9-1 庶政改新の詔 孝德天皇(第三十六代)

庶政しょせい改新かいしんみことのり(其の一)(大化二年正月 日本書紀

罷昔在天皇等所立子代之民、處處屯倉、及別臣連伴造國造村首所有部曲之民、處處田莊。大夫所使治民也。能盡其治、則民賴之。故重其祿、所以爲民也。

【謹譯】昔在むかし天皇てんのうとうてたまへる子代こしろたみ處處しょしょ屯倉みやけおよわけ臣連おみむらじ伴造とものみやつこ國造くにのみやつこ村首むらのおびとたもてる部曲かきべたみ處處しょしょ田莊たどころめよ。大夫たいふたみおさめしむるところなり。まつりごとつくすときは、すなわたみこれたよる。ゆえ祿ろくおもくすることは、たみめにする所以ゆえんなり。

【字句謹解】◯子代の民 上古じょうこ天皇御子み こましまさない時、御名み なの後世に知られないのを恐れ、その御名み なを負はせた一定の土地を子代こしろ、又は御子代みこしろといふ。この起原きげん垂仁すいにん天皇時代から始まり、本詔ほんしょうに至つてはいされたのであつた ◯屯倉 通俗つうぞくにいへば、御家み やの義に通ず。垂仁すいにん天皇の時に始めて屯倉みやけ久米邑くめのむらおこされた。屯倉みやけ元來がんらい、皇室の御宅みやけ又は官舍かんしゃの義で、皇室の御料田ごりょうでんすなわ屯田とんでんから收納しゅうのうする榖物こくもつ貯藏ちょぞうする倉庫のことだが、兼ねて又その榖物こくもつの出る土地―御料地ごりょうちをも指稱ししょうした。その田を耕すものを田部た べこれつかさどるものを屯田とんでんしつた。大化たいか改新かいしんに際し中大兄皇子なかのおおえのおうじはその私有する百八十一箇所かしょ屯倉みやけ奉還ほうかんされた ◯ 上古じょうこに於いて各地方にほうぜられた皇子おうじの子孫が統治してゐる土地及びその民を意味する。景行けいこう天皇が七十人の皇子おうじたちを國郡こくぐんほうぜられたのは國史こくし著名ちょめいである ◯伴造 上代じょうだいの各部長で世襲せしゅうであつた職 ◯國造 上代各國かっこく長官で世襲せしゅうであつた職 ◯村首 各村かくそん首長しゅちょうのこと ◯部曲の民 工業中心の組合にぞくし、皇族又は豪族ごうぞくぞくした部民ぶみん。〔註一〕參照 ◯田莊 後世の莊園しょうえんと同じ、しょう田間でんかんにある家屋のことで、勢力者の私有の土地をいふ。〔註二〕參照 ◯大夫 後世の五位をしょうする者の名であるが、當時とうじはその位がなかつた。ゆえにそれに相當そうとうするもの、すなわ國司こくし以上の地位と考へれば大差はないと思ふ ◯其の祿を重くすること のは大夫たいふ以上のこと。前文と本文との間に『孝德紀こうとくき』には「りて⻝封へひと大夫たいふ以上にたまふことおのおの差あり、くだりては布帛ふはくを以て官人かんじんかんたまふこと差あり。又いわく」とある。この文を挿入してめば、意味はよく判明しよう。祿ろくを重くするとは⻝封しょくほうたまふことで、土地私有のきんかわりに、戸數こすうを定めて、そこから納入する庸調ようちょうの全部しくは一部をあたへたこと。〔註三〕參照

〔註一〕部曲の民 古代日本にっぽんに於ける工業中心の組合、乃至ないし團結だんけつのもとにある部民ぶみんのこと。それは、全く特異とくいの存在で、皇室・豪族ごうぞくらに使用された不自由民(公民でない)の集團しゅうだんで、これをと呼んだ。勿論もちろん、中には不自由民でないものもゐた。は「とも」と呼び、組合を意味する。には、政治・祭祀さいし・農業・林業などにかんする部分もあるが、特に工業方面のものが多かつた。それは代々、同一の產業さんぎょう從事じゅうじし、血族關係かんけいによるうじの制度を模倣もほうして編制へんせいされた。中にはうじから出來たのもある。その大半は被征服者から成り、おさ伴造とものみやつこつた。

 被征服者でない部分は、五伴緒いつとものお五部神いつとものおのかみたちとして、天孫てんそん降臨こうりんの際、隨從ずいじゅうしたもので、來目部く め べ忌部いんべ弓部ゆみべ物部もののべ倭鍛部やまとかねべなどが、それである。そののち天孫てんそん民族の發展はってんともなひ、被征服者を生じたので、これを以てを組織し、征服者側の有力なものが伴造とものみやつことしてこれひきゐた。には二種あつて、おおやけは皇室・皇族にぞくし、わたくし豪族ごうぞくについた。前者を品部ともべ、後者を部曲かきべしょうした如くである。一般には、この二つを同一のものとしてゐるが、大體だいたいおいて、二種に分れ、品部ともべは、工業・林業・農業などに從事じゅうじした。部曲かきべの方は、はつきりしないが多數たすうで、豪族中の横著おうちゃくなものは、品部ともべの民をかすめ取らうとしたことさへもあつた。以上は、大化たいか改新かいしんと共に、一時はいせられたのである。

〔註二〕田莊 田莊たどころ氏族しぞくの所有地で、「たどころ」とも、「なりどころ」ともつた。その起原きげんについて考へると(一)開墾かいこんによつて得たもの、(二)軍功ぐんこうによつてたまわつたもの、(三)氏族しぞく本來ほんらい占據せんきょしたものなどがある。どの氏族しぞくも、例外なく、氏人うじびと及び部民べのたみを使用して土地開拓につとめ、その所有する土地をひろげる事に意を注いだ。蘇我そ が物部もののべ大伴おおともなどの大氏おおうじは、いずれも廣大こうだいな土地を有して、威勢いせいを示したのである。かうして中には、數萬頃すうまんけいの田を獨占どくせんしたものさへ出來た。

〔註三〕祿を重くす この時にどの氏族しぞくにどれ程の戸數こすうあたへたかは判明しない。土地私有を禁ずると口丈くちだけで言ふのは容易だが、實際じっさいは困難なことだつた。明治めいじ維新いしんの時廢藩はいはん置縣ちけんを決定したのち、各藩主はんしゅにそれぞれ祿高ろくだかおうじた金額しくは株券をたまわはつた如く、この時も國有こくゆうを原則として、きゅう大氏族だいしぞく經濟けいざい方面は⻝封しょくほう下賜か しするといふことで始末を付けようとされた、『日本經濟史けいざいし』(竹越與三郞著)に「大化たいか改新かいしん大要たいよう」として、本詔ほんしょう關係かんけい深き事を中心として記述してあるのが參考さんこうとなるからこれを引用する。

孝德こうとく天皇の時、始めて年號ねんごうを建てて大化たいか元年とし、所謂いわゆる大化たいか改新かいしんまつりごとなる號令ごうれいはっした。號令ごうれいによれば、

(第一)從來じゅうらい天皇が、その皇子おうじ妃嬪きひんを記念せんがためとしょうして、子代こしろたみもしくは屯倉みやけしょうする御料地ごりょうち御料民ごりょうみんを設置したるをはいし、またおみむらじ伴造とものみやつこ國造くにのみやつこ大族たいぞく及び村のおびとが所有したる部民ぶみん及び田莊たどころはいし、臣連おみむらじ以下には各々おのおの⻝封しょくほう布帛ふはくとをあたふることとす。從來じゅうらい、全國の土地人民は豪族ごうぞくの間に瓜分かぶんせられ、土地は私有地となり、民は私有となりたる結果、臣僚しんりょう租稅そぜいを皇室にたてまつるの制あるも、はなはだ不備なるを以て、皇室の位置はただ此等これら大族たいぞく中の稍々や やだいなるものに過ぎず。いきおい子代こしろたみ、及び屯倉みやけしょうする私民しみん私領しりょうを設定せざるべからざるに至りしを以てなり。今この號令ごうれいによれば、一切の人民と土地とを國有こくゆうとし、朝廷の官吏かんりには別に⻝封しょくほう布帛ふはくとをあたへ、朝廷には全國より一定の租稅そぜいおさめんとするものにして、ここに至りて始めて朝廷は政府の形を具備ぐ びし、皇室は帝王のたいを備ふるに至り、國は一の國家こっかの形を備へたりとふべし。

(第二)京師けいしを中心として、東は名墾なはり横河よかわより、南は紀伊き い兄山せのやまより、西は赤石あかし櫛淵くしふちより、北は近江おうみ合坂山おうさかやまより以內を畿內きないと定め、國司こくし郡司ぐんじ關塞かんさい斥候せっこう防人さきもり驛馬えきば傳馬てんまを置き、鈴契れいけいを作り、山河さんがを定め、京にはぼうごとにおさにんを置き、四ぼうがっして一令人れいじんを置きて戸口ここう按檢あんけんし、奸非かんぴ督察とくさつせしめ、此令このれいおさとはこれを民より取ることを定む。

(第三)四十以上を有するを大郡たいぐんとし、三十里以下四里以上を中郡ちゅうぐんとし、三里を小郡しょうぐんとし、從來じゅうらい國造くにのみやつこなるものをはいし、其中そのうち淸廉せいれんにして、時務じ むを知る者を以て郡司ぐんじに任ず。郡司ぐんじわかつて大領おおみやつこ小領すけのみやつことし、郡司ぐんじもと主稅ちから主帳しゅちょうの二かんを置き、書算しょさんに通ずるものを以てこれに任ず。かくの如くして、國初こくしょ以來いらい村落そんらく郷里きょうりの中心たりし國造くにのみやつこ伴造とものみやつこ族長ぞくちょう制度は全く破壞はかいせられ、人材主義によりて新人をるの制度となれり。

(第四)從來じゅうらい戸籍なるものなかりしを、此時このとき始めてこれを定め、また租稅そぜいの如きも一定の量なく、こくを納むるの他、百しょう勞力ろうりょくを以てれ、したがつて收穫しゅうかく帳簿ちょうぼなかりしを此時このとき始めて計帳けいちょうを作り、租稅そぜいの量を一定す。田の長さ三十ひろさ十二を一たんとし、十たんを一ちょうとし、たんごとに租稻そとうそくれ、ちょうごとに租稻そとう二十二そくれしめ、また別に、各地の狀態じょうたいしたがつて、きぬあしぎぬ絲綿しめんうちの一をれ、その稅率ぜいりつは田一ちょうに、絹ならば幅二尺半しゃくはんにして長さ一じょうあしぎぬならば幅二尺半にして二丈をれしめ、また別に戸別調こべつしらべとして各貲布し ふじょうしゃくれしむ。また別に一百ごとに官馬かんば一匹をいださしめ、良馬りょうばならば二百ごとに一ぴきいださしむ。また從來じゅうらい、三十戸中こちゅうより一にん仕丁しちょうを朝廷にたてまつりしも、今後は五十に一にんいださしめ、その糧米りょうまいは五十にて分擔ぶんたんせしめ、各ぐん小領しょうりょう以上の者の姉妹及び子女しじょの容姿あるものより、一人ひとり釆女うねめと、これしたがふ男一人、女二人をみつがし、一百よりそのりょういださしむ。

(第五)人民をわかちて、良民りょうみん奴婢ぬ ひの二種とし、良男りょうなん良女りょうじょの間にれたる者は其父そのちちぞくし、良男りょうなんはしためによりて生む所の子は、其母そのははぞくして奴婢ぬ ひの種族にらしめ、良女りょうじょしもべによりて生む所の子は、父にぞくして奴婢ぬ ひの種族にらしむ。兩家りょうけしもべはしためとの間に子をまば、子は母にぞくせしめ、寺家じ か仕丁しちょうが生む所の子は、一に良民りょうみんおきてを適用するも、仕丁しちょうが身をつて奴婢ぬ ひとなりし時は、奴婢ぬ ひおきてを適用す。」

【大意謹述】過去に於ける歷代れきだいの諸天子てんしが制定された皇族の私有地、處々しょしょにある公田こうでん、及び諸方にほうぜられた諸皇子おうじの子孫、臣連おみむらじたち各おさや各國の長官や各村のおさなどが所有せる土地と部民ぶみん、更に諸處しょしょにある功臣こうしんなどの受領地じゅりょうちすべてを、今囘こんかい廢止はいしし、一切を皇室の所有とする。

 およ國司こくし以上の地位にある者は、ちんが民を治めるために任命したのである。したがつて誠心せいしんを以て擔當たんとう區域くいきを治めるならば、土地の者も萬事ばんじその者に心服しんぷくして手賴た よるに相違そういない。今囘こんかい國司こくし以上にそれぞれ差等をつけて各から納める租稅そぜい附與ふ よするのは、全く各地方の人民をちん撫愛ぶあいするからで、く統治の任を全うせしめようと考へるからだ。

【備考】明治めいじ維新いしん種々しゅじゅてんで比較されてをり、氏族しぞく制度を打破したとはるる大化たいか改新かいしんの主要てんを、現在の諸學者がくしゃ如何ど う見てゐるか、瀧川たきがわ政次郞せいじろう氏は『日本社會しゃかいがく』に於いて、(一)主權しゅけんの所在を明らかにして、天下の諸氏しょしは皆一よう天皇臣隷しんれいなることを宣言した。(二)諸氏の私有してゐた土地・人民を收公しゅうこうして公地こうち公民こうみんとなし、とう均田法きんでんほうならつてその地を平等に人民に班給はんきゅうした。(三)中央集權しゅうけんによる行政組織を定め、又唐法とうほうならつて租庸調そようちょうなる租稅そぜい制度を定めた、と論じてゐる。これにしたがへば、(一)天皇主權しゅけんの確立、(二)土地私有の禁、(三)租庸調そようちょう制度が三大特色としてかぞへられてゐる。

 次に白柳しらやなぎ秀湖しゅうこ氏の『日本經濟けいざい革命史』には第四節の「大化新制の綱領こうりょう』に於いて、(一)土地の公收こうしゅう、(二)技術奴隷の解放及び筋肉奴隷の私有制維持、(三)身分と官職と區別くべつしたことを論じ、この三眼目がんもく實行じっこうすべき行政組織として、(一)行政區劃くかくを立てて地方官を置く、(二)戸籍を作り班田はんでん收授しゅうじゅの法を設け租稅そぜいの法を定む、(三)衣冠いかん及び姓序せいじょの制定をしたことをあげてゐる。

 拙著せっちょ『日本思想十六こう』では改新の三眼目がんもくげて、(一)國民の政治的解放、(二)國民の經濟けいざい的解放、(三)新國家の成立とし、これは大氏族だいしぞく問題の解決を直接原因として起り、かねて政治上の理想を具體ぐたい化する目的があつたむねあきらかにし、思想上からの考察を加へた。今ここ參考さんこうとしてかかげる。

 すなわち「それは皇室中心主義を基調とし、儒敎じゅきょう精神せいしんを主要素としたものであることに氣付かざるを得ない。學者がくしゃのうちには、大化たいか改新かいしんの主要素として佛敎ぶっきょう精神せいしんげ、あるいは皇室中心主義を基調とせることを忘れて、ただ支那し な政治、支那し な制度の模倣もほうにすぎぬと解釋かいしゃくせるが如きものがあるのは、すこしく見當けんとうちがひの感がある。太子たいし憲法には佛敎ぶっきょう精神せいしんあきらかに見ゆるけれども、大化たいか革新かくしんには佛敎ぶっきょう的なところはない。すなわ佛敎ぶっきょうの平等主義的な心を主としたてんほとんど見えない。その經濟けいざい生活上の平等化をしての共產きょうさん主義的思想の實現じつげんは、支那し なからまなんだてんこそあれ、佛敎ぶっきょうからまなんだところはない」とし、「更に大化たいか革新かくしん支那し な制度の模倣もほうにのみすることもまたあやまつてゐる。すでに革新の大詔たいしょうに於いて、皇室中心主義を闡明せんめいし、進んで大氏族だいしぞく跋扈ばっこせいするめ、種々しゅじゅ畫策かくさくせられたことが日本にっぽん實情じつじょうそのものに適應てきおうしたものであり、人民、土地の一切を皇室のもとに直屬ちょくぞくせしめんと計つたことも、また我が國特有のかたから生じたものと考へる。それから八しょうかんの制も、ただ名は隋唐ずいとうに似たものがあるけれども、彼我ひ が歷史れきし對照たいしょうしてそのよろしきをせいし、必ずしも隋唐ずいとう模倣もほうにのみしたのではなかつた。班田制はんでんせいとても大分だいぶ日本にっぽん的に考へ出されたてんがある。それらを考へると、ただ皮相ひそう的に支那し な文化を崇拜すうはいして、それらに盲從もうじゅうしたものでないことが知れる」

と述べて置いた。

 要するに改新かいしんの主要てんは、皇室中心主義のもとに國民に向つて政治經濟けいざい方面の解放を實現じつげんするのが目的で、その手段として當時とうじ支那し な制度を參酌さんしゃくし、土地私有の禁、班田はんでん收授しゅうじゅ租庸調そようちょうを整理し法令ほうれい化したのである。