかせられては、常に國民大衆の生活を御心みこころにかけられ、とみ不平均ふへいきんを打破つて、一般の生活安定を希望せられたにかかわらず、藤原政治及び武門ぶもん政治が、これを妨げたことが最も多い。今日こんにち旣成きせい政黨せいとうが一もん郞黨ろうとうで固め、自黨じとう利益りえき占有せんゆうに極力、努めてゐるが如きも、藤原政治の變形へんけいにちかいものとへよう。あるい武門ぶもん政治のわるいところばかりを眞似ま ねてゐるともいへよう。これじつ昭和維新の必要を生じた所以ゆえんだ。