9-2 庶政改新の詔 孝德天皇(第三十六代)

庶政しょせい改新かいしんみことのり(其の二)(大化二年正月 日本書紀

初修京師、置畿內國司郡司、關塞斥候防人、驛馬傳馬。及造鈴契、定山河。凡京每坊置長一人、四坊置令一人、掌按撿戸口、督察姧非。其坊令、取坊內明廉强直、堪時務者充。里坊長、竝取里坊百姓、淸正强幹者充。若當里坊無人、聽於比里坊簡用。凡畿內、東自名墾横河以來、南自紀伊兄山以來、西自赤石櫛淵以來、北自近江狹々波合坂山以來、爲畿內國。凡郡以四十里爲大郡、三十里以下四里以上爲中郡、三里爲小郡。其郡司、竝取國造性識淸廉、堪時務者、爲大領小領。强幹聰敏、工書笇者、爲主政主帳。凡給驛馬傳馬、皆依鈴傳符剋數。凡諸國及關給鈴契。竝長官執、若無次官執。

【謹譯】はじめて京師けいしおさめ、畿內きない國司こくし郡司ぐんじ關塞かんさい斥候せっこう防人さきもり驛馬えきば傳馬てんまく。およ鈴契れいけいつくり、山河さんがさだめよ。およきょうには坊每ぼうごとおさにんき、四ぼうれいにんき、戸口ここう按撿あんけんし、姧非かんぴ督察とくさつすることをつかさどれ。ぼうれいには、坊內ぼうない明廉めいれん强直きょうちょく時務じ むすぐれたるものりててよ。里坊りぼうおさには、ならびに里坊りぼうの百せいの、淸正せいしょう强幹きょうかんなるものりててよ。その里坊りぼうひとなくば、ならびの里坊りぼうえらもちゐることをゆるす。およ畿內きないは、ひがし名墾なはり横河よかわより以來いらいみなみ紀伊き い兄山せのやまより以來いらい西にし赤石あかし櫛淵くしふちより以來いらいきた近江おうみ狹々波ささなみ合坂山おうさかやまより以來いらい畿內國きないこくとなす。およぐんは、四十もっ大郡たいぐんとなし、三十以下い か、四以上いじょう中郡ちゅうぐんとなし、三小郡しょうぐんとなす。郡司ぐんじには、ならびに國造くにのみやつこ性識せいしき淸廉せいれん時務じ むすぐれたるものりて、大領おおみやつこ小領すけのみやつことなさん。强幹きょうかん聰敏そうびん書笇しょさんたくみなるもの主政まつりごとびと主帳ふみひととなす。およ驛馬えきば傳馬てんまたまふことは、みなれい傳符でんぷきざみかずれ。およ諸國しょこくおよせきには鈴契れいけいたまふ。ならびに長官か みれ、くば次官す けれ。

【字句謹解】◯初めて京師を修め 京師けいしの內部を初めて整理し、畿內きないを定めること。畿內きないに就いては本詔ほんしょうの後文に說明せつめいされてある ◯國司 朝廷から諸國に置いた地方官のこと。〔註一〕參照 ◯關塞 關所せきしょのこと。したがつて關守せきもりをもいふ ◯斥候 「うかみ」あるいは「やかた」とくんぜられてゐる。現在の斥候せっこうと同意である ◯防人 邊要へんようの地に置く守備隊 ◯驛馬 各えきに置く早馬はやうまのこと、何か急用の場合に使用するもの ◯傳馬 驛馬えきばの不足な場合に使用する早馬はやうますなわ驛馬えきば豫備よ びである ◯鈴契 すず上古じょうこ上使じょうし證據しょうことして朝廷からたまはるもの、けい割符わりふで同じ性質のもの、すなわち形式上國司こくしなどの信任狀しんにんじょうであつた ◯山河を定めよ 諸地方を支配せよとの意 ◯凡そ京には云々 これ以下の文は前に「初めて京師けいしおさめ」とあつたのにおうじて、說明せつめいの役をしてゐる ◯ 町の一區轄くかつ名稱めいしょうで、この文字は唐制とうせいのをならつたのであらう ◯ 朝廷から任命する役人 ◯戸口を按撿し 戸數こすう人口などをよく調査する ◯姧非を督察すること 公私の惡人あくにん取締とりしまる ◯明廉强直 性質に曲つたことがなく、態度にけがらわしいことがない ◯時務に堪れたる者 十分にその役目を實行じっこう出來る者 ◯淸正强幹 性質が正しく身體しんたいが丈夫な者 ◯比の里坊 その附近ふきんにある町 ◯畿內 皇都こうとを中心に四方の地點ちてんを限り、政治上の區劃くかくをしたのみであつて、後世四畿內きない(山城・大和・河內・攝津)及び五畿內きない(河內を割いて和泉を置いたもの)としょうする根元こんげんとなつたものであつた ◯名墾の横河 伊賀國いがのくに中郡なかごおりのことで、ばん信友のぶともは『長柄山風ながらのやまかぜ』で横河よかわ長田川ながたがわであると考證こうしょうしてゐる ◯以來 以內の意 ◯紀伊の兄山 紀伊き い那賀郡なかごおりぞくしてゐるとのせつがあり、妹山いもやま兄山せのやまと二ざんならんでゐるといはれるが、諸說しょせつ紛錯ふんさくして所在は判明しない ◯赤石の櫛淵 赤石あかし播磨國はりまのくに明石郡あかしごおりあたり、櫛淵くしふちについては定說ていせつがない ◯近江の狹々波の合坂山 近江國おうみのくに滋賀郡しがごおりにある ◯凡そ郡は云々 この部分は前に「郡司ぐんじ」とあつたものの說明せつめいとして拜察はいさつされる ◯四十里 は距離をあらはしたものではなく、區劃くかくの意で、約五十を含む場所のこと ◯三十里 一が五十戸のわりで計算すれば三十は千五百あたり、前の四十里は二千戸、後の四里は二百戸、三里は百五十戸に相當そうとうする ◯小郡 この時はぐんを大中小に三べつしたが、大寶令たいほうれい以後は大上中下小に五べつし、大郡たいぐんは二十里以下十六里以上、上郡じょうぐんは十六里以下十二里以上、中郡ちゅうぐんは十二里以下八里以上、下郡げぐんは八里以下四里以上、小郡しょうぐんは四里以下二里以上となつた ◯性識淸廉 舊訓きゅうくんには「ひととなりたましひいさぎよくて」とある。性質の善良な意 ◯大領 郡司ぐんじの長官の事 ◯小領 郡司ぐんじ次官じかんの事 ◯强幹聰敏 身體しんたいが堂々としてゐて頭腦ずのうが明らかな意 ◯書笇 舊訓きゅうくんは「てかきかずしる」とあり、りょうには「書計しょけい」とあるから、しょは筆記のたくみな者、さんは算術の巧者こうしゃの意 ◯主政 小領すけのみやつこもとにあつて實際じっさいに事務をとる役 ◯主帳 書記役 ◯凡そ驛馬云々 この部分は前文に「驛馬えきば傳馬てんまを置く」とあるものの說明せつめいあたる ◯ 所謂いわゆる驛路えきじれいとして知られてゐるもので、驛々えきえきの馬につて公用をびた役人が鈴を振つて遠路を旅することである。この鈴にはきざみがあつて、そのきざみかずだけ馬を出すこと。〔註二〕參照 ◯傳符 でん傳馬てんまのことで、驛馬えきば豫備よ びをいふ。これは驛馬えきばが至急の場合に使用されるのに反して、それ程でもない時に用ゐるもの、とは官符かんぷで、かみからたまはる信任狀しんにんじょうの性質を持つた木札きふだの意、これにもきざみがあつて、そのすうおうじて傳馬てんまを使用した。〔註三〕參照 ◯凡そ諸國云々 この部分は前文に「鈴契れいけいを造り」とある部分の說明せつめいとして考へられる ◯ 關所せきしょのこと。

〔註一〕國司 仁德にんとく天皇六十二年五月に國司こくしの字が見えるのを始めとして、雄略朝ゆうりゃくちょう淸寧朝せいねいちょうにもそれが見えるので、大化たいか改新かいしん以前に國司こくしが置かれたのは明瞭めいりょうであるが、朝廷が國司こくしを置いたと明らかに記してあるのは、孝德こうとく天皇大化たいか元年に東國とうごくに置いたので、—本編に謹述きんじゅつした(前詔參照)—本詔ほんしょうに於いて畿內きないに置き、漸次ぜんじ諸國に置くやうになり、大寶令たいほうれいで右の制度が完成したのであつた。

〔註二〕驛鈴驛馬 公式れいによれば、親王しんのう及び一位の驛鈴えきれいは十こく、三以上は八剋、四位は六剋、五位は五剋、八位以上は三剋、初位しょい以下は二剋とある。ゆえ親王及び一位は十匹の驛馬えきば、三位以上は八匹、四位は六匹、五位は五匹、八位以上は三匹、初位以下は二匹の驛馬えきばを使用したことが判明する。

〔註三〕傳符と驛馬 同じく公式れいには、親王及び一位の傳符でんぷは三十こく、三以上は二十剋、四位は十二剋、五位は十剋、八位以上は四剋、初位しょい以下は三剋と見える。ゆえ親王及び一位は三十匹の傳馬てんまを使用し、三以上は二十匹、四位は十二匹、五位は十匹、八位以上は四匹、初位しょい以下は三匹であつたことが判明する。

【大意謹述】今囘こんかい皇都こうと體裁ていさいを初めて整理して、畿內きないには國司こくし郡司ぐんじ關守せきもり斥候せっこう邊境へんきょうの守備兵・驛々えきえき早馬はやうま及びその豫備よ びを置くことにした。この際にその諸役に任ぜられた人々は、朝廷からの信任狀しんにんじょうである鈴契れいけいを持つて早々そうそうに各地方をよく治めなければいけない。

 皇都こうとには町每まちごとに一人の長老を置き、四個のまちに共通した朝廷から任ぜられた役人一人を置く、この者共ものども戸數こすう人口を調査して、公私の惡人あくにんを取締る責任を持つ。四個のまちに共通した役人は、それらの町內に於いて性質が正しく、態度にけがれのない、十分に責任をつくせる人を任命することにする。町每まちごとの長老も同樣どうように、その區域內くいきないの性質が正しく丈夫な者を使用する。しこの條件じょうけん適當てきとうな者が發見はっけん出來なかつた場合には附近ふきんまちから選んだ者、あるいは共通な者でも差支さしつかえない。

 ここに決定する畿內きないとは皇都こうとを中心として、東は名墾なはり横河よかわ以內、南は紀伊き い兄山せのやま以內、西は赤石あかし櫛淵くしふち以內、北は近江おうみ狹々波ささなみ合坂山おうさかやま以內として、今後畿內きないごうする。今囘こんかい決定するぐんは、二千大郡たいぐんに、一千五百戸以下二百戸以上を中郡ちゅうぐんに、百五十戸前後を小郡しょうぐんとする。それらのぐん役人には皆、國造くにのみやつこ中で性質が善良で、十分責任をつくしるものを選んで長官・次官じかんとする。又、體格たいかくが立派で利口な者を主として實際じっさいの事務官とし、書記・算術にたくみな者を書記官とする。公用の時には、その性質にしたがつて驛馬えきば又は傳馬てんまを使用させる。その使用する馬のすうは、かんからたまはるすずあるい木札きふだにあるきざみかずと一致させる。又、諸國及び各關所せきしょには如何い かなる變事へんじが起るかも知れないので、あらかじ官使かんしであることを證明しょうめいするところの鈴契れいけいたまふことにした。それらは諸國の、及び諸關しょかんの長官が保管して置くべきである。長官がゐなければ次官じかんでもよろしい。

【備考】大化たいか改新かいしんの原因は、明治めいじ維新いしんと同じやうに內的と外的とに區別くべつして考へることが可能である。內的原因とは誰もがく如く、氏族しぞく制度の弊害へいがいで、土地はすべ大氏族だいしぞく獨占どくせんし、うじかみ世襲せしゅうによつて腐敗のきょくに達した。心ある者は何とかしてこのへいを打破しなければならないと考へてゐたのである。打破は文字通り破壞はかい事業で、これは建設事業の目標が定まつた時に初めて價値か ちが生ずる。破壞はかいめの破壞はかいは何物をも意味しない。では何處ど こにこの人々は目標を置いたか。當時とうじ文化の花が開いたのはずい及びとうである。すう百年間、南北朝なんぼくちょうに分裂してゐた支那し なずいによつて統一せられ、ずい煬帝ようだいからとう高宗こうそうに至る約七八十年間は、支那し なの國力が充實じゅうじつし、したがつて朝鮮半島を通じて我國わがくに輸入ゆにゅうされる支那し な文化は、日本人の目を驚かすものがすくなくなかつた。この支那し なの中央集權しゅうけん的な國家制度は、どれ程當時とうじ改革の心を胸にぞうしてゐた人々の參考さんこうとなつたことか。

 ただ、ここに忘れてはならないのは、聖德太子しょうとくたいしの皇室中心主義であつた。その十七憲法拜察はいさつ出來る「天に二じつなく、國に二おうなし」の思想こそ、大化たいか改新かいしんの核心を構成する。る意味からは、太子たいしの思想の結晶がこの改新となつたともいへる。いずれにしても上古じょうこに於ける國家社會しゃかい主義運動、あるいは皇室中心の平等運動として、大化たいか改新かいしんあたへた影響は、現代人の胸にまでつよい影響をあたへてゐる。